私立島根商の跡地は県営住宅

1900年に開校した「島根県商業学校」は翌1901年に「島根県立商業学校」に改称します。「島根県立松江商業学校」になるのは1933年です。松江商は創設期の「島根商」時代に夏1回、春は2回甲子園に出ています。

1924年開校の「松江簿記学校」は1946年に「松江高等経理学校」に改称し、1964年には「島根商業高等学校」になります。私立とはいえ、30年ぶりに「島根商」を名乗る学校が出現しました。

「松江高等経理学校」時代の所在地は松江駅前の朝日町です。専門学校から高校に組織変更したのを契機に郊外の大庭町に移転しています。私立の島根商高は、1976年には「松江西高等学校」に改称します。

一方の松江商は1985年10月に上乃木から今の浜乃木に移転します。この松江商の跡地に新校舎を建築して1987年に移転したのは松江西高です。旧(県立)島根商の学校用地を旧(私立)島根商が譲り受けたことになります。

さて、私立島根商時代の学校所在地である大庭町は町域がかなり広く、立正大淞南高も大庭町内にあります。1975年の地形図には一ノ谷池の南200mに丸囲みの文マークが記されていますので、これが私立島根商高と思われます。

今では県営住宅が建っています。1975年の地形図には運動公園も県立大もありません。ここなら、私はニアミスしたことがあります。運動公園内の松江市営球場には2007年に1回だけ訪れています。

旧・私立島根商業高校付近 Google Earthプロ

ボートのあるモータープール

和歌山県立神島高校Webサイトの「沿革」には、クラス編成の変遷も記されています。縮図のようにも感じましたので、表をつくってみました。

1948年の学制改革で旧制中学相当の市内4校は田辺高校に一本化されますが、1956年に商業科3クラスと商業家庭科2クラスで田辺商高が独立します。

田辺商高→神島高のクラス編成

1979年には普通科が併設され、1995年には商業系再編で「商業科」はなくなります。2005年にも学科の再編があり、翌2006年に現校名となります。ピーク時には11学級だったのに、約20年後の今はほぼ半減の6学級です。

田辺は和歌山第2の都市です。学校の数自体が減っている中で商業高校を名乗りながら存続できるのは、それこそ1県1~2校のレベルなのでしょう。新しい高校名となった神島は南方熊楠で有名な無人島の名前です。

海沿いにある高校からの距離は約2kmです。YouTubeには熊楠顕彰館による空撮動画がありましたので埋め込んでおきます。島そのものが天然記念物で、上陸には教育委員会の許可を要するということです。

さて、田辺と言えば私にとってはモータープールの名産地ですが、神島高校付近ではあまり見当たりません。「月極駐車場」や「月極め駐車場」の看板ばかりでした。新たに見つけたのは1か所だけです。

2017年11月のストビューです。駐車場の奥に見えるのは車ではなくボートです。海に近いからこその光景ですが、最初に見つけたモータープールがもしここなら、なんとなく納得したのかもしれません。

2つの尼崎商と尼崎工

1948年4月の学制改革で尼崎市立の新制高校は6校誕生しているようです。

市立尼崎高等女学校→市立尼崎高等学校

1913年に尼崎町立実科高等女学校として設立され、1919年に尼崎市立高等女学校、1948年に尼崎市立尼崎高等学校と名称変更しています。1948年に共学化されたわけですが、もともと男子校だった県立尼崎高との間で年度途中に生徒を入れ替えるという荒業も試みたようです。

上ノ島町1丁目の現在地に移転したのが1966年で、それまでの所在地は南城内(今の明城小学校)です。1960年の地形図にはとっくに消滅したはずの「高女校」の名称が記載されています。

市立第二高等女学校→市立城内高等学校

高女校に併設されていた夜間課程の第二高女は学制改革で城内高に名前を変えます。定時制普通科の女子校です。定時制商業科の男子校だった琴城商高を吸収する形で統合するのは1949年です。

