再び、オランダ揚げとは

フランス、ロシア、オランダ、ルクセンブルクの国旗は次のような色の配置です。縦横比や色合いは厳密なものではありません。

フレンチ系の国旗

私は2013年12月30日付で「4代目んだ」に「オランダ揚げとは」と題して次のような投稿をしています。

先週の話ですが、某従業員食堂のAランチは「鶏のオランダ揚げ」でした。

私の認識の中でのオランダ揚げとは、野菜を加えた魚のすり身を素揚げしたいわゆる“さつま揚げ”の角天です。トレイに並んでいる実物は、磯辺揚げにマヨネーズをベースとしたと思われるソースがかけてあります。

実際に食べてみると、磯辺揚げのように見えた衣に混ぜられた緑色の正体は青海苔ではなくパセリかと思われます。色合いとしては目立ちませんが、衣にはニンジンと玉ねぎも入っているようです。

ネットで検索してみると、実にさまざまなオランダ揚げなるものが存在しており、何がオランダ揚げなのか突き止めることはできませんでした。

・鶏肉の唐揚げ(形状はチキンカツ風)の甘酢あんかけ
・魚のすり身に野菜のみじん切りを混ぜたものを溶き卵とパン粉入りの衣で揚げたフライ(魚ロッケ)
・すり身にしない白身魚を溶き卵と上新粉と野菜のみじん切りの衣で揚げたもの
・すり身にしない白身魚を小麦粉と野菜のみじん切りの衣で揚げたもの
・だし汁と砂糖と醤油で下拵えしたカボチャを片栗粉と小麦粉に青ネギを加えた衣で揚げたもの
・鶏ささみを片栗粉で揚げてすり胡麻を振りかけたもの
・レンコンの摺りおろしに高菜漬とオクラの小口切りなど加えて溶き卵と片栗粉の衣で揚げたもの(ポン酢で食す)
・高野豆腐をお湯で戻し軽く絞ってからごま油で揚げ、だし汁で煮含めたもの

素揚げであったり唐揚げであったり天ぷらであったりカツであったりでバリエーションは豊富です。ネタは鶏肉か白身魚が多いようです。魚の場合にはすり身にする場合とそうでない場合があります。また、衣か本体に玉ねぎ、ニンジン、パセリ、ピーマンなどのみじん切りやグリーンピースが加わっていることが多いようです。

由来についても諸説あります。

【A】パセリの別名がオランダゼリだから
【B】ニンジン、玉ねぎ、パセリ(ピーマン)の3色がオランダ国旗の赤白青(緑)を想起させるから
【C】洋風という意味での「オランダ」であり、それ以上の意味はない

【A】説はあまり信ぴょう性がありません。むしろ地中海原産のパセリになぜオランダゼリという名前がついているのか、そっちのほうが疑問です。【A】説が正しいのなら、パセリの入っていないオランダ揚げは邪道ということになります。

【B】説は後付でしょう。オランダ国旗の起源は世界最初の三色旗とされるプリンスの旗(オレンジ、白、青の水平三色旗)です。これがのちに赤、白、青の水平三色旗となったわけですが、この三色ならフランスの垂直三色旗がはるかに有名です。また、野菜の緑をわざわざ青に置き変えなくても、イタリアの国旗が緑、白、赤の垂直三色旗です。

【C】説が正解に限りなく近いだろうと私は考えています。ただ、この名前がついたのが、オランダが鎖国下における欧州唯一の交易国だった江戸時代なのか、それとも明治以降なのかということについては判然としません。

2013/12/30「4代目んだ」

6年ぶりに「オランダ揚げ」をネット検索してみると、Wikipediaに「オランダ煮」というページがヒットします。2014年1月11日に作成されたページですが、不思議なことにソースのWebページ閲覧日が1年前の2013年1月11日になっています。

