神戸の「湊川」ってどこまで?

湊川神社(緑)は楠木正成を祀る神社ですが、その創建は比較的新しく明治5年です。後醍醐天皇の忠臣であったことに対する明治政府の評価なのでしょう。神社の名称「湊川」はもちろん地名由来ですが、川のつく地名は厄介です。

川は上流もあれば下流もあります。治水対策がお粗末だった時代は氾濫のたびにそのルートを変えているわけです。湊川神社の800m西には湊川公園があり、神戸市営地下鉄の湊川駅(青)があります。

新神戸から地下鉄で湊川神社に行くなら、湊川駅の1つ手前の大倉山駅で降りるのが正解です。「湊川店」を名乗っている商業施設の多くは、湊川駅周辺から住居表示としての湊川町にかけてです。

住居表示としての神戸市兵庫区湊川町は10丁目までありますが、もっとも近い5丁目で湊川駅から北西に700mほど離れています。湊川町は新湊川沿いです。また、湊川公園や兵庫区役所は兵庫区荒田町1丁目です。

「新」湊川とか「荒」田町とか、もうそういうことなのだろうと想像できます。ついでに、阪神高速の湊川IC(地図では左下隅)は湊川駅から直線で2.7km離れています。たしかに新湊川沿いですから文句は言えないものかもしれません。

さて、神戸市立楠高校Webサイトの「沿革」はきわめて充実しています。楠高は湊川駅のすぐ北西にあり、市立湊川中と校舎を共有している定時制高校です。

1943(昭和18)年 6月22日 神戸市立第二女子商業学校として独立する。
1944(昭和19)年 3月31日 県立医専に校舎を提供し、中央区北長狭通4(神戸中学校)に移る。
1945(昭和20)年 3月17日 空襲で木造校舎が焼ける。
1945(昭和20)年 6月 5日 空襲で鉄筋校舎が焼ける。
1945(昭和20)年 9月 5日 連合国軍の校舎接収のため、中央区中山手通4(諏訪山小学校)に移る。
1945(昭和20)年11月26日 疎開児童帰神のため、須磨区千歳町2(千歳小学校)に移る。
1948(昭和23)年 4月 1日 学制改革により、神戸市立楠商業高等学校と校名を変更する。
1948(昭和23)年 5月25日 中央区楠町5(市立湊川高等学校)に移る。
1949(昭和24)年 4月 1日 神戸市立楠高等学校と校名を変更し、普通科・商業科・家庭科を置く総合制高等学校となる。

神戸市立楠高等学校「沿革」

1948年が1848年になっている箇所がありましたが、そこは私の責任で修正しておきました。どうやら楠商高となって2か月経たないうちに湊川高と同居することになったようです。

翌年には楠高に校名を変えていますので、商業高としての最終所在地は楠町5丁目ということになります。楠町は湊川神社の裏手です。また、神戸市立湊川高校の学制改革前の名称は神戸市立第一高等女学校です。

楠商高の前身は第二女子商ですから、女子校同士のドッキングは大いにあり得る話です。戦後まもなくの地形図を見ると、今は神戸市立湊翔楠中のグラウンドとなっている部分に「市立高女」の文マークがあります。

今は5丁目ではなく4丁目ですが、丁目境がここだけ不自然ですので、もともとは5丁目だったはずです。というわけで、楠商時代の所在地は赤のマーカーの場所と思われます。

布施から塚口まで徒歩通学?

