力行

「カ行」(かぎょう)ではなく「力行」(りっこう、りょっこう)です。鉄道用語は別にして、ほぼ死語となっているものと思われます。青空文庫を「力行」で検索すると20件ほどヒットしました。

冷淡なる社界論者は言ふ、勝敗は即ち社界分業の結果なり、彼等の敗るゝは敗るべきの理ありて敗れ、他の勝者の勝つは勝つべきの理ありて勝つなり、怠慢、失錯、魯鈍、無策等は敗滅の基なり、勤勉、力行、智策兼備なるは栄達の始めなりと。

北村透谷「最後の勝利者は誰ぞ」(初出1892年)

「勤倹」との組み合わせで「勤倹力行」として使われることが多いはずです。四字熟語と校訓の世界では現役です。「力行」を校訓として掲げている高校は確認できた範囲でも両手で足りません。

  • 滋賀・膳所「遵義、力行」
  • 島根・出雲西「誠実力行・明朗率直」
  • 宮城・亘理「質実剛健・勤勉力行」
  • 岩手・専大北上「質実剛健・誠実力行」
  • 鳥取・米子東「誠実 力行 明朗 率直」
  • 新潟・糸魚川「勤倹力行」
  • 熊本・専大玉名「報恩奉仕 質実剛健 誠実力行」
  • 神奈川・相川「質実剛健 進取力行 至誠明徳」
  • 宮城・気仙沼向洋「尚志 創造 力行」
  • 岡山・矢掛「至誠力行」
  • 北海道・音更「自律力行」
  • 岩手・江南義塾「公明 正大 自主 独立 勤倹 力行」
  • 宮城・佐沼「至誠 献身 窮理 力行」

1939年に設立された力行商業学校は1944年に戦時転換で力行工業学校となっていますが、どうやら商業校に復することなく閉校になっているようです。所在地についても判然としませんので、MAPでは小竹町の力行会館にマーカーを置きました。

【外部リンク】
学校法人 日本力行会>あゆみ(年代順)

東経大の国分寺移転時期

東京経済大Webサイトのメニューボタンで「概要・歴史」をクリックして「東経大の歴史」のページを開くと、次のような年表が示されます。

1900(明治33)年
 大倉商業学校開校
 9月1日、東京・赤坂葵町に開校。翌年1月、夜学専修科を開校。
1919(大正8)年
 高等商業学校への昇格、認可される。
 大倉高等商業学校となり、名門高商として全国にその名を馳せる。
1944(昭和19)年
 大倉経済専門学校と改称
1946(昭和21)年
 赤坂葵町から国分寺へ移転

東京経済大学>概要・歴史>東経大の歴史

旧制の高等商業学校なら、今の私にとっては関心の対象外ということになりますが、大倉高等商業学校には中等科が設置されていたようです。この中等科が戦争と学制改革を経てどうなったのか、これだけではわかりません。

実はサイト内検索で見つけましたが、下のスライドメニューで「東経大の歴史が分かる博物館」から「東京経済大学118年の歴史」に入り、1946年の「戦時下校名変更と国分寺への移動」をクリックすると、次のポップアップが出てきます。

戦時下にあった1943年1月、文部省が中学校令・高等女学校令・実業学校令を廃止し中学校令を公布したことに伴い、大倉高等商業学校中等科は東京大倉商業学校に改称。1944年4月には、大倉高等商業学校が大倉経済専門学校へと改称する。1945年5月25日、夜半からの空襲により、別館・書庫・職員集会所・物置を残し、校舎の大半が焼失。教職員と学生は、終戦の8月15日を疎開先で迎えた。
空襲による校舎消失により、1946年1月20日、戦災を受けた赤坂葵町の校地・現存建物と引き換えに、大倉財閥系の兵器会社であった中央工業所有の土地・青年学校宿舎・工員宿舎などの建物の取得を決定し、国分寺に校舎を移転する。

東経大の歴史が分かる博物館>戦時下校名変更と国分寺への移動

1943年1月に公布された「中学校令」とは「中等学校令」の誤記と思われますが、中等科は「東京大倉商業学校」に改称しています。文脈からして、改称されたのは1943年のことでしょう。

1943年に改称されたのなら、今回の「商業高校MAP」の対象となります。肝心なのは後段です。本体の大倉経済専門学校が移転したのはわかりますが、東京大倉商業学校が移転したとは記載されていません。

