丼池はどこにあったのか?

「丼池」は大阪難読地名の三役クラスです。「どいけ」と読みます。「丼」を「どぶ」と読めるものではありません。まして、ドブ川の「どぶ」がそのまま正式な地名になるという自虐的な発想がなかなか出てきません。

この「丼池」なる池は実在していたようです。小学館「デジタル大辞泉」は次のように記述しています。

大阪市中央区南船場にあった池。明治7年(1874)に埋められた。池に面していた丼池筋には第二次大戦前は家具問屋、戦後は繊維問屋が密集。旧名、芦間池(あしまいけ)

コトバンク「丼池」

明治初期に埋められてしまったドブ池は、いったい南船場のどこにあったのでしょうか。丼池筋沿いであることは確定です。丼池筋は御堂筋の2本東を南北に走る通りです。

御堂筋の1本東は心斎橋筋であり、夜間以外は歩行者専用道路のアーケード付き商店街です。ここには訪日外国人相手のドラッグストアが林立しています。お隣の丼池筋はさほど特徴的というわけでもありません。

今は撤去されていますが、大阪初のアーケードは丼池筋だったそうです。大阪船場丼池筋連盟は1954年に設立された丼池問屋街協同組合を引き継ぎ、本町3丁目から南久宝寺3丁目までの500mの区間を「丼池ストリート」と称しています。

地図上の緑の線が「丼池ストリート」です。赤のマーカーは、本来のテーマである芦池(女子)商の跡地です。今は消滅した高校の所在地を探しているうちに、私は明治初期に埋められた丼池を探す羽目に陥ったのでした。

江戸時代の古地図を眺めてもそれらしき池は見当たりません。スマホに「大阪こちずぶらり」をインストールしてみましたが、やはり丼池筋沿いに池を見つけることができません。

そうこうするうちに、ピンポイントで丼池の所在地を示しているWebページが見つかりました。

「どぶいけ」というのは大阪市のど真ん中にある街・船場(せんば)の繊維問屋街のなかにある商店街です。漢字で書くと「丼池」。一角というか、南北に通っている道筋のことです。現在は埋め立ててありませんが大阪大空襲の1トン爆弾の炸裂跡「丼池」が戦後久宝中学となり現在は久宝公園として残っています

船場 小野利>船場 小野利 の紹介

明治初期に埋められた丼池のほかに、もう1つの丼池が1945年3月の大阪大空襲によって出現したようです。丼池筋沿いの爆弾跡が(第2の)丼池と呼ばれても不思議ではありません。引用元のページでは画像も公開されています。

大阪市街地に落とされた1トン爆弾は直径60cmで長さ180cmだそうです。数10m規模のちょうど丼のような穴が生じたでしょうし、やがて雨がたまってドブ池になったのかもしれません。ただし、丼池筋の名称は戦前の地図にも散見されます。

難波藁師(なにはやくし)塩町心斎橋車町にあり。
本尊薬師仏は弘法大師の作にて、長五寸三歩。古は天台の仏院にして難波薬師堂と号す。
年久しく荒廃に及んで、本尊も民家に伝はり、近世ここに安置す。毎月八日・十二日、宵薬師とて法会あり。
現成地址(げんじょうちのあと)この地に井あり。むかしは広き池にして巡りに片葉の芦を生ず。今什物とす。
とぷ地と称ずるはこの池の名なるペし。

摂津名所図会>巻之四 大坂(おほさか)の号>難波薬師

このページには地図も添えられています。赤丸がついているのは、芦池(女子)商跡地から2つ南の区画でした。住居表示では南船場3丁目5番のブロックです。

大阪市立芦池女子商業学校は1944年の設立です。国策により男子の商業校は主に工業校化するわけですが、その埋め合わせで女子の商業校が開設されるのは当然のことなのかもしれません。

今の南船場3丁目にあった国民学校の校舎が芦池女子商になります。芦池女子商は1948年の学制改革で芦池商高になりますが、同年より住吉商高が同居し、2年後には住吉商が芦池商を吸収、その2年後には8km南の元の校地に移転します。

「庇を貸して母屋を取られる」のではなく、「庇を貸して母屋から追い出される」という憂き目にあったことになります。もっとも芦池商の校舎・校地を受け継いだのは大阪市立芦池小学校ですから、元に戻っただけとも言えます。

芦池小は1987年に大宝(だいほう)小、道仁(どうにん)小との3校統合で、南小となります。南小は大宝小の校地に開設されましたので、芦池小の校地は空いたわけですが、次の「入居者」は丼池筋を挟んで隣接する南幼稚園でした。

