四万十市中村の天神橋商店街、幻の天神橋はどこに?

四万十市にも天神橋商店街があります。アーケードは155mほどです。町域名は「中村天神橋」ですので、2005年の合併前は「中村市天神橋」だったはずです。アーケードの切れ目に一條神社の鳥居があり、一條神社の境内には天神社があります。ただ、天神橋が見つかりません。そもそも川が見当たりません。

四万十市の中心街は、西の四万十川と東の後川(うしろがわ)に挟まれています。市街地から四万十川や後川に注ぐ川はありません。天神橋はどこにあったのか、天神橋が架かっていた川はどこからどこに流れていたのか、が今日のテーマです。

四万十市中心部
四万十市中心部(地理院タイルを加工)

赤のマーカーが現在の天神社の位置、紫の枠線内が「中村天神橋」の町域です。4つの青のマーカーは樋門です。天神橋が架かっていた川はこの4つのどこかに注ぎ込んでいたものと推測されます。さて、一條神社境内の天神社は、1953年(昭和28年)に現在地に移転しているようです。

昭和28年、 天神山を切り取って市役所を建設した際、一條神社境内に移築され、 昭和48年、 いまの社殿に全面改築されました。

「広報四万十」2012年1月号>23ページ 歴史の窓「天神社」

1954年3月に11町村が合併して中村市が成立しています。市役所建設のため、高台にあった天神社は一條神社に引っ越したということのようです。緑のマーカーが今の四万十市役所、当時の中村市役所の位置です。

天神社が置かれていたから天神山と呼ばれるようになり、天神社に行く途中に架かっていた橋だから天神橋と名付けられたはずです。ピンクのマーカーは中村城の本丸跡です。当然のように起点は中村城であろうと思われます。中村城から天神社に向かう手前に架かっていたのが天神橋だったはずです。

 中央座が中村の大衆娯楽の殿堂 (芝居小屋) として、いまの愛宕町につくられたのは大正5年です。
 小屋の入口の写真に 「大正6年 活動大寫眞」 の看板が見えますので、 芝居だけでなく、 映画も上映していたようです。 冬場は、 客席座敷中央の囲炉裏を囲んで楽しんだといいます。
 小屋の前には、 天神山 (いまの市役所) を源流とする天神川が流れ、 近くに天神橋 (いまのアーケード内コンビニ前) がかかっていました。

「広報四万十」2013年4月号>9ページ 歴史の窓「中央座と中劇」

今日の疑問に対するほぼストレートな回答が見つかりました。現在の中村愛宕町の町域は中村天神橋に隣接しています。天神橋が架かっていた川の名前はそのままの天神川でした。商店街にはローソンが現存します。天神川は緑のマーカーから黄色のマーカーを経由して北上し、後川に注ぎ込んでいたものと推定されます。

四万十市の消滅した天神橋

ピンクのラインは暗渠です。2014年1月撮影のストビューを埋め込みました。右の歩道部分が暗渠です。天神川は今のローソン四万十中村天神橋店前を経由してピンクの暗渠を北上し、後川に合流していたのでしょう。

後川橋から中村城方面を見たときのストビューです。2018年7月撮影のものです。山頂付近に見えるのは中村城ではなく郷土資料館です。樋門のある場所の堤防の内側(街側)はポンプ場です。右に見える建物は中村高校になります。

天神山から一條神社に移った天神社ですが、勧請元の京都五條天神は「てんしん」の読みです(境内社として筑紫天満宮を抱えています)。中村の天神社が「てんじん」なのか「てんしん」なのかは確認できませんでした。菅原道真を祭神に加えたのは江戸時代のことのようで、撫で牛はいません。商店街は「Tenjinbashi」です。

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