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大会回数早見表

00/12/17作成
14/02/22更新

◆業界?人必須アイテム、かどうか知りませんが、各大会の大会回数と年号を対照しました。


◇早見表

「68回センバツ」と言われて何年前の大会かすぐに浮かぶ人は少ないと思うのだが、とくに高校野球では何年の大会と言わずに何回大会と表記されるケースが目立つ。もともと西暦と元号が混在しているだけでも紛らわしいのに、それに輪をかけようという魂胆らしい。

「ややこしい呼び方をするな」と言いたくなることがよくある。まあ、たしかに年号より大会回数のほうが都合のいいこともある。個人的には、せめて両者を併記してほしいと思っている(私自身は極力そうしている)けれども、そういうわけにもいかないのが現実だろう。

仕方がないので、年齢早見表をヒントにして、93年ごろにつくったのが大会回数早見表だ。「これは便利だ」と思う人はたぶん少ないだろうが、私は重宝している。ちょうど印刷したものがどこかに紛れてしまったし、いちいち表計算から呼び出すのも面倒な話なので、ここに収録しておく。ついでにプロも加えてみた。

▲再稼働にあたり、このページに掲載していた「年号・大会回数対照表」をPDF化しました。必要に応じて、別タブあるいは別ウインドウでご覧ください。

日本における野球の起源について、佐山和夫『ベースボールと日本野球』(中公新書)に、次のような記述がある。(47ページ)

明治5年(1872)、現在の東京大学の前身である第一大学区第一番中学でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンが学生たちに教えたのが最初だった。この学校の名称や組織編成はこの前後には変更を重ねていて、大学南校、開成学校、東京開成学校、第一高等中学校となるが、今の東大であることにかわりはない。

この1872年説が定説のようだが、同書では熊本洋学校のほうが早かった可能性も指摘されている。ただ、同校はほどなく閉鎖されたそうなので、19世紀日本における野球の「主役」は紛れもなく東大だったことになる。日本の野球は(現在の)大学から始まったわけだ。

19世紀中に野球部ができたのは、東大のほかに、現在の明治学院大、青山学院大、慶応大、一橋大などのようだ。駒場農学校と工部大学校にも野球部があったそうだが、前者は現在の東大農学部で、後者は東大工学部なので、「主役」の座は揺らがない。

早慶戦は1903(明治36)年秋に始まっており、早慶戦が中断した1906年には旧制一高と旧制三高との対抗戦も始まっている。同書には、大学生が夏休みなどを利用して、母校や地方の高校に野球を教えに行ったという記述もある。

現在の高校では、2001年センバツに出た安積高校が、1890(明治23)年の野球部創部とされている。当時は、まだ「野球」という言葉が存在していないので、「ベースボール会」と名乗っていたようだ(中馬庚が「baseball」に「野球」なる訳語を使用したのは1894年)。

秋田高校は1894年(諸説あり)、岡山の関西高校は1895年の創部とされている。甲子園の出場経験はないが、福山市の誠之館(せいしかん)高校は1893年創部だそうだ。

◇系統発生

1901(明治34)年には、旧制三高(京大の前身)の主催で関西地区の高校の大会が開かれている。この大会は、冬休みを利用した年末開催だったようだ。

また、翌1902年には愛知一中(現・旭丘高)の音頭で、東海五県(愛知・三重・岐阜・静岡・神奈川)大会が始まっているようだ。旧制二高(東北大の前身)も東北大会を主催していたという。つまり、20世紀の始めには、こうした大会が開ける程度に、(現在の)高校でも野球が普及していたことになる。

ただ、安積高校が夏の大会(当時は「全国中等学校優勝野球大会」)の予選に参加するようになったのは、第8回大会からだ。同様に、19世紀中に創部されたはずの東奥義塾、八戸、鹿児島商なども、1915年の第1回大会には参加していない(青森大会は第8回から、鹿児島大会は第7回から始まっている)。

ちなみに、慶応高校は安積より早い1888年創部とされている。だが、1888年とは三田ベースボール倶楽部が組織された年であって、慶応大学が1888年創部を主張するのは当然としても、慶応高校も1988年創部と言われると私としては???だ。