三木武夫の総理在任期間は1974年12月から1976年12月までの約2年間です。徳島出身で明治大学雄弁部出身というのは知っていましたが、まさか大阪(尼崎)の商業校を卒業したとは知りませんでした。

尼崎市塚口の中外商高と同市開明町にあった琴浦女子高はともに私立校ですが、1951年4月に尼崎市立北高として統合、半年後には県立移管されています。Wikipediaの同校のページには「主な卒業生」の筆頭に三木武夫の名前があります。

三木武夫は1920年4月に徳島県立徳島商業学校に入学します。1年留年して在籍6年目となる1925年7月に野球部支援バザーの会計をめぐって校長の退任を迫り、結果的には自らが退学の憂き目に遭っています。

徳島商野球部は1915年第1回大会から1924年第10回大会まで四国の予選に連続出場していますが、1925年と1926年は不参加です。三木武夫が退学に追い込まれた事件が関連している可能性が高いものと思われます。

さて、三木が中外商業学校に転籍したのは1925年9月ですが、当時の中外商はまだ設立されたばかりで今の大阪市北区中之島5丁目に仮の校舎があったようです。同年12月に塚口に移転し、三木は翌年3月に無事卒業します。

三木本人も徳島に居たたまれなくなり、叔父らを頼って大阪の布施市(現・東大阪市)へ向かい、1925年(大正14年)9月、私立中外商業学校(現・兵庫県立尼崎北高等学校)に編入することになった。<略>当初大阪市北区玉江町にあった仮校舎まで歩いて通学していたが、同年12月には尼崎市塚口に新校舎が完成したのを機に、塚口まで通学するようになった。

Wikipedia「三木武夫」

微妙な記述です。布施から塚口まで歩いていたと記されているわけではありません。Google Mapで布施駅-中之島5丁目間をルート検索すると徒歩で2時間弱、布施駅-尼崎北高間は4時間以上です。

緑のマーカーが布施駅、青は中之島5丁目、赤が尼崎北高です。さすがに4時間かけて布施から塚口まで歩いたということはないでしょう。阪急線塚口駅の開業は1920年です。今のJR線塚口駅は19世紀中の開業です。

二代目校長は二宮金次郎の孫

薪を背負って本を読みながら歩いている二宮金次郎像は全国各地にあるはずです。私が通っていた小学校にもありました。危険を伴ういわば「ながら読書」であって、それが賞賛される行為なのかどうか子供心にも疑問を感じていました。

金次郎の孫に当たる二宮尊親(たかちか)の胸像は、北海道豊頃町二宮の郷土資料館駐車場に設置されています。道道210号線と牛首別川が並行する地点です。豊頃町役場には尊親の全身像もあるようですが、ストビューでは確認できません。

北海道開拓者として有名な尊親ですが、その晩年には今の報徳学園の校長を務めていた時期があったようです。報徳学園Webサイトでは、沿革が次のように示されています。

■1911年(明治44) 4月
大江市松翁、御影町に報徳実業学校(3年制)設立。
■1919年(大正8) 5月
二宮尊徳の嫡孫二宮尊親校長(二代目)就任。
■1924年(大正13) 3月
私立報徳商業学校に改称。
■1932年(昭和7) 4月
神戸青谷へ移転。
■1944年(昭和19) 4月
文部大臣の命により工業学校へ転換。
■1947年(昭和22) 4月
戦時中、空襲による校舎焼失のため西宮の現在地に移転。報徳中学校認可。
■1952年(昭和27) 12月
校名を報徳学園高等学校、同中学校と改称。

報徳学園中学校・高等学校 > 報徳学園について

私のミッションは商業校の最終所在地です。この年表を素直に受け取ると、1944年から1952年まで工業学校時代が続き、商業校としての最終所在地が青谷となります。そんなはずはありません。

どうやら1944年に「神戸工業学校」と改称し、1946年に「報徳商業学校」に戻り、1948年の学制改革では「報徳商業高等学校」となったようです。したがって、名称から「商業」が消えたのは1952年であり、当時の所在地は現在地です。

ところで、豊頃町役場は十勝川沿いにあります。町指定文化財で町のシンボルであるハルニレの木は対岸の河川敷です。樹形が扇型の奥の木は、実は2本の木が寄り添っており、樹齢はちょうど開拓時代と重なる140~150年です。