私がその社員食堂で何度か食べたのは「オランダ揚げ」であり「オランダ煮」ではありません。「オランダ煮」とは素揚げしてから煮ている料理のようです。由来に関しては【C】説が採用されています。

まあ、【B】説は噴飯ものです。青・白・赤の三色旗で思いつくのは半数以上がフランスのはずです。世代間格差が生じるロシアはフランスより多くはないでしょうし、オランダを思いつくのは1割に満たないはずです。

青空文庫を検索してみましたが、芥川龍之介の「或阿呆の一生」に「阿蘭陀芹」が出てきます。オランダゼリも江戸時代にオランダ人が持ち込んだために、そういう名前になったに違いありません。

引田(ひけた)と財田(さいた)

7月10日と11日の最大瞬間風速1位は東かがわ市南野の「引田(ひけた)」で、7月11日の最高気温1位は三豊市財田町の「財田(さいた)」でした。香川県の観測ポイントが1位になるのは、少なくとも今年は初めてです。

香川県東端の東かがわ市は2003年に引田町など3町の合併で市制施行しています。「引田」のアメダス観測ポイントは、標高12mで瀬戸内海から1km足らずです。最大瞬間風速は2日とも南東の風ですから讃岐山脈からの吹き降ろしです。

財田と引田(Google Earthプロ)

香川県西部の三豊(みとよ)市は2006年に三豊郡7町が合併して成立しています。「財田」の露場は標高65mで、道路からやや奥まったところにあります。財田川の北側です。

確定した死刑判決が再審で無罪に覆った冤罪事件は4例あります。財田川事件もそのうちの1つです。1950年に当時の財田村で起きた強盗殺人事件が発端ですが、事件そのものと財田川は無関係です。

冤罪事件は島田事件、松山事件、弘前事件のように地名で呼ばれるか、吉田岩窟王事件、加藤老事件、免田事件、袴田事件のように冤罪被害者の姓を冠するのが一般的です。

  • 1950年2月 財田村で強盗殺人事件発生
  • 1950年4月 隣村農協の強盗傷害事件で逮捕
  • 1950年6月 農協事件の有罪判決
  • 1950年8月 本件で起訴
  • 1952年2月 高松地裁丸亀支部で死刑判決
  • 1956年6月 高松高裁が控訴棄却
  • 1957年1月 最高裁が上告棄却(死刑確定)
  • 1958年3月 第1次再審請求棄却
  • 1964年3月 再度の再審を求める手紙を送るも裁判所内で5年間放置
  • 1972年9月 第2次再審請求を丸亀支部が棄却
  • 1974年12月 第2次再審請求の即時抗告を高松高裁が棄却
  • 1976年10月 最高裁が地裁に差し戻し
  • 1979年6月 高松地裁が再審開始の決定
  • 1981年3月 高松高裁が検察側の即時抗告を棄却(再審確定)
  • 1984年3月 高松地裁で無罪

Wikipedia「財田川事件」のページには次のように記述されています。再審を棄却した裁判官に確信はなかったわけです。

地名の「財田」ではなく川の「財田川」と呼称する由来は、1972年に再審請求を棄却した裁判所の文言で越智伝判事が「財田川よ、心あらば真実を教えて欲しい」と表現したことである。

Wikipedia「財田川事件」

実際には「心あらば」ではなく「心あば」だったようです。

苫東開発に消えた集落

地名としての「柏原」の読みは、次のように12通りあるようです。適切なのかどうかはまだわかりませんが、とりあえず6グループに分けてみました。グループ内の相違については、あまり深入りすることは避けたいと考えています。

  • (A)かしわばら
  • (A)かしわはら
  • (A)かしわばる
  • (A)かしわぱっら
  • (B)かしわら
  • (B)かしはら
  • (B)かしばら
  • (C)かしょうはら
  • (D)かいばら
  • (D)がいばら
  • (E)かせばら
  • (F)かやばる