2013/09のストビューです。鉄扉越しに小学校の石碑を確認することができます。校舎は取り壊され、一角には地域住民のための南船場会館が建てられています。幼稚園のグラウンドとして使われているようです。

ひっそり散った桜花女子商

あまりに話が重いのでページを分けることにしました。名古屋の桜花学園高は女子バスケットボールやハンドボールの強豪校として知られています。同校の校名は次のように変わっています。

  • 1923 桜花高等女学校
  • 1941 桜花女子学園
  • 1948 桜花女子学園高等学校
  • 1955 名古屋短期大学付属高等学校
  • 1999 桜花学園高等学校

女子バスケ部が頭角を現すのは1980年代後半であり、「名短」の時代です。この30年で半数以上の全国大会を制しています。学校自体は1903年に設立された「桜花義会看病婦学校」が起源ということになっています。

学校法人桜花学園のWebサイトには次のように記載されています。「桜花女子商」は1943年設置で1945年廃止のようです。

明治36年 桜花義会看病婦学校 創立
大正12年 桜花高等女学校 創立
大正13年 桜花高等技芸学校創立
昭和14年 名古屋商業実践女学校 創立
昭和18年 名古屋商業実践女学校を昇格し、桜花女子商業学校 設置
昭和20年 同校 廃止
昭和23年 桜花女子学園中学校 設置
      桜花女子学園高等学校 設置

学校法人桜花学園「沿革」

一方、桜花学園高校Webサイトの記載は次のとおりです。当然といえば当然ですが、「桜花女子商」や「技芸学校」に関してはノータッチです。

明治36年 桜花義会看病婦学校
大正12年 桜花高等女学校
大正13年 師範科・高等師範科・中等教員養成所
昭和16年 桜花女子学園
昭和18年 (専攻科)付属幼稚園
昭和22年 桜花女子学園中学校
昭和23年 桜花女子学園高等学校

桜花学園高等学校「沿革」

「桜花女子学園中学校」の設置が前者では1948年ですが、後者では1947年になっています。新制中学は1947年スタートです。1年遅れで設立された可能性は低かろうと思われますので、後者が正しいはずです。

肝心の「桜花女子商」ですが、国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている商業学校台帳によれば1944年4月開校となっていますので、MAPでは1944年開校で1945年閉校として扱いました。

【外部リンク】
国立公文書館デジタルアーカイブ>商業学校台帳(北海道~京都)>愛知 桜花女子商業学校

コードネームはBAKA

昨日4月5日の最高気温1位は埼玉県の鳩山でした。1月以降、最高気温1位は沖縄と父島で独占されていましたが、ようやく本州内陸部から最高気温1位が出る季節になったわけです。

そう言えば今日のお昼時、親子連れと思われる3台の自転車が私の進行方向を塞いでいたのでした。カゴのトートバッグにはおそらく弁当やシートが装備されていたのでしょう。名所ではありませんが、近くに桜の咲いている公園があります。

さて、旧日本軍の戦闘機でもっとも有名なのは零戦です。零戦は「零式艦上戦闘機」の略ですが、ほかの戦闘機は海軍が紫電や紫電改、陸軍が隼、飛燕、疾風などの愛称で呼ばれています。いかにも、という名称です。

戦闘機ではありませんが、計78機が出撃したという「桜花」は滑空式の特攻兵器です。なぜ「桜花」の名称になったのか、Wikipediaには秘匿の意味合いと記述されていますが、やはり「花と散る」の慣用句に連想は走ります。

全長6mで全幅5mの1人乗り、脱出装置なし、総重量の半分が爆弾、着陸用の車輪なし、不時着(水)で帰還できるのがむしろ不思議なほどです。米軍のコードネームは「Baka Bomb」ということです。

【外部リンク】 戦争証言アーカイブス>“人間爆弾” 桜花 ~第721海軍航空隊~

名古屋市立の商業高校

年度が変わってしまいましたが、商業高校MAPを再開します。名古屋市立の商業高校は女子商を含めて5校です。

Commercial Academyの頭文字「CA」を校章化していることで有名な名古屋商は、1984年に愛知県立の名古屋商業学校として開校し1890年に市立移管されています。

名古屋商は戦時転換でも商業校のまま存続しますが、敵性言語である「CA」の校章は1943年に廃止され、1948年10月には第二高校(←第二高等女学校)との統合で向陽高となります。

1953年に「名古屋市立商業高等学校」として独立、現在の「名古屋市立名古屋商業高等学校」に名称変更するのは1957年です。すでに県立高校では商業科が全廃されており、愛知県内の公立高校で商業科を持つのは名古屋商のみとなります。

