二代目校長は二宮金次郎の孫

薪を背負って本を読みながら歩いている二宮金次郎像は全国各地にあるはずです。私が通っていた小学校にもありました。危険を伴ういわば「ながら読書」であって、それが賞賛される行為なのかどうか子供心にも疑問を感じていました。

金次郎の孫に当たる二宮尊親(たかちか)の胸像は、北海道豊頃町二宮の郷土資料館駐車場に設置されています。道道210号線と牛首別川が並行する地点です。豊頃町役場には尊親の全身像もあるようですが、ストビューでは確認できません。

北海道開拓者として有名な尊親ですが、その晩年には今の報徳学園の校長を務めていた時期があったようです。報徳学園Webサイトでは、沿革が次のように示されています。

■1911年(明治44) 4月
大江市松翁、御影町に報徳実業学校(3年制)設立。
■1919年(大正8) 5月
二宮尊徳の嫡孫二宮尊親校長(二代目)就任。
■1924年(大正13) 3月
私立報徳商業学校に改称。
■1932年(昭和7) 4月
神戸青谷へ移転。
■1944年(昭和19) 4月
文部大臣の命により工業学校へ転換。
■1947年(昭和22) 4月
戦時中、空襲による校舎焼失のため西宮の現在地に移転。報徳中学校認可。
■1952年(昭和27) 12月
校名を報徳学園高等学校、同中学校と改称。

報徳学園中学校・高等学校 > 報徳学園について

私のミッションは商業校の最終所在地です。この年表を素直に受け取ると、1944年から1952年まで工業学校時代が続き、商業校としての最終所在地が青谷となります。そんなはずはありません。

どうやら1944年に「神戸工業学校」と改称し、1946年に「報徳商業学校」に戻り、1948年の学制改革では「報徳商業高等学校」となったようです。したがって、名称から「商業」が消えたのは1952年であり、当時の所在地は現在地です。

ところで、豊頃町役場は十勝川沿いにあります。町指定文化財で町のシンボルであるハルニレの木は対岸の河川敷です。樹形が扇型の奥の木は、実は2本の木が寄り添っており、樹齢はちょうど開拓時代と重なる140~150年です。

うーむ、これは

大阪偕星学園高等学校Webサイトに掲げられている「沿革」のページから冒頭7行です。なお、年号は昭和です。

4年2月19日 甲種商業学校「此花商業学校」として東淀川区長柄中通3丁目に設立許可
4年4月1日  第1本科(昼間部)及び第2本科(夜間部)を設置
20年4月1日  戦時措置により校名を「此花工業学校」と改称
20年9月1日  戦時転用のため、学校を西区元堀江国民学校(仮校舎)へ移転 校名を「此花商業学校」に復す
22年4月1日 学校改革により「此花中学校」併設
24年3月22日 現所在地 生野区勝山南2丁目6番38号へ移転
24年4月1日 校名「此花商業高等学校」となる

大阪偕星学園高等学校「沿革」

昭和20年(1945年)に校名変更したことになっていますが、戦時転換は1944年のはずです。1年の猶予を与えてもらえるような緩いご時世だったとは思えません。有無を言わさず強制されたものと私は理解しています。

元の此花商に戻したのが敗戦からわずか半月後の9月1日ということですが、これもにわかには信じ難いところです。たしかに敗戦によってタガは外れたのでしょうが、はたして行政当局が書面上でも容認したのか疑問が残ります。

「此花商業高等学校」への校名変更は昭和24年ということですが、新制高校にかかわる学制改革は昭和23年(1948年)です。昭和23年に新制高校として校名が変わり、その翌年には「此花商業高等学校」に変更したという意味かもしれません。

「此花工」への改称は昭和19年、「此花商」への改称は昭和21年、「此花商高」への改称は昭和23年ではないかと私は疑っているわけですが、昭和22年の「学改革」は、およそ教育関係者が間違うような用語ではないはずです。