まあ、何をもって「創部」とするかは、なかなか難しいところだ。しょせんは「自称」の世界に入ってしまうからだ。それに気づいて、私は「最古」を探ることをあきらめた。

さて、1878年に設立された新橋アスレチックスは、プロでもなく、かといって学生でもないので、社会人チームの起源ということになりそうだ。ただし、このチームの対戦相手は横浜の外国人チームだったり、学生チームだったりで、まもなく解散している。現存する社会人野球チームでは、19世紀中に創部したチームはないものと思われる。

日本最初の「プロ」球団は1920年の日本運動協会であり、大日本東京野球倶楽部の結成は1934年なので、歴史的には大学→高校→社会人→プロの順になるのだろう。私の場合、興味を持った順番は、プロ→高校→大学→社会人だった。

「個体発生は系統発生を繰り返す」と言うけれども、野球ファンの場合、個体発生が系統発生を繰り返すことは、まずありえない。この国の野球を取り巻く環境の不幸は、案外そういうところに起因するのかもしれない。

アマ各団体のWebサイト中、沿革や歴史に関するページへの外部リンクです。
公益財団法人全日本大学野球連盟沿革
一般財団法人東京六大学野球連盟東京六大学野球連盟について
公益財団法人日本学生野球協会沿革
公益財団法人日本高等学校野球連盟選手権大会大会小史
選抜大会大会小史
公益財団法人日本野球連盟日本野球連盟について
公益財団法人全日本軟式野球連盟沿革
日本身体障害者野球連盟歴史と概要
公益財団法人日本ソフトボール協会JSAの歩み
 (日本身体障害者野球連盟は03/12/21許諾済、他は未通知。14/01/18リンク確認)

幻の大会

高校野球の選手権大会は、1941年の第27回大会が中止になっている。(当時の)文部省が「全国的運動競技会開催中止命令」を出したためのようだ。神田順治『高校野球の事典』(三省堂)によれば、地区予選が終了していたのは、次のとおりだ。東京、大阪、台湾、満州はこれで確定だったと思われる。

札幌一中(札幌大会) 帝京商(東京府大会) 膳所中(滋賀県大会) 大分商(大分県大会)
青森工(青森県大会) 横浜商(神奈川県大会)畝傍中(奈良県大会) 宮崎中(宮崎県大会)
山形商(山形県大会) 島田商(静岡県大会) 平安中(京都府大会) 熊本工(熊本県大会)
仙台二中(宮城県大会)韮崎中(山梨県大会) 日新商(大阪府大会) 鹿児島商(鹿児島県大会)
下野中(栃木県大会) 長野商(長野県大会) 関西中(岡山県大会) 沖縄二中(沖縄県大会)
桐生中(群馬県大会) 岐阜商(岐阜県大会) 米子中(鳥取県大会) 清津水産(北鮮大会)
水戸商(茨城県大会) 金沢商(石川県大会) 高知市商(高知県大会)嘉義中(台湾大会)
大宮工(埼玉県大会) 敦賀商(福井県大会) 長崎商(長崎県大会) 天津商(満州大会)

また、同書によれば、翌42年に開かれた「学徒体育振興会大会」の出場校は次のとおりだ。優勝は徳島商だという。

福岡工(北九州)徳島商(四国) 松本商(中部)広島商(西中国)
敦賀商(北陸) 京王商(南関東)一宮中(東海)北海中(北海道)
海草中(近畿) 滝川中(東中国)平安中(京都)仙台一中(東北)
台北工(台湾) 水戸商(北関東)市岡中(大阪)大分商(南九州)

この大会は朝日新聞社の主催ではなく、文部省とその外郭団体「大日本学徒体育振興会」の主催であるため、選手権大会の回数にはカウントされていない。「幻の甲子園」と呼ばれるゆえんである。同年、この名称でおこなわれたのは野球だけではないようだ。すくなくともサッカーも「学徒体育振興会大会」が開かれている。

同書には、旧制三高が主催していた近畿大会が経費の面で行き詰まったために、関係者が朝日新聞社に話を持ち込んで「第1回中等学校優勝野球大会」が開かれるようになったとの記述もある(188ページ)。夏の選手権大会が朝日と(現在の)高野連との共催になるのは、中等学校野球連盟が組織された戦後の話だ。

