「事故」ではないのか?
1902年の八甲田山雪中行軍遭難は、行軍参加者210人のうち生存者11人という悲惨なものでした。Wikiは「~事件」の見出しを立てています。陸上自衛隊では追悼の意味も込めてこの時期に八甲田演習を実施していますが、これを報じるニュース番組でも「~事件」と呼んでいます。
110番通報では「事件ですか? 事故ですか?」と問われます。210人の遭難を110番通報して、この二択に冷静に応じるなら「事故です」ということになるはずです(通報側にとって「事件」であることを否定するものではありません)。
「事件」と「事故」と線引きは、一般的には加害行為が意図的かどうかにラインがあると私は認識しています。過失犯が罪に問われることはありますので、犯罪性の有無はあまり関係なさそうです。
クマに襲われたケースでは、クマに人間を襲う故意があると解釈して「事件」のカテゴリー内であり「事故」ではない、というのが私の理解です。クマを人間に置き換えれば「事故」であろうはずがありません。
いわゆる「ナイロンザイル事件」は、ナイロンザイルの強度不足による複数の滑落事故に対してメーカーが山岳会幹部を務める大学教授の指導下で公開実験を行い、これがフェアなものではなかったことから追及側が「ナイロン・ザイル事件」と題する小冊子を発行して、そう呼ばれています。
この場合の「事件」とは偽装や隠蔽まで含めたものであって、個別の滑落事故自体は「事件」ではありません。遭難だけなら事故であって事件ではありませんが、遭難中に事件が発生することもあります。その場合、遭難を含めて「~事件」と呼ばれることはあり得るのだろうと思われます。
八甲田山雪中行軍の遭難は、脚色されたフィクションとして事件的要素が強く描かれていることから「~事件」と呼ばれているのかもしれません。少なくとも私は「事件」と呼ぶことに抵抗を感じています。
旭川の日本最低気温41.0℃は関係あるか?
この八甲田山雪中行軍の遭難に関して、しばしば引き合いに出されるのが遭難3日目の1月25日に当時の旭川測候所で観測された日本最低気温41.0℃です。今も更新されていない記録です。Wikiには次のように記述されています。
行軍が行われた時は典型的な西高東低の気圧配置で、未曾有のシベリア寒気団が日本列島を覆っており、各地で日本の観測史上における最低気温を記録していた。
1892年以前に開設された新潟&福島以北の観測所について、1902年の最低気温(第3列)と1902年までの最低気温(第5列)を調べてみました。
開始 | 1902年 | 起月日 | 最低 | 起年月日 | |
1873 | 函館 | -19.0 | 2/12 | -21.7 | 1891/1/29 |
1876 | 札幌 | -23.6 | 1/06 | -25.6 | 1893/2/13 |
1879 | 根室 | -22.4 | 1/25 | -22.4 | 1902/1/25 |
1881 | 新潟 | -9.7 | 2/13 | -9.7 | 1902/2/13 |
1882 | 青森 | -15.5 | 2/13 | -19.0 | 1891/2/04 |
1882 | 秋田 | -15.4 | 2/03 | -24.6 | 1888/2/05 |
1883 | 宮古 | -15.7 | 1/25 | -15.7 | 1902/1/25 |
1884 | 寿都 | -15.2 | 1/24 | -15.2 | 1902/1/24 |
1887 | 石巻 | -10.0 | 1/25 | -13.6 | 1895/1/20 |
1888 | 旭川 | -41.0 | 1/25 | -41.0 | 1902/1/25 |
1889 | 山形 | -12.0 | 2/20 | -20.0 | 1891/1/29 |
1889 | 釧路 | -34.5 | 1/26 | -34.5 | 1902/1/26 |
1889 | 網走 | -29.2 | 1/25 | -29.2 | 1902/1/25 |
1889 | 福島 | -9.8 | 2/03 | -18.5 | 1891/2/04 |
1892 | 帯広 | -38.2 | 1/26 | -38.2 | 1902/1/26 |
たしかに、札幌と函館を除く北海道の7観測所と宮古では当時の観測史上1位です。肝心の青森における最低気温は1月24日のマイナス12℃台に過ぎず、この年の最低気温ですらありません。青森では1930年代にマイナス20℃台が6回観測されています。
戦前の青森ではマイナス12℃台は毎年のことでした。また、青森-旭川間は直線距離で350~360キロです。東京-京都間の360~370キロより気持ち短い程度です。東京で事故が起きたとき、京都の気象条件を引き合いに出す必然性があるでしょうか。
八甲田山北麓の遭難地付近は「未曾有」レベルで寒かったのではありません。吹雪で放射冷却は起きません。
降水量 | 日平均 | 日最高 | 日最低 | 積雪 | |
22日 | 0.9 | -5.5 | -3.6 | -7.1 | 84 |
23日(出発) | 4.1 | -6.7 | -4.5 | -8.7 | 87 |
24日 | 17.0 | -11.0 | -8.0 | -12.3 | 96 |
25日 | 11.4 | -9.2 | -8.0 | -11.6 | 97 |
26日 | 15.9 | -6.8 | -4.9 | -8.7 | 122 |
出発は7時前
当時の青森測候所は今の県庁付近にありました。陸軍青森連隊駐屯地は今の青森高校だそうです。総勢210人の歩兵第5連隊の行軍は県道40号がルートになります。地図の資料館とは青森市幸畑阿部野にある「八甲田山雪中行軍遭難資料館」です。出発は午前6時55分ということです。

