下田から野島崎沖へ80キロを浮き輪で漂流36時間

野島崎にある野島埼灯台

内房と外房の境が房総半島最南端の野島(のじまき)です。もともと島だったのが1706年の元禄大地震による隆起で陸続きになったと言われています。

野島崎
野島崎(地理院タイル

灯台は野島灯台(のじまき-とうだい)です。観音の観音灯台に次いで国内で2番目に古い洋式灯台です。

野島埼灯台

灯台の所在地は「南房総市白浜町白浜」です。2006年に合併するまで安房郡白浜町でした。

野島崎の南南西11キロの海上(ピンクの✕印)で浮き輪で漂流していた20代の中国人女性を貨物船が発見し、別のタンカーの乗組員2人が海に飛び込んで救助したのは7月10日午前8時頃だったそうです。

36時間の漂流
36時間の漂流(地理院タイルを加工)

女性は7月8日午後8時前に下田市白浜の白浜大浜海水浴場(赤マーカー)から流されたということです。1955年まで賀茂郡白浜村だったところです。海水浴場は13日開設予定ということです。もしオープンしていても夜8時では監視員は引き上げているはずです。

相模湾横断80キロ

救助された女性が中国のどこの出身なのか報道されていません。内陸出身なら海は身近なものではないでしょうから、日没後の海で泳ぐことにあまり警戒心はなかったのかもしれません。

黒潮の潮流からすれば、中国人女性は下田から伊豆大島の北側を三浦半島に向かって北東に流され、その後は南東に房総沖まで漂流したものと思われます。9日の夜を迎えたときは絶望的な思いだったに違いありません。

9日の大島の天気
気象庁>大島(東京都)2024年7月9日(1時間ごとの値)

9日の大島(地図の青マーカー)では日照時間がゼロです。雨も降っていません。気温と水温がほぼ等しく直射日光をあまり浴びない条件は、浮き輪漂流による体力の消耗を防ぐには最適だったものと思われます。直射日光ギラギラなら目をやられそうです。

浮き輪1つですから必然的に飲まず食わずになりますが、眠り込んでしまうのも致命的です。陸が見えたときは自力で泳ごうとしたかもしれません。力を蓄えてじっと漂流することが正解とは限りません。

発見時は波が結構あったようです。夜間、大型船のスクリューに巻き込まれなかったのは幸いでした。新潟ではクーラーボックスと流木で24時間漂流したケースがあったはずですが、眠ったらアウトの状況で36時間はほぼ限界に近いと思われます。

白浜の紀州起源説はフィクション

ところで、「白浜」の地名は北海道から沖縄まで全国各地にあります。それぞれに由来があるのでしょうが、房総の白浜については和歌山の白浜との関係がまるで定説のように語られています。なぜか例外なく千葉県側からの発信であり、和歌山側からは語られません。

野島崎(地理院タイル

南紀白浜温泉は道後温泉や有馬温泉とともに「日本三古湯」と称されることがあります。万葉集には「牟婁(むろ)」の湯として登場するのであって、まだ白浜温泉ではありません。

江戸時代の紀州藩主も温泉を訪れたようですが、当時の温泉は今の湯崎温泉です。「白浜温泉」を名乗るようになったのは、白良浜(しららはま)付近に源泉が見つかった大正後期の1922年以降の話です。

1929年の昭和天皇行幸が白浜を冠する地元企業によって「白浜行幸」としてプッシュされ、1940年の町制施行とともに瀬戸鉛山村(せとかなやま-むら)が白浜町に自治体名称を変更します。

8代将軍の徳川吉宗は紀州藩主でした。吉宗が紀州から房総に移住させた漁師はいたかもしれませんが、移住した江戸時代の漁師が南紀白浜の海岸に似ているからという理由で野島崎付近に白浜の名前をつけたというのは完全なるフィクションです。明治以前の和歌山に白浜はありません。

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