城内高は1967年に南城内から北城内に移転し、2013年には市立尼崎工高(2代目)と統合されて、今は尼崎市立琴ノ浦高になっています。

市立工業学校→市立尼崎工業高等学校

2013年に城内高と統合された市立尼崎工高は「2代目」です。住友工業高等学校と1954年新設の(2代目)市立尼崎商高との統合で1956年に誕生した市立尼崎産業高の定時制が1972年に独立した高校です。

1948年に新制高校に移行した(初代)市立尼崎工高は、翌1949年に県立尼崎工高に統合されています。県立尼崎工高Webサイト「沿革」のページにその旨の記載があります。

市立商業学校→市立尼崎商業高等学校

さて、いよいよここからが本題です。1934年設立の尼崎市立商業学校は夜間課程でしたが、1941年には昼間課程が併設されます。1948年4月の学制改革では全日制の(初代)尼崎商高と定時制の尼崎第二商高に分離されています。

1948年7月に発足わずか3か月の(初代)尼崎商高は、やはり全日制の尼崎女子商高と統合されます。統合後の尼崎商高の校舎がどこなのかは判然としません。1949年には県立尼崎高と市立尼崎高に吸収されて、(初代)尼崎商高は消滅します。

市立商業学校→市立第二尼崎商業高等学校

一方、定時制の第二尼崎商高は1948年7月に琴城商高に名称変更しますが、前述したように1949年には城内高に統合されています。琴城商高の所在地についてもはっきりとしません。

市立女子商業学校→市立尼崎女子商業高等学校

市立女子商は1944年設立ですから戦時転換がもたらしたものです。1948年4月の学制改革で尼崎女子商高となりますが、1948年7月に(初代)尼崎商高と統合されるのは先に述べたとおりです。

私のミッションは商業高校の最終所在地です。「商業高校MAP」では、(初代)尼崎商高については尼崎女子商高の所在地と思われる北城内、琴城商高については尼崎商時代に仮校舎として使用していた金楽寺小にマーカーを置いています。

なお、1954年設立で1956年統合の(2代目)市立尼崎商高の所在地は、南城内ということですので、市立尼崎高や城内との同居だったのかもしれません。

神戸の「湊川」ってどこまで?

湊川神社(緑)は楠木正成を祀る神社ですが、その創建は比較的新しく明治5年です。後醍醐天皇の忠臣であったことに対する明治政府の評価なのでしょう。神社の名称「湊川」はもちろん地名由来ですが、川のつく地名は厄介です。

川は上流もあれば下流もあります。治水対策がお粗末だった時代は氾濫のたびにそのルートを変えているわけです。湊川神社の800m西には湊川公園があり、神戸市営地下鉄の湊川駅(青)があります。

新神戸から地下鉄で湊川神社に行くなら、湊川駅の1つ手前の大倉山駅で降りるのが正解です。「湊川店」を名乗っている商業施設の多くは、湊川駅周辺から住居表示としての湊川町にかけてです。

住居表示としての神戸市兵庫区湊川町は10丁目までありますが、もっとも近い5丁目で湊川駅から北西に700mほど離れています。湊川町は新湊川沿いです。また、湊川公園や兵庫区役所は兵庫区荒田町1丁目です。

「新」湊川とか「荒」田町とか、もうそういうことなのだろうと想像できます。ついでに、阪神高速の湊川IC(地図では左下隅)は湊川駅から直線で2.7km離れています。たしかに新湊川沿いですから文句は言えないものかもしれません。

