名古屋市立の商業高校

年度が変わってしまいましたが、商業高校MAPを再開します。名古屋市立の商業高校は女子商を含めて5校です。

Commercial Academyの頭文字「CA」を校章化していることで有名な名古屋商は、1984年に愛知県立の名古屋商業学校として開校し1890年に市立移管されています。

名古屋商は戦時転換でも商業校のまま存続しますが、敵性言語である「CA」の校章は1943年に廃止され、1948年10月には第二高校(←第二高等女学校)との統合で向陽高となります。

1953年に「名古屋市立商業高等学校」として独立、現在の「名古屋市立名古屋商業高等学校」に名称変更するのは1957年です。すでに県立高校では商業科が全廃されており、愛知県内の公立高校で商業科を持つのは名古屋商のみとなります。

第二商から第四商は戦時転換で市立工芸学校とともに4校統合され、市立第一工業学校、市立第二工業学校、市立女子商業学校に再編されています。したがって、ピーク時に市立商が5校あったというわけではありません。

名古屋市立西陵高等学校のWebサイトには次のような記述があります。

昭和19年4月 本校内に名古屋市立第二工業学校が開校される(第二商業の2年生が第二工業の学生として勤労動員、昭和21年に第二商業4年に復帰)

名古屋市立西陵高等学校「沿革」

第二商の校地には第二工が開校したようですが、Wikipediaの記述では第一工となっています。

1944年(昭和19年)4月1日 – 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、「名古屋市立第一工業学校」・「名古屋市立女子商業学校」に転換

Wikipedia「名古屋市立西陵高等学校」

第一工でも第二工でも構いませんが、もう1つの工業校は南区熱田西町の工芸校に開設されたのではないかと思われます。施設の観点から第三商や第四商が第一工になったというのは考えにくい話です。

1944年の実際の「授業」は軍事教練と防空壕掘りと芋づくりだったようですが、工芸高校のWebサイトには次のように記述されています。

昭和19年03月31日 図案印刷科、木材工芸科を廃止、金属工作科を金属工業科に改称する。西区児玉町に名古屋市立第二工業学校として、建築科、土木科、造船科を設置する。

名古屋市立工芸高等学校「学校沿革」

というわけで、現在の西陵高校の敷地にできたのは第二工が正解のようです。同ページによれば戦時転換前の工芸校には7つの学科がありました。

  • 図案科→工芸図案分科→図案科→図案印刷科(廃止)
  • 建築図案分科→建築科(第二工に継承)
  • 金工科→金属工芸科→金属工作科(金属工業科に改称、第一工に継承)
  • 木工科→木材工芸科(廃止)
  • 精密機械科(第一工に継承)
  • 電気科(第一工に継承)
  • 工業化学科(第一工に継承)

改称した金属工業科は第一工が引き継いだことになるはずです。記述のない下の3科も同様です。第一工は今の市立工業高校に連なります。

戦後、第二工は第二商に戻り1948年の学制改革で名古屋市立第二商業高等学校となりますが、同年10月の再編で名古屋市立第一高校(←名古屋市立第一高等女学校)と統合され、名古屋市立菊里高校になります。中学生日記の高校です。

第三商は、学制改革で名古屋市立南商業高校に、10月の再編では名古屋市立春日野高校(←名古屋市立第四高等女学校)との統合で名古屋市立桜台高校になっています。

第四商については、そもそもどこにあったのかさえわかりません。また、第二商、第三商、第四商、工芸が統合再編された結果として成立した女子商は、学制改革で名古屋市立女子商業高校となり、1948年10月の統合で西陵高になっています。

第二商の校地に新設された西陵高校は、自身のWebサイトで3校統合と記述しています。

昭和23年10月1日 学校統合により名古屋市立第一工業高等学校、名古屋市立工芸高等学校、名古屋市立女子商業高等学校の3高校が統合され、旧制名古屋市立第二商業学校の校地に「名古屋市立西陵高等学校」が新設

名古屋市立西陵高等学校「沿革」

一方、Wikipediaの「名古屋市立西陵高等学校」では4校統合です。

10月1日 – 高校三原則に基づく公立高校再編によって、4校が統合され、「名古屋市立西陵高等学校」となる。

Wikipedia「名古屋市立西陵高等学校」

困ったことに、工芸高校のWebサイトは計5校の統合であると主張しています。

昭和23年09月30日 本校他四校が統合され、西陵高等学校が新設される。

名古屋市立工芸高等学校「学校沿革」

ひょっとすると真実は1つではないのかもしれませんが、今回の私のミッションは商業高校の最終所在地をMAP化することです。何校が統合しようが、究極的には関係ありません。