全日本野球会議

▼「3代目んだ」に08/08/15付で「全日本野球会議」と題して記したものです。その関係で「です・ます」体ですのでご容赦ください。

「全日本野球会議」ができたのは199何年だっただろうかと、Wikipediaを覗いてみたら、ぶっ飛びました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/全日本野球会議(08/08/15当時の記述です。現在は改められています)

日本の野球界は明治期にプロ・社会人・学生・軟式野球の4組織がそれぞれ独立して組織された。また、戦後もそれぞれが独立して運営され、発展してきたという歴史的な経緯があり、

明治期にプロ! そんな話は聞いたことがありませんけど…。日本最初のプロ球団は1920年(大正9年)の日本運動協会(芝浦協会)であり、現在の読売ジャイアンツに連なる大日本東京野球倶楽部の結成は1934年(昭和9年)です。

また、全日本軟式野球連盟のWebサイトには次のように記述されています。

http://www.jsbb.or.jp/outline/index.htm(08/08/15当時のURLです。14/01/18現在はhttp://jsbb.or.jp/outline/historyです)

大正8年糸井浅次郎、鈴鹿栄両氏は少年に適し硬式のように危険がなく、しかも少年たちに野球の指導が容易にできるボールにしたい着想から研究努力した結果、現在使用されているボールが誕生し、

これを信じる限り、明治期には軟式ボールそのものが存在しなかったと思われますので、軟式野球の組織もなかったに違いありません。

ついでに言えば、都市対抗野球大会は1927年(大正2年)に始まっています。日本野球連盟の前身・日本社会人野球協会は戦後にできた組織であって、戦前の都市対抗は毎日新聞社が単独で主催していました。明治期に社会人野球の組織があると言うのなら、何年にどういう名前の団体ができたのかぜひ教えてほしいものです。

学生に関してはいささか微妙です。東京六大学は大正末期に発足していますが、明治時代にはすでに早慶の定期戦がおこなわれています。「組織」ではなかったにせよ、その萌芽は認められます。

まあ、高校については、日本高野連の前身・全国中等学校野球連盟が設立されたのは戦後であって、戦前はやはり新聞社の(単独)主催です。明治期にはまだ「組織」と呼べるものはなかったのではないかと思われます。

▲Wikipediaには改版履歴が残っており、いつ誰がどこをどう変えたか遡ることができるようになっています。私が「んだ」に書いたわずか5日後の08/08/20付でミッドランドライダーさんによって「明治期」の文言は削除されていることを確認しました。


◆1941年当時の高校野球選手権大会の地区割りは、「地区割りの変遷」をどうぞ。1941年は都市対抗も中止になっていますが、本大会出場チームはすべて決まっていました。→「都市対抗チーム別通算成績」

外部リンクです。
四国放送おはようとくしま徳島の20世紀高校野球の100年
 ウイニングボールの写真や、当時の稲原幸雄監督と加藤順二投手のインタビューが掲載されています。また、徳島新聞社のWebサイトによれば、試合中に召集令状の呼び出しがおこなわれていたようです。(P未通知、05/04/19設定)
こだわり高校野球高校野球 大会回数早見表(地区大会バージョン)
 拙サイトは、基本的には私自身のためにつくっています。私にとって便利なものは、ほかの誰かにとっても便利かもしれないのです。もちろん、不要な人が圧倒的多数でしょうが…。いずれにせよ、このページの「早見表」は、私には欠かせないものです。と、書いていたら、上のようなWebページができていました。うっ。高校野球の春と秋の地区大会の早見表です。なお、国体は別のページに収録されています。地区大会でややこしいのは、関東のように春と秋は別々に数えるところと、九州のように春と秋を通算して数えるところがあることです。(06/01/03通知済)

◆このページの最終更新は内部リンクの変更によるものです。変換ミスや事実誤認、リンク切れなどにお気づきの際は、「4代目んだ」(年号・大会回数対照表)または「メールのページ」からご一報いただけると幸いです。

★07/01/28校正チェック済、ケなし、順OK
★08/08/15HTML文法チェック済(brタグの連続、98点)、14/02/16(エラーなし)



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