第二商から第四商は戦時転換で市立工芸学校とともに4校統合され、市立第一工業学校、市立第二工業学校、市立女子商業学校に再編されています。したがって、ピーク時に市立商が5校あったというわけではありません。

名古屋市立西陵高等学校のWebサイトには次のような記述があります。

昭和19年4月 本校内に名古屋市立第二工業学校が開校される(第二商業の2年生が第二工業の学生として勤労動員、昭和21年に第二商業4年に復帰)

名古屋市立西陵高等学校「沿革」

第二商の校地には第二工が開校したようですが、Wikipediaの記述では第一工となっています。

1944年(昭和19年)4月1日 – 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、「名古屋市立第一工業学校」・「名古屋市立女子商業学校」に転換

Wikipedia「名古屋市立西陵高等学校」

第一工でも第二工でも構いませんが、もう1つの工業校は南区熱田西町の工芸校に開設されたのではないかと思われます。施設の観点から第三商や第四商が第一工になったというのは考えにくい話です。

1944年の実際の「授業」は軍事教練と防空壕掘りと芋づくりだったようですが、工芸高校のWebサイトには次のように記述されています。

昭和19年03月31日 図案印刷科、木材工芸科を廃止、金属工作科を金属工業科に改称する。西区児玉町に名古屋市立第二工業学校として、建築科、土木科、造船科を設置する。

名古屋市立工芸高等学校「学校沿革」

というわけで、現在の西陵高校の敷地にできたのは第二工が正解のようです。同ページによれば戦時転換前の工芸校には7つの学科がありました。

  • 図案科→工芸図案分科→図案科→図案印刷科(廃止)
  • 建築図案分科→建築科(第二工に継承)
  • 金工科→金属工芸科→金属工作科(金属工業科に改称、第一工に継承)
  • 木工科→木材工芸科(廃止)
  • 精密機械科(第一工に継承)
  • 電気科(第一工に継承)
  • 工業化学科(第一工に継承)

改称した金属工業科は第一工が引き継いだことになるはずです。記述のない下の3科も同様です。第一工は今の市立工業高校に連なります。

戦後、第二工は第二商に戻り1948年の学制改革で名古屋市立第二商業高等学校となりますが、同年10月の再編で名古屋市立第一高校(←名古屋市立第一高等女学校)と統合され、名古屋市立菊里高校になります。中学生日記の高校です。

第三商は、学制改革で名古屋市立南商業高校に、10月の再編では名古屋市立春日野高校(←名古屋市立第四高等女学校)との統合で名古屋市立桜台高校になっています。

第四商については、そもそもどこにあったのかさえわかりません。また、第二商、第三商、第四商、工芸が統合再編された結果として成立した女子商は、学制改革で名古屋市立女子商業高校となり、1948年10月の統合で西陵高になっています。

第二商の校地に新設された西陵高校は、自身のWebサイトで3校統合と記述しています。

昭和23年10月1日 学校統合により名古屋市立第一工業高等学校、名古屋市立工芸高等学校、名古屋市立女子商業高等学校の3高校が統合され、旧制名古屋市立第二商業学校の校地に「名古屋市立西陵高等学校」が新設

名古屋市立西陵高等学校「沿革」

一方、Wikipediaの「名古屋市立西陵高等学校」では4校統合です。

10月1日 – 高校三原則に基づく公立高校再編によって、4校が統合され、「名古屋市立西陵高等学校」となる。

Wikipedia「名古屋市立西陵高等学校」

困ったことに、工芸高校のWebサイトは計5校の統合であると主張しています。

昭和23年09月30日 本校他四校が統合され、西陵高等学校が新設される。

名古屋市立工芸高等学校「学校沿革」

ひょっとすると真実は1つではないのかもしれませんが、今回の私のミッションは商業高校の最終所在地をMAP化することです。何校が統合しようが、究極的には関係ありません。

さらに面倒なことに、この西陵高は1957年に西陵商業となり、2005年に西陵高に戻っています。以上、このページに登場する名古屋市立の商業校は次の6校となります。

  1. 名古屋市立名古屋商業高校(商業高として現存)
  2. 名古屋市立第二商業高校(最終所在地は現・西陵高、MAPでは菊里高)
  3. 名古屋市立南商業高校(MAPでは桜台高)
  4. 名古屋市立第四商業学校(戦前。最終所在地不明、MAPでは西陵高)
  5. 名古屋市立女子商業高校(最終所在地不明、MAPでは西陵高)
  6. 名古屋市立西陵商業高校(現校地)

【外部リンク】
名古屋工芸会報第43号(8ページ「戦争に振り回された学び舎の変遷」)