さすがにこれは素人臭が漂います。学制改革の学改革への誤変換はあり得ることでしょうが、「学校改革」ではベースとなる教養そのものが問われても仕方がありません。

ひっそり散った桜花女子商

あまりに話が重いのでページを分けることにしました。名古屋の桜花学園高は女子バスケットボールやハンドボールの強豪校として知られています。同校の校名は次のように変わっています。

  • 1923 桜花高等女学校
  • 1941 桜花女子学園
  • 1948 桜花女子学園高等学校
  • 1955 名古屋短期大学付属高等学校
  • 1999 桜花学園高等学校

女子バスケ部が頭角を現すのは1980年代後半であり、「名短」の時代です。この30年で半数以上の全国大会を制しています。学校自体は1903年に設立された「桜花義会看病婦学校」が起源ということになっています。

学校法人桜花学園のWebサイトには次のように記載されています。「桜花女子商」は1943年設置で1945年廃止のようです。

明治36年 桜花義会看病婦学校 創立
大正12年 桜花高等女学校 創立
大正13年 桜花高等技芸学校創立
昭和14年 名古屋商業実践女学校 創立
昭和18年 名古屋商業実践女学校を昇格し、桜花女子商業学校 設置
昭和20年 同校 廃止
昭和23年 桜花女子学園中学校 設置
      桜花女子学園高等学校 設置

学校法人桜花学園「沿革」

一方、桜花学園高校Webサイトの記載は次のとおりです。当然といえば当然ですが、「桜花女子商」や「技芸学校」に関してはノータッチです。

明治36年 桜花義会看病婦学校
大正12年 桜花高等女学校
大正13年 師範科・高等師範科・中等教員養成所
昭和16年 桜花女子学園
昭和18年 (専攻科)付属幼稚園
昭和22年 桜花女子学園中学校
昭和23年 桜花女子学園高等学校

桜花学園高等学校「沿革」

「桜花女子学園中学校」の設置が前者では1948年ですが、後者では1947年になっています。新制中学は1947年スタートです。1年遅れで設立された可能性は低かろうと思われますので、後者が正しいはずです。

肝心の「桜花女子商」ですが、国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている商業学校台帳によれば1944年4月開校となっていますので、MAPでは1944年開校で1945年閉校として扱いました。

【外部リンク】
国立公文書館デジタルアーカイブ>商業学校台帳(北海道~京都)>愛知 桜花女子商業学校

名古屋市立の商業高校

年度が変わってしまいましたが、商業高校MAPを再開します。名古屋市立の商業高校は女子商を含めて5校です。

Commercial Academyの頭文字「CA」を校章化していることで有名な名古屋商は、1984年に愛知県立の名古屋商業学校として開校し1890年に市立移管されています。

名古屋商は戦時転換でも商業校のまま存続しますが、敵性言語である「CA」の校章は1943年に廃止され、1948年10月には第二高校(←第二高等女学校)との統合で向陽高となります。

1953年に「名古屋市立商業高等学校」として独立、現在の「名古屋市立名古屋商業高等学校」に名称変更するのは1957年です。すでに県立高校では商業科が全廃されており、愛知県内の公立高校で商業科を持つのは名古屋商のみとなります。

第二商から第四商は戦時転換で市立工芸学校とともに4校統合され、市立第一工業学校、市立第二工業学校、市立女子商業学校に再編されています。したがって、ピーク時に市立商が5校あったというわけではありません。

名古屋市立西陵高等学校のWebサイトには次のような記述があります。

昭和19年4月 本校内に名古屋市立第二工業学校が開校される(第二商業の2年生が第二工業の学生として勤労動員、昭和21年に第二商業4年に復帰)

名古屋市立西陵高等学校「沿革」

第二商の校地には第二工が開校したようですが、Wikipediaの記述では第一工となっています。

1944年(昭和19年)4月1日 – 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、「名古屋市立第一工業学校」・「名古屋市立女子商業学校」に転換