昨年9月の北海道胆振東部地震で大規模停電の引き金を引いたとされるのが苫東厚真火力発電所です。最北の「柏原」は、苫東厚真と同じ開発地域にあります。火力発電所は臨海部であり、「柏原」は臨空部と呼ばれる地域です。

苫東地区 (Google Earthプロ)

境界線の東側は厚真町です。火力発電所は境界の沿岸部にあり、その北に白く見える一団は石油備蓄基地です。備蓄基地から柏原のマーカーまで建物はほとんどありませんが、もともとは1万ヘクタールの工業用地です。

1万ヘクタールとは10km四方です。国家プロジェクトである工業用地造成のために、農業や酪農を営んでいた入植者が札束で追い出された黒歴史があります。柏原小学校が廃校になったのは1971年ですから佐藤内閣末期です。

この苫小牧市柏原について、郵便番号検索をかけると「かしわら」です。これで何の問題もないはずですが、MapFan、Mapion、Yahoo!地図、goo地図、いつもNAVI、NAVITIMEのネット地図では「かしわら」とされています。

コトバンクの「日本の地名がわかる事典」でも「かしわら」です。苫小牧市Webサイトには「町名一覧表」が掲げられており、これも「字柏原」を「あざかしわら」としています。

行政当局が「かしわら」としているのですから、「HA」だろうが「BA」だろうが業務にはたいして影響のない郵便局はスルーするしかありません。ちなみに、角川日本地名大辞典では「かしわら」でした。

実はNAVITIMEのバス停検索では、柏原も柏原西も柏原西口も「かしわら」になります。これにこだわったら、ちっとも話が進まないと思った次第です。まあ、正式とされる名称と俗称が異なるのはありがちなことです。

外部リンク
 苫小牧市>苫小牧市 町名一覧表
 村影弥太郎の集落紀行>柏原

隣り合う柏原の読みが異なるミステリー

これは私好みのミステリーです。ちょっとそれはないんじゃないの、と率直に思っている次第です。

 ★仙台市泉区小角(おがく)柏原(かしわら)
 ★仙台市泉区根白石(ねのしろいし)柏原(かしわら)

大字は小角と根白石で、字については「柏原」で共通です。両者は地続きで隣接しています。どちらの「柏原」も10軒に満たない狭いエリアです。Google Mapの航空写真では「柏原」が2つ並んで記されています。

左が「小角柏原」で、右が「根白石柏原」です。「柏原」が2つあるのですから、それぞれが記載されることは別にミステリーではありません。地図としてはむしろ当然のことでしょう。

第1のミステリーは、前者の読みが「かしわはら」で、後者は「かしわばら」だということです。「いつもNAVI」、「MapFan」、「Mapion」、「NAVITIME」、「goo地図」、「Yahoo!地図」のいずれも両者の読みは異なります。

読みのデータはすべてゼンリンさんの提供という可能性もありますので、6対0ではなく実質1対0なのかもしれません。宇奈根や布田は都県境界の多摩川を隔てていますが、表記も読みも同じです。

仙台市泉区の2つの「柏原」は5分あれば端から端まで歩けてしまいます。いくらなんでも隣り合う「柏原」の読みが異なるということがあり得るのでしょうか。何らかのミスを疑いたくなります。

そもそも10軒に満たない字の名前の正式な読みを誰が決めるのかという根源的な疑問もあります。戸籍も住民票も不動産登記もルビは付されていませんので、字の読みは役所マターではありません。

小角柏原(かしわばら)と根白石柏原(かしわはら)

規約違反にならないように、ざっくりトレースしてみました。2つの柏原地区は一緒に小角なり根白石なりに属することにすればいいと思われます。形状的には根白石柏原が小角に入るのが座りがよさそうです。

なぜ「柏原」は切り裂かれてしまったのかというのが第2のミステリーです。1889年の町村制施行時に根白石村と小角村は他の4村と合併しています。当時から柏原が2つあったのかどうかはわかりません。