さらに面倒なことに、この西陵高は1957年に西陵商業となり、2005年に西陵高に戻っています。以上、このページに登場する名古屋市立の商業校は次の6校となります。

  1. 名古屋市立名古屋商業高校(商業高として現存)
  2. 名古屋市立第二商業高校(最終所在地は現・西陵高、MAPでは菊里高)
  3. 名古屋市立南商業高校(MAPでは桜台高)
  4. 名古屋市立第四商業学校(戦前。最終所在地不明、MAPでは西陵高)
  5. 名古屋市立女子商業高校(最終所在地不明、MAPでは西陵高)
  6. 名古屋市立西陵商業高校(現校地)

【外部リンク】
名古屋工芸会報第43号(8ページ「戦争に振り回された学び舎の変遷」)

校訓が「愛と誠」

唐突に脱線したのは、「愛と誠」を校訓としている高校があったからです。横浜女学院高校は横浜市中区山手町の西端にあります。同校Webサイトの「学校案内」のページには次のように記載されています。

校訓「愛と誠」
「愛と誠」は生きる力の基であるイエス・キリストの教えである。 いつも感謝をささげ、神さまに信頼をおき、絶えず希望を持つことにより、生きる喜びが与えられる。

横浜女学院中学校 高等学校>学校案内

宗教系の学校が商業校を名乗るのはかなり珍しいケースですが、横浜女学校の場合はもともとはキリスト教系ではありません。戦禍で2つの商業校が合併して、キリストが持ち込まれたのでした。

1945年(昭和20)5月29日、横浜大空襲で神奈川女子商業学校が全焼。一方の横浜千歳女子商業学校は、校舎を海軍に接収され、被災は免れたものの、破損の被害は甚大でした。こうした状況の中、やむを得ず、被災した神奈川女子商業学校が、横浜千歳女子商業学校の校舎を借用することになったのです。

青山学院大学ソーパー・プログラム>創立の礎>横浜学院

1943年創立の臣道女学院は翌44年に神奈川女子商に改称しています。1866年創立の山内小学校は、1921年に横浜千歳裁縫女学校、1933年に横浜千歳女学校、1936年に千歳高等家政女学校、1944年に横浜千歳女子商業学校です。

この両校が合併したのは1947年ですが、Wikipedia「横浜女学院中学校・高等学校」のページの「沿革」は次のように記載されています(2018/12/28現在)。これを素直に信じるなら、商業高校でなくなったのは1983年になります。

1921年 – 横浜千歳裁縫女学校設立
1941年 – 神奈川女子商業学校設立
1947年 – 横浜千歳女子商業学校と神奈川女子商業高等学校が併合、横浜女子商業学校・横浜女子中学校とする。
1983年 – 横浜学院女子中学校・高等学校と改称。
1999年 – 横浜女学院中学校・高等学校と改称。

Wikipedia>横浜女学院中学校・高等学校

1947年の段階で神奈川女子商業「高等」学校の名称はあり得ません。翌年の学制改革で高等学校が成立するはずです。一方、四谷大塚のWebサイトでは横浜女学院の沿革が次のように記載されています。

1947年に横浜千歳女子商業学校と神奈川女子商業学校が合併し、横浜女子高等学校と横浜女子中学校となり、1983年横浜学院女子中学校・横浜学院女子高等学校に改称。1999年、横浜女学院中学校・横浜女学院高等学校に校名を変更。

四谷大塚 中学案内>横浜女学院中学校

1947年の時点で横浜女子「高等」学校が存在するはずがありませんが、こちらに従うなら、商業校でなくなったのは1947年ということになります。だんだん楽しくなってきました。ポイントは1947年合併後の名称です。

  • Wikipedia説 横浜女子商業学校と横浜女子中学校
  • 四谷大塚説 横浜女子高等学校と横浜女子中学校

青学ソーパー・プログラムには「1947 年(昭和 22)やむにやまれぬ措置として、両校は合併。〈横浜学院女子商業学校・横浜女子中学校〉と改称します」との記述があります。この信頼性は高いはずです。

1947年に合併したのは横浜千歳女子商と神奈川女子商であり、合併創立後の名称は横浜学院女子商業学校と横浜女子中学校、翌1948年の学制改革で「商業」が取れて横浜女子高等学校に改称したのが真実のようです。

  • 1947 横浜学院女子商業学校
  • 1948 横浜女子高等学校
  • 1983 横浜学院女子高等学校
  • 1999 横浜女学院高等学校

さて、校舎が残ったのは千歳女子商でした。千歳女子商の校地が横浜女学院に引き継がれているものと思われますが、神奈川女子商についてはその所在地がわかりません。