Wikipedia「名古屋市立西陵高等学校」

第一工でも第二工でも構いませんが、もう1つの工業校は南区熱田西町の工芸校に開設されたのではないかと思われます。施設の観点から第三商や第四商が第一工になったというのは考えにくい話です。

1944年の実際の「授業」は軍事教練と防空壕掘りと芋づくりだったようですが、工芸高校のWebサイトには次のように記述されています。

昭和19年03月31日 図案印刷科、木材工芸科を廃止、金属工作科を金属工業科に改称する。西区児玉町に名古屋市立第二工業学校として、建築科、土木科、造船科を設置する。

名古屋市立工芸高等学校「学校沿革」

というわけで、現在の西陵高校の敷地にできたのは第二工が正解のようです。同ページによれば戦時転換前の工芸校には7つの学科がありました。

  • 図案科→工芸図案分科→図案科→図案印刷科(廃止)
  • 建築図案分科→建築科(第二工に継承)
  • 金工科→金属工芸科→金属工作科(金属工業科に改称、第一工に継承)
  • 木工科→木材工芸科(廃止)
  • 精密機械科(第一工に継承)
  • 電気科(第一工に継承)
  • 工業化学科(第一工に継承)

改称した金属工業科は第一工が引き継いだことになるはずです。記述のない下の3科も同様です。第一工は今の市立工業高校に連なります。

戦後、第二工は第二商に戻り1948年の学制改革で名古屋市立第二商業高等学校となりますが、同年10月の再編で名古屋市立第一高校(←名古屋市立第一高等女学校)と統合され、名古屋市立菊里高校になります。中学生日記の高校です。

第三商は、学制改革で名古屋市立南商業高校に、10月の再編では名古屋市立春日野高校(←名古屋市立第四高等女学校)との統合で名古屋市立桜台高校になっています。

第四商については、そもそもどこにあったのかさえわかりません。また、第二商、第三商、第四商、工芸が統合再編された結果として成立した女子商は、学制改革で名古屋市立女子商業高校となり、1948年10月の統合で西陵高になっています。

第二商の校地に新設された西陵高校は、自身のWebサイトで3校統合と記述しています。

昭和23年10月1日 学校統合により名古屋市立第一工業高等学校、名古屋市立工芸高等学校、名古屋市立女子商業高等学校の3高校が統合され、旧制名古屋市立第二商業学校の校地に「名古屋市立西陵高等学校」が新設

名古屋市立西陵高等学校「沿革」

一方、Wikipediaの「名古屋市立西陵高等学校」では4校統合です。

10月1日 – 高校三原則に基づく公立高校再編によって、4校が統合され、「名古屋市立西陵高等学校」となる。

Wikipedia「名古屋市立西陵高等学校」

困ったことに、工芸高校のWebサイトは計5校の統合であると主張しています。

昭和23年09月30日 本校他四校が統合され、西陵高等学校が新設される。

名古屋市立工芸高等学校「学校沿革」

ひょっとすると真実は1つではないのかもしれませんが、今回の私のミッションは商業高校の最終所在地をMAP化することです。何校が統合しようが、究極的には関係ありません。

さらに面倒なことに、この西陵高は1957年に西陵商業となり、2005年に西陵高に戻っています。以上、このページに登場する名古屋市立の商業校は次の6校となります。

  1. 名古屋市立名古屋商業高校(商業高として現存)
  2. 名古屋市立第二商業高校(最終所在地は現・西陵高、MAPでは菊里高)
  3. 名古屋市立南商業高校(MAPでは桜台高)
  4. 名古屋市立第四商業学校(戦前。最終所在地不明、MAPでは西陵高)
  5. 名古屋市立女子商業高校(最終所在地不明、MAPでは西陵高)
  6. 名古屋市立西陵商業高校(現校地)