また、1946年1月20日は「建物の取得を決定し」た日かもしれません。Wikipediaの「東京経済大学」のページでは、この日を国分寺移転の日としていますし(2018/12/20現在)、そのように読めなくもありません。

ただし、港区教育委員会の「デジタル港区教育史」は、大倉経済専門学校の国分寺移転を1946年5月としています。1944年4月のNo772に次のような記載があります。

私立大倉高等商業学校 大倉経済専門学校と改称(昭二〇・五戦災により焼失、昭二一・五国分寺市南町一の七に移転)

デジタル港区教育史> 港区教育史 上/下 39

いずれにせよ高等商業学校の中等科だった「東京大倉商業学校」に関する記述はなく、ここで足取りが途絶えてしまいます。最終所在地が校舎焼失時のホテルオークラ隣接地なのか、移転後の国分寺なのか判断できません。

移転しなかった可能性のほうが高いと思われますので、MAPでは虎ノ門ツインビルにマーカーを置きました。なお、札幌と神戸の大倉山は大倉財閥ゆかりですが、横浜の大倉山は同姓の別筋ということです。

中大より先に

中央学院大Webサイトの「歴史」のページは明治33年から始まります。

明治33年(1900年)「日本橋簡易商業夜学校」設立
 高楠順次郎らにより、「日本橋簡易商業夜学校」が日本橋(現、東京都中央区日本橋)に設立されました。

中央学院大学>大学案内>歴史

その次は明治35年です。

明治35年(1902年)「中央商業学校」開校
 「日本橋簡易商業夜学校」から甲種実業学校として「中央商業学校」が京橋(現、東京都中央区新川)で新たなスタートをきりました。「中央商業学校」という校名は、高楠の提案で決定しました。ヨーロッパ帰りの高楠には、“centre”“central”という言葉が常に胸中にあり、「社会、文化、教育の中心をめざす」という気概が”中央”の2文字にこめられていました。

中央学院大学>大学案内>歴史

一方で、1885年に創設された「英吉利法律学校」は、1889年に「東京法学院」、1903年に「東京法学院大学」、1905年に「中央大学」に改称しています。つまり、中央学院大は中大より先に「中央」を名乗っているわけです。

ちなみに、雑誌の「中央公論」は1899年です(中央公論社は1914年)。JR中央本線の昌平橋駅・篠ノ井駅間が「中央東線」と名付けられるのは1909年で、北見峠から網走の「中央道路」は1891年の完成です。

学校法人中央学院の沿革を私なりにまとめてみました。

  • 1900年 東京市日本橋区に「日本橋簡易商業夜学校」設立
  • 1902年 東京市京橋区に移転し「中央商業学校」開校
  • 1948年 学制改革により「中央高等学校」設置(普通科、商業科) 
  • 1951年 「中央商科短期大学」設置(商科)
  • 1955年 「中央商業高等学校」設置
  • 1966年 我孫子市に「中央学院大学」設置(商学部)
  • 1970年 「中央高等学校」休校(1985年廃校)
  • 1970年 我孫子市に「中央学院高等学校」設置(普通科)
  • 1985年 「中央学院大学」に法学部設置
  • 1998年 「中央商業高等学校」を「中央学院大学中央高等学校」と改称
  • 2001年 江東区亀戸に「中央学院大学中央高等学校」を移転
  • 2001年 「中央商科短期大学」廃止
  • 2004年 「中央学院大学中央高等学校」に普通科設置
  • 2017年 「中央学院大学」に現代教養学部設置

疑問点が2つあります。1944年の戦時転換で「中央商業学校」は「中央工業学校」になっているようですが、「商業」に復したのが何年かわかりません。また、1948年には新制中学も設立されたはずですが、この廃止時期がわかりません。

1955年に中央商から中央高が分離したときには短大を含めて少なくとも3校、もし中央中が廃止前なら計4校が中央区新川に同居していたわけです。3校ないしは4校同居の状態から1970年に1校減となります。

ところで、高校を卒業して上京した私は、主に茅場町駅から大学に通っていました。中央区新川一丁目28番の区画から1km圏内に4年間住んでいたのです。村田女子商と同様、校名は覚えていませんが、どこに学校があったか知っています。

