一里塚の高さは何メートル?
Wikipedia「一里塚」のページにトンデモ記述があります。
一里塚の大きさは5間(約9メートル)四方、高さ1丈(約1.7メートル)に土を盛り上げてつくられ、一里塚の上にはエノキなどの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。また、植えられた樹木は築いた塚の崩壊を根で防ぐ役割も持っていた。
同じwikiの「丈」のページには1丈=10尺=約3.03mと明記されています。
1丈は10尺と定義されている。日本では明治時代の尺貫法で1尺=10/33 m (= 約0.303030 m = 303.030 mm)と定義されたので、1丈は約3.0303 m = 3030.3 mmである。
隋より前の時代の中国では「1丈」が約180センチとなることや、「身の丈(たけ)に合う」という表現から、丈はもともと人間の身長に相当する長さの単位であったことが窺えます。その意味では原義どおりだと言えなくもありませんけど…。
履歴を確認すると、2017年1月1日の編集によって「高さ1丈(約1.7メートル)」が書き足されています。問題は高さの標準が1丈なのか1.7mなのかです。

長野県麻績村のWebサイトでは「高さは1間半から2間程度(2~4m)」だそうです。1間半なら2.7m、2間なら3.6mです。小数点四捨五入でも「3~4m」にしかなりません。

2間を3.6mに換算するのなら、1間半を2mとして端数処理すべきではありません。謎は深まるばかりです。
ひのはしら一里塚、成田一里塚、吉光一里塚
佐賀県神埼市にある「ひのはしら一里塚」は長崎街道の一里塚です。石垣で築山されており、高さは約4mに達するようです。頂上にあるのは通称「いぼ地蔵」です。この規模なら石垣を組むことになるのでしょう。

岩手県北上市の「成田一里塚」は奥州街道の一里塚です。上りと下りの2基1対で残っているケースはレアです。

石川県能美市の「吉光一里塚」は北国街道の一里塚です。対となる塚は明治時代の手取川洪水で流出したそうです。一里塚は左側で、右側は土地改良事業完工の際の石碑です。画像では平らに見えてしまいますが、実際にはこんもり盛り上がっています。

手前に見えるポスターは佐々木紀代議士のものです。ここが私有地であるかどうかストビューで判断していいことではありませんが、外観的には公有地である可能性が高いのでないかと思われます。
動かなかった?志村一里塚
都内にもペアの一里塚が残っています。板橋区の「志村一里塚」です。都営三田線・志村坂上駅A1出口から出た対面が北塚、A2出口セブンイレブン横から出た向かい側が南塚です。

交差点名は「志村一里塚交差点」であり、国道17号と交差するのは「一里塚通り」です。中山道で日本橋から3里目となる一里塚です。

中山道の幅員25mへの拡幅は関東大震災後の昭和初期だったようです。板橋区Webサイト「志村一里塚は動かなかった!」に次の記述があります。
昭和に入ると中山道の下板橋から戸田橋までの道幅を25m(含歩道)に拡幅・改修する工事が開始され、同8年に完成しています。よくこの際に「志村一里塚は少し移動した」とか、「一部を切り取った」と言われ、歴史や文化財の紹介本の中にもそのように記されているものもありますが、それは誤りです。拡幅工事完了後、現況に合わせて昭和10年10月に指定範囲の一部追加・解除が行われたものの、図で示したとおり、もともと志村一里塚は中山道からやや離れた位置に築かれていたため、拡幅工事によって移動したり、削ったりはしていないのです。
歩道が迂回された交差点
添付図面のグレーがビフォーです。拡幅当時、一里塚通りはまだ全通していません。

道路台帳を閲覧してみると、一里塚部分が道路に出っ張っています、

北塚の歩道は街区側に迂回されており、交差点の角ではガードレールと石垣の間を歩けないようです。点字ブロックがありません。

石垣は400年前のものではなく、昭和初期の拡幅工事の際に道路側への崩落防止のため整備されたもののようです。だとすれば、一部切り取り疑惑はそれほど不当なものではないかもしれません。なお、志村一里塚の高さは約3mということです。つまり1丈相当です。





コメント