うーむ、これは

大阪偕星学園高等学校Webサイトに掲げられている「沿革」のページから冒頭7行です。なお、年号は昭和です。

4年2月19日 甲種商業学校「此花商業学校」として東淀川区長柄中通3丁目に設立許可
4年4月1日  第1本科(昼間部)及び第2本科(夜間部)を設置
20年4月1日  戦時措置により校名を「此花工業学校」と改称
20年9月1日  戦時転用のため、学校を西区元堀江国民学校(仮校舎)へ移転 校名を「此花商業学校」に復す
22年4月1日 学校改革により「此花中学校」併設
24年3月22日 現所在地 生野区勝山南2丁目6番38号へ移転
24年4月1日 校名「此花商業高等学校」となる

大阪偕星学園高等学校「沿革」

昭和20年(1945年)に校名変更したことになっていますが、戦時転換は1944年のはずです。1年の猶予を与えてもらえるような緩いご時世だったとは思えません。有無を言わさず強制されたものと私は理解しています。

元の此花商に戻したのが敗戦からわずか半月後の9月1日ということですが、これもにわかには信じ難いところです。たしかに敗戦によってタガは外れたのでしょうが、はたして行政当局が書面上でも容認したのか疑問が残ります。

「此花商業高等学校」への校名変更は昭和24年ということですが、新制高校にかかわる学制改革は昭和23年(1948年)です。昭和23年に新制高校として校名が変わり、その翌年には「此花商業高等学校」に変更したという意味かもしれません。

「此花工」への改称は昭和19年、「此花商」への改称は昭和21年、「此花商高」への改称は昭和23年ではないかと私は疑っているわけですが、昭和22年の「学改革」は、およそ教育関係者が間違うような用語ではないはずです。

さすがにこれは素人臭が漂います。学制改革の学改革への誤変換はあり得ることでしょうが、「学校改革」ではベースとなる教養そのものが問われても仕方がありません。

ひっそり散った桜花女子商

あまりに話が重いのでページを分けることにしました。名古屋の桜花学園高は女子バスケットボールやハンドボールの強豪校として知られています。同校の校名は次のように変わっています。

  • 1923 桜花高等女学校
  • 1941 桜花女子学園
  • 1948 桜花女子学園高等学校
  • 1955 名古屋短期大学付属高等学校
  • 1999 桜花学園高等学校

女子バスケ部が頭角を現すのは1980年代後半であり、「名短」の時代です。この30年で半数以上の全国大会を制しています。学校自体は1903年に設立された「桜花義会看病婦学校」が起源ということになっています。

学校法人桜花学園のWebサイトには次のように記載されています。「桜花女子商」は1943年設置で1945年廃止のようです。

明治36年 桜花義会看病婦学校 創立
大正12年 桜花高等女学校 創立
大正13年 桜花高等技芸学校創立
昭和14年 名古屋商業実践女学校 創立
昭和18年 名古屋商業実践女学校を昇格し、桜花女子商業学校 設置
昭和20年 同校 廃止
昭和23年 桜花女子学園中学校 設置
      桜花女子学園高等学校 設置

学校法人桜花学園「沿革」

一方、桜花学園高校Webサイトの記載は次のとおりです。当然といえば当然ですが、「桜花女子商」や「技芸学校」に関してはノータッチです。

明治36年 桜花義会看病婦学校
大正12年 桜花高等女学校
大正13年 師範科・高等師範科・中等教員養成所
昭和16年 桜花女子学園
昭和18年 (専攻科)付属幼稚園
昭和22年 桜花女子学園中学校
昭和23年 桜花女子学園高等学校

桜花学園高等学校「沿革」

「桜花女子学園中学校」の設置が前者では1948年ですが、後者では1947年になっています。新制中学は1947年スタートです。1年遅れで設立された可能性は低かろうと思われますので、後者が正しいはずです。

肝心の「桜花女子商」ですが、国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている商業学校台帳によれば1944年4月開校となっていますので、MAPでは1944年開校で1945年閉校として扱いました。

【外部リンク】
国立公文書館デジタルアーカイブ>商業学校台帳(北海道~京都)>愛知 桜花女子商業学校