私の記憶では学校は赤のマーカーの場所にありました。1960年代以前の地図では大通り沿いの緑のマーカーのところに中央商や中央高が記されています。両者は矛盾するものではありません。

1970年に中央高が休校しているわけです。これに伴って敷地の大半を売却したものと推測されます。学校用地としては大通り沿いは好ましくありません。それに大通り沿いのほうが高く売れるはずです。

もちろん、近接地に移転したという可能性もありますが、私は切り売り説に与します。新川一丁目28番38号の東京ダイヤビルディング1号館は1973年竣工で、新川一丁目28番40号の電力施設は1990年代の地形図に発電所マークが見えます。

曲面が特徴的な角地の新川一丁目28番44号の新川K・Tビルは1987年竣工、新川一丁目28番4号の越前堀永谷マンションは1974年の竣工です。この東隣の新川一丁目28番5号が中央学院大中央高の移転前の所在地になります。

隅田川沿いに聳える22階建ての墨田リバーサイドタワーは1990年竣工で、もともとは外国企業向けの賃貸マンションだったようです。河畔の新川公園には「中央商業学校発祥の地」の石碑が2002年に建立されています。

【外部リンク】
北見市>歴史民俗資料館:中央道路と鎖塚

中央高校

校名に「中央」を含む現存する高校のリストです。単位制、定時制、通信制の高校、中等教育学校を含みます。カッコ内は私立校の設立法人名です。

  1. 苫小牧中央高校(原学園)
  2. 青森県立中央高校
  3. 青森県立弘前中央高校
  4. 青森県立八戸中央高校
  5. 盛岡中央高校(龍澤学館)
  6. 大崎中央高校(啓誠学園)
  7. 秋田県立秋田中央高校
  8. 山形県立山形中央高校
  9. 山形県立鶴岡中央高校
  10. 米沢中央高校(椎野学園)
  11. 福島県立福島中央高校
  12. 茨城県立中央高校
  13. 栃木県立宇都宮中央女子高校
  14. 矢板中央高校(矢板中央高等学校)
  15. 群馬県立藤岡中央高校
  16. 群馬県立吾妻中央高校
  17. 群馬県立中央中等教育学校
  18. 埼玉県立大宮中央高校
  19. 埼玉県立所沢中央高校
  20. 千葉県立野田中央高校
  21. 千葉県立柏中央高校
  22. 市原中央高校(君津学園)
  23. 中央学院高校(中央学院)
  24. 中央国際高校(中央国際学園)
  25. 中央大学高校(中央大学)
  26. 中央学院大学中央高校(中央学院)
  27. 中央大学杉並高校(中央大学)
  28. 中央大学附属高校(中央大学)
  29. 神奈川県立中央農業高校
  30. 中央大学附属横浜高校(中央大学)
  31. 厚木中央高校(鈴木学園)
  32. 新潟県立新潟中央高校
  33. 新発田中央高校(新発田中央高等学校)
  34. 富山県立中央農業高校
  35. 石川県立金沢中央高校
  36. 山梨県立中央高校
  37. 静岡県立静岡中央高校
  38. 静岡県立焼津中央高校
  39. 静岡県立伊豆中央高校
  40. 沼津中央高校(沼津精華学園)
  41. 豊橋中央高校(高倉学園)
  42. 名古屋市立中央高校
  43. 三重県立四日市中央工業高校
  44. 大阪市立中央高校
  45. 奈良県立大和中央高校
  46. 関西中央高校(冬木学園)
  47. 和歌山県立伊都中央高校
  48. 和歌山県立有田中央高校
  49. 鳥取県立鳥取中央育英高校
  50. 島根県立島根中央高校
  51. 岡山県立倉敷中央高校
  52. 山口県立山口中央高校
  53. 山口県立宇部中央高校
  54. 徳島県立徳島中央高校
  55. 香川県立小豆島中央高校
  56. 香川県立香川中央高校
  57. 高松中央高校(高松中央高等学校)
  58. 愛媛県立松山中央高校
  59. 高知中央高校(高知中央高等学校)
  60. 福岡県立福岡中央高校
  61. 福岡県立八幡中央高校
  62. 福岡県立筑紫中央高校
  63. 福岡県公立三井中央高校
  64. 長崎県立佐世保中央高校
  65. 島原中央高校(有明学園)
  66. 熊本県立阿蘇中央高校
  67. 熊本県立球磨中央高校
  68. 熊本中央高校(加寿美学園)
  69. 鹿児島県立鹿児島中央高校
  70. 鹿児島県立薩摩中央高校
  71. 鹿児島県立種子島中央高校
  72. 霧島市立国分中央高校
  73. 鹿屋中央高校(前田学園)
  74. 出水中央高校(出水学園)