【外部リンク】
名古屋工芸会報第43号(8ページ「戦争に振り回された学び舎の変遷」)

三島市芝町の田方商

静岡県商業高等学校長会のWebサイトに「静岡県商業教育のあゆみ」と題するページがあります。年表中の1947年9月に「三島商業学校は私立東静商業学校合併」と記載されています。

今回の「商業高校MAP」は1943年度以降を対象にしていますので、三島商も東静岡商も対象となります。三島商は1948年の学制改革で三島二高となり、翌1949年には今の三島南高に改称しています。

一方の東静商は学制改革前に消滅した私立校です。東静商の最終所在地に辿り着くのは容易ではなさそうですが、想像以上の情報量がありました。まずは、三島市Webサイトです。

 明治40年(1907)光安寺(長谷町=現、日の出町)の住職桑畑龍音は境内に福田青年夜学校を創立しました。明治44年(1911)農家や実業家の子弟を対象に、その業務に要する知識、技能を修得させると共に、普通教育の補習を行うために三島農業補修学校を開校しました。
 大正14年(1925)寺の敷地内に校舎を新築して3年制の実務中学校としました。1学級のみで生徒は男子ばかり30人くらいでした。<略>
 その後、西福寺住職矢弓真善に経営が代わり、芝町に移転増築され、生徒数40人で4年制の田方商業学校となりました。昭和20年(1945)東静商業学校に、昭和22年(1947)市立三島商業学校(現、静岡県立三島南高等学校)に合併(がっぺい)されました。

三島市>むかしの学校「実務中学校」

いくつものキーワードが示されています。実務中から田方商に改称・移転した年こそ漏れていますが、最終所在地は芝町である可能性が高いわけです。実務中時代の光安寺は青のマーカー、西福寺が赤のマーカーです。

光安寺も西福寺も宗派は時宗ですので、そういう縁もあって学校を引き継いだのでしょう。さて、三島市のWebサイトにはこんなページもあります。これで、実務中から田方商への改称時期が判明します。

 三島地方唯一の私立学校
昭和5年、青木千代作氏が実科女学校を設立しました。昭和9年に三島家政学校を合併して三島実科高等女学校が誕生、現在の三島高等学校に引き継がれています。
私立の男子校は、三島実務中学校があり昭和11年に田方商業学校となりました。

三島市>三島実科高等女学校(三島高等学校)誕生(昭和初期(2))

また、「SOUTHERN CITY」という三島南高同窓会関係のWebサイトには同窓会の会報「函嶺春秋」がPDFで公開されており、その第23号6ページに「私立の東静商業と三島化学工業学校が母校に併合された」との記述があります。

この三島化学工とは、戦時転換で田方商に併置された学校ではないかと推測されます。三島商も三島工を併置していた関係で受け入れにさほど支障はなかったのでしょう。ここまでを年表にすると、次のようになります。

  • 1907年 福田青年夜学校
  • 1911年 三島農業補修学校
  • 1925年 三島実務中学校
  • 1936年 静岡県田方商業学校(芝町に移転)
  • (1944年 三島化学工業学校)
  • 1945年 東静商業学校
  • 1947年{三島商業学校に合併}

肝心の東静町または田方商の所在地ですが、西福寺は今の大宮町にあり芝本町との境界付近です。三島市のサイトでは「芝町は、現在の寿町・本町・芝本町・一番町にまたがる地域」とされていますので、大宮町は旧・芝町ではありません。

そこで、航空写真を見てみました。次に掲げるのは1941年4月撮影のものです。画面の右半分を占めるのが三嶋大社です。

国土地理院空中写真(1941/04/01)三島大社付近

画像の左中央に学校用地らしきものがあり、西福寺とは道路を挟んで向かい側という色めき立ちたくなる位置関係ですが、あいにくその区画は今の中央町です。残念ながら「商業高校MAP」上では西福寺にマーカーを置いてお茶を濁します。