人間の比重は0.98
6月8日午後4時半頃、浜名湖の弁天島海浜公園(海水浴場は開設前)で溺れた小学4年生の救助を試みた41歳のブラジル人男性が死亡する水難事故が起きています。救助に向かった側が犠牲になるありがちなパターンです。小学生は釣りをしていた別の男性によって助けられました。
小学生が溺れたのは上のストビュー画像の防波堤突端付近(下の航空写真では赤矢印)です。おそらく渦が発生する場所で、急に深くなって陸に戻ろうとしても、足元が砂浜の傾斜で踏ん張りが効かず溺れたものと思われます。
人間の体の比重は0.98と言われています。着衣によって比重はさらに軽くなる理屈です。ジタバタしなければ浮くことから、溺れた場合には仰向けで大の字になって顎を上げる「背浮き」の姿勢で浮いて待つことが奨励されています。
パニック時に冷静でいられるわけではないでしょうが、両腕をむやみに上空に掲げて助けを呼ぶのはNGとされます。脱力した腕を水面下に置くことで、水面上に出るはずの貴重な2%を口と鼻に振り向けることができるからです。
防犯カメラ映像では小学生は50mほど潮流に流され、救助されたのは波打ち際近くの足がつきそうな場所です(緑矢印)。かなり早い潮流のようですが、浮いていられないほどの波が立っているようには見えません。
小学生が素直に流されればよかっただけのように思われます。2人の関係はたまたまその場に居合わせた他人ではなかったのでしょう。連れてきた責任感が働いたのかもしれません。
各地の弁天島
(北方領土を除く)日本最北端の島は弁天島です。宗谷岬の「日本最北端の碑」より高緯度です。
どうやら全国には100に迫るほどの弁天島があるようです。能登半島には6つ、小豆島周辺に4つあります。大半は港から容易に泳げるレベルのごく小さな島です。エンジェルロードのように今では埋め立てられて陸続きになっているケースも少なくありません。
稚内の弁天島のように1キロ以上離れている例はほとんどありません。有人島はおそらく浜名湖の弁天島だけだと思われます。
淡水湖だった浜名湖は1948年の明応地震と津波で砂洲が決壊して、今切口(いまぎれぐち)から海水が入り込みます。周囲が沈下・水没した結果、陸地として残ったのが弁天島です。古地図に見える弁天島は今の駅周辺だけの小さな島です。各地の弁天島と変わりません。
昭和初期に埋め立て
東海道五十三次では今切口を挟んで東が舞坂宿、西が新居宿で、両者の間は渡し舟による往来でした。西側の新居関所跡です。
弁天島駅の開業は1906年です(通年営業は1916年)。開業当時の弁天島は線路際にわずかに残っている程度でした。埋め立てが進んだのは1930年代です。
観月園と千鳥園の間にある中ノ島を加えて弁天島七島と言うようです。渚園と中ノ島以外は居住地域であり、戸建住宅も建っています。地盤面の最大標高は4m程度です。
M8.3前後とされる明応地震では、鎌倉大仏の大仏殿が津波で消失したとされています。大仏殿跡の標高は12mほどですから、その規模の津波では中高層建物に逃げ込むしかないようです。
千鳥園の津波避難タワーは中ノ島方面です。
乙女園西側の公園には避難マウンドが設けられています。ここに避難するときは相当に切羽詰まったときだけだろうと思われます。
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