「中央高校」がまったく存在しないのは、福井、長野、岐阜、滋賀、京都、兵庫、広島、佐賀、大分、宮崎の10府県です。1988年に長野中央が長野日大に、1989年に宮崎中央が鵬翔に、2000年に佐賀中央工が北陵に改称しています。

神戸中央とか広島中央とか、あってもよさそうなものですが、過去を含めて存在しないものと思われます。ただ、「神戸中央高校」や「札幌中央高校」はフェイスブックのアカウントが取得されています。

また、京都にあるはずがないという妙な確信がありましたが、これは案の定でした。京都府内には「中央」中もありません。「中央」小は2校だけあります。いずれ別の形で展開したいと考えています。このページは二重の前振りです。

なお、「中央」がその名称に含まれた高専はありません。大学は中央大、中央学院大、青森中央学院大の3校です。

そこ?

村田女子高Webサイトの「教訓・教育方針」のページです。

昭和6年、本校の母体となる「村田女子計理学校」(現 村田女子高等学校)を神保町の「村田簿記学校」に併設しました。昭和14年には小石川区久堅町(現在の文京区小石川)に独立移転、60年の歴史を刻みましたが、平成11年、文京区の要請で現在の本駒込に新築移転し、今日に至ります。

村田女子高等学校>校訓・教育方針

小石川移転は1939年で、本駒込移転が1999年ということになります。村田女子商から村田女子高への校名変更は1996年ですので、商業高校としての最終所在地は小石川です。

1995年の阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件のとき、私は小石川一丁目に住んでいました。通る機会は滅多にありませんでしたが1km圏内です。名前は知らなくても播磨坂に女子校があったことは覚えています。

「ゆびとま」には村田女子高のページはありませんが、村田女子商のページがあります。その住所は「文京区小石川五丁目40-18」になっています。今は播磨坂清掃事業所のビルが建っている場所が私の記憶にある女子校の位置(赤)です。

別件で「昭和毎日」で公開されている1956年の地図(末尾外部リンク)を見ていたら、村田学園の文字が目に止まりました。そこは私の記憶とは異なる場所です。「文」のマークは四丁目の共同印刷本社と同じブロックにあります(青)。

1956年当時の村田学園中学校は吹上坂のほうにあったようです。ただ、どうしても拭えない疑問があります。昭和毎日の地図上で「文」のマークが付いている場所の現況は墓地です。

1956年に学校用地だったのに今では墓地になっているというのは、あまりにも解せない話であって、素直に受け入れることはできません。社寺が移転してきたとしても、墓地が絡むと相当に厄介です。

国土地理院が公開している航空写真をチェックしてみました。1948年にはまだ播磨坂ができていません。播磨坂は西の言問通りと南の外苑東通りに接続するはずだった環状3号線です。

1956年の航空写真は画像が粗く、善仁寺付近はよくわかりません。1957年10月撮影の航空写真が次の画像です。

国土地理院 1957/10/10撮影 播磨坂付近

「>」字型の建物が私の記憶にある女子校の位置です。この写真では播磨坂と吹上坂の間の区画にグラウンドのようなものが見えます。今は23階建てのタワーマンションが建っています。小石川パークタワーは1991年築です。

肝心の善仁寺付近は今とあまり変化はありません。何らかの学校施設が共同印刷の区画にも存在していた可能性は排除できませんが、昭和毎日の「文」マークは適切なものではないのかもしれないと私は判断しています。

なお、播磨坂で検索してみたところ、江戸、明治、大正、昭和初期、昭和30年代、昭和末期の地図を掲載したページが見つかりました。村田女子商の校舎の形状は上の航空写真とは異なりますが、位置は一致しています。

【外部リンク】
昭和毎日>昭和の地図(小石川四、五丁目)
東京坂道ゆるラン>文京さくらまつりの播磨坂と環三通り