標高50m近くの資料館までGoogleマップでルート検索すると徒歩1時間弱ですが、行軍はソリ14台を引いていました。それに除雪されているはずはありません。赤白のポールもないでしょう。スキー板の日本伝来は1908年とされています。

東北新幹線のトンネル付近で標高130mほどです。遺体安置所跡地は田茂木野(たもぎの)にあります。Wikiには次のように記載されています。
田茂木野において地元村民が行軍の中止を進言し、もしどうしても行くならと案内役を申し出るが、これを断り地図と方位磁針のみで厳寒期の八甲田山踏破を行うこととなった。
「地図は所持せず」との話もありますが、方位磁石も最後には凍って役に立たなかったそうですし、道は完全に雪で埋まっていますから、ガイドを断った時点で終わっていたようです。

ここをキャンプ地とする!
昼食場所となった小峠は標高390m前後です。持参した握り飯は凍って食べられなかったようです。平地の青森でさえ、出発前日の22日から29日まで8日連続真冬日ですから、水分が含まれていればそうなるでしょう。
小峠は駐屯地からの道のり9.5キロほどですが、Googleマップでは「徒歩ルートを計算できませんでした」になってしまいます。車なら21分です。7時前出発で時速2キロで進んでいたとしたら、ちょうど正午という計算になります。
休憩中に暴風雪の兆しが見え始め、将校の間で撤退が協議されますが結論は続行です。行程は田代温泉で折り返しの1泊2日でした(天気がよければ三本木方面に足を伸ばして2泊3日)。
小峠出発後、天候が荒れ始めて深雪も重なりピッチが落ちます。ルート上の最高標高700m付近(地図上では遭難者銅像付近)で、足手まといになるソリを放棄することが決まります。田代温泉は200mほど下りです。

青森の日没は今年の1月23日で16時43分です。遅れたソリ隊はまだ到着せず、吹雪と日没で露営を決断することになります。第一露営地は田代温泉まで残り2キロ足らずでした。目的地の田代温泉には200人もの宿泊施設はなかったらしいので、どっちにしても将校以外は露営だったのでしょう。

今は樹木が茂っていますが当時は禿山だったらしく、幅2m✕長さ5m✕深さ2.5mほどの雪壕を5つ掘ります。それだけ掘っても地面には達しない積雪だったそうです。スコップは20本しかなく、しかもパウダースノーでした。
リングワンダリング
吹雪を遮るものがなく火を起こすにも難儀して、せっかく起こした火は雪を溶かして釜ごと沈んだり傾いたりという悪循環です。生煮えの米が配られたのは日付が変わった24日午前1時過ぎだったそうです。
6畳ほどの雪壕に40人ですから横になれるスペースなどありません。眠ったら眠ったで逆に危険だったりします。帰営を決めて午前2時半には露営地を出発したそうです。暗闇の吹雪で進路がわかるはずもなく、夜が明けても帰路を発見できません。
結果的に24日と25日は周囲をさまようだけでした。すでにスコップを放棄しているため、2日目以降は雪濠さえも掘れません。ほぼ不眠不休に加えて絶食で迎えた遭難4日目の26日は天気が好転したようです。27日の午前11時頃、捜索隊が立ったまま仮死状態の後藤伍長を発見します。
三沢書店刊「惨風悲雪 雪中行軍隊」には次のような記述があります。
午前十一時漸く田茂木野の東南約二里の處に於て雪中に佇立せる一下士を発見す救援隊の一同は大に喜ひ勇て之に近接して見れば下士は胸部以下雪中に埋没し手足巳に凍り顔面脹れ
「立ったまま」とは仁王立ちではなく、雪を掻き分けて進んでいたことから前に倒れて雪の壁にもたれたまま意識を失い、地吹雪で後方の足跡が埋まったということのようです。
捜索隊自身も凍傷者が続出する中で、延べ1万人を動員して捜索が行われたそうです。現地の気温は体感的にはマイナス20℃に達した日もあったでしょうし、今より粗末な防寒着しか身につけていなかったはずです。
それらの状況からすれば、210人中11人生存はむしろ多いのかもしれません。生存者11人のうち、まったく四肢を切断せずに済んだのは3人です。3人とも日露戦争で戦死または重症を負ったそうです。踏んだり蹴ったりです。
なお、一行が2日目や3日目にまるで円を描くようにさまよってしまったのは、リングワンダリングと呼ばれる現象ということです。視界を奪われた状況では本人的にはまっすぐ歩いているつもりでも少しずつ右か左かにズレてしまい、最終的には大きな円を描いて元に戻る現象のことです。
暗闇の中でむやみに歩き出してはいけないということのようです。霧が晴れるのは待てますが、吹雪は2~3日続くこともあります。とても夜明けまで待っていられない状況だったものと思われます。
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