さて、神戸市立楠高校Webサイトの「沿革」はきわめて充実しています。楠高は湊川駅のすぐ北西にあり、市立湊川中と校舎を共有している定時制高校です。

1943(昭和18)年 6月22日 神戸市立第二女子商業学校として独立する。
1944(昭和19)年 3月31日 県立医専に校舎を提供し、中央区北長狭通4(神戸中学校)に移る。
1945(昭和20)年 3月17日 空襲で木造校舎が焼ける。
1945(昭和20)年 6月 5日 空襲で鉄筋校舎が焼ける。
1945(昭和20)年 9月 5日 連合国軍の校舎接収のため、中央区中山手通4(諏訪山小学校)に移る。
1945(昭和20)年11月26日 疎開児童帰神のため、須磨区千歳町2(千歳小学校)に移る。
1948(昭和23)年 4月 1日 学制改革により、神戸市立楠商業高等学校と校名を変更する。
1948(昭和23)年 5月25日 中央区楠町5(市立湊川高等学校)に移る。
1949(昭和24)年 4月 1日 神戸市立楠高等学校と校名を変更し、普通科・商業科・家庭科を置く総合制高等学校となる。

神戸市立楠高等学校「沿革」

1948年が1848年になっている箇所がありましたが、そこは私の責任で修正しておきました。どうやら楠商高となって2か月経たないうちに湊川高と同居することになったようです。

翌年には楠高に校名を変えていますので、商業高としての最終所在地は楠町5丁目ということになります。楠町は湊川神社の裏手です。また、神戸市立湊川高校の学制改革前の名称は神戸市立第一高等女学校です。

楠商高の前身は第二女子商ですから、女子校同士のドッキングは大いにあり得る話です。戦後まもなくの地形図を見ると、今は神戸市立湊翔楠中のグラウンドとなっている部分に「市立高女」の文マークがあります。

今は5丁目ではなく4丁目ですが、丁目境がここだけ不自然ですので、もともとは5丁目だったはずです。というわけで、楠商時代の所在地は赤のマーカーの場所と思われます。

布施から塚口まで徒歩通学?

三木武夫の総理在任期間は1974年12月から1976年12月までの約2年間です。徳島出身で明治大学雄弁部出身というのは知っていましたが、まさか大阪(尼崎)の商業校を卒業したとは知りませんでした。

尼崎市塚口の中外商高と同市開明町にあった琴浦女子高はともに私立校ですが、1951年4月に尼崎市立北高として統合、半年後には県立移管されています。Wikipediaの同校のページには「主な卒業生」の筆頭に三木武夫の名前があります。

三木武夫は1920年4月に徳島県立徳島商業学校に入学します。1年留年して在籍6年目となる1925年7月に野球部支援バザーの会計をめぐって校長の退任を迫り、結果的には自らが退学の憂き目に遭っています。

徳島商野球部は1915年第1回大会から1924年第10回大会まで四国の予選に連続出場していますが、1925年と1926年は不参加です。三木武夫が退学に追い込まれた事件が関連している可能性が高いものと思われます。

さて、三木が中外商業学校に転籍したのは1925年9月ですが、当時の中外商はまだ設立されたばかりで今の大阪市北区中之島5丁目に仮の校舎があったようです。同年12月に塚口に移転し、三木は翌年3月に無事卒業します。

三木本人も徳島に居たたまれなくなり、叔父らを頼って大阪の布施市(現・東大阪市)へ向かい、1925年(大正14年)9月、私立中外商業学校(現・兵庫県立尼崎北高等学校)に編入することになった。<略>当初大阪市北区玉江町にあった仮校舎まで歩いて通学していたが、同年12月には尼崎市塚口に新校舎が完成したのを機に、塚口まで通学するようになった。

Wikipedia「三木武夫」

微妙な記述です。布施から塚口まで歩いていたと記されているわけではありません。Google Mapで布施駅-中之島5丁目間をルート検索すると徒歩で2時間弱、布施駅-尼崎北高間は4時間以上です。

緑のマーカーが布施駅、青は中之島5丁目、赤が尼崎北高です。さすがに4時間かけて布施から塚口まで歩いたということはないでしょう。阪急線塚口駅の開業は1920年です。今のJR線塚口駅は19世紀中の開業です。