ネット地図はこぞって小角柏原を「BA」、根白石柏原を「HA」としていますので、「柏原MAP」でもそれに従いますが、私は強い疑問を抱いています。

湯浅小の沿革がユニーク

湯浅町立湯浅小学校の「沿革」のページが、あまりそれらしくありません。興味深い項目がいくつもあります。

1873年 福蔵寺で学校を開く。(本校創立) 先生5人、児童355人
1906年 男子校、女子校に分離  ペスト流行
1911年 尋6、高12、裁縫科の生徒79人が、初めて和歌山市へ一泊の修学旅行
1912年 桜島噴火、火山灰が降ってきたので記念に採集し、珍しがる。
1916年 職員室と応接室へ電灯をつける。
1928年 講堂建築貯金開始
1936年 講堂落成  創立60周年記念式
1941年 国民学校と改称  運動場に、いも苗二万本植える。
1942年 空襲警報しきりとなる。
1944年 校内に防空壕をつくる。 大阪市玉出国民学校児童が本校に集団疎開
1945年 講堂は橘第57部隊の兵舎となる。 児童はフキ、イタドリ等を三日間採集し、湯浅食品会社へおさめる。

和歌山県湯浅町立湯浅小学校>学校案内

先生1人当たりの生徒数

学制発布は1972年(明治5年)8月です。当時の小学校は下等科と上等科がそれぞれ4年制の計8学年のはずですが、開校当時の先生は5人ということですので、複式学級になります。実際の就学率はせいぜい3割程度と思われます。

355÷5はちょうど割り切れます。71です。先生1人当たり71人もの児童を抱えていたわけです。文部科学統計によれば、2017年の本務教員1人当たりの児童数は15.4人です(1学級当たりで23.6人)。

ペスト

フィクションの中でしか見聞きすることがない伝染病というイメージしかありません。ジュリエットは一定時間だけ仮死状態に陥るというご都合主義丸出しの薬を飲みますが、その企みを打ち明けた手紙はロミオに届きませんでした。

手紙を託された使者がペスト患者とともに囚われの身になったからです。ロミジュリの悲劇はペストが一役買っています。日本では1899年から1926年の間に2,905人の患者(死者2,420人)を出しているようです。死亡率83%です。

修学旅行

「尋6、高12」とは尋常小学校6年生と高等小学校1・2年生の意味なのでしょう。湯浅駅からJR和歌山駅まで紀勢本線の営業キロ数は37kmです。今の紀勢本線が箕島駅まで開通したのは1924年、今の湯浅駅の開業は1927年です。

1911年当時、湯浅に鉄道はありません。日本バス協会のWebサイトによれば日本で最初の乗り合い自動車は1903年に京都で運行されていますので、バスの可能性もありますし、あるいは海路だったのかもしれません。

桜島の大正噴火

年表では1912年になっていますが、火口から流れ出た溶岩で桜島が大隅半島と陸続きとなったいわゆる「大正噴火」は1914年です。降灰は1200km離れた小笠原や石巻でも観測されています。

カムチャツカ半島でも降ったという説もあるようですが、さすがにこれは眉唾のような気もします。溶岩が埋めた海峡は「瀬戸海峡」で、現存しない集落の名は「瀬戸」と「脇」です。おかげさまで、「瀬戸MAP」に追加できます。

電灯と講堂

日本最初の電力会社である東京電灯の開業は1886年ですが、1897年には和歌山電灯、 1910年には日高電灯が設立されています。1916年なら湯浅にも電線が延びていたものと思われます。

講堂については、それまでなかったので「建築貯金」を始めたのか、それとも老朽化による再築だったのか判然としません。再築だとすれば、「講堂落成」になるような気もします。いずれにせよ「貯金」から「落成」まで8年です。

芋畑に防空壕

太平洋戦争は1941年12月に始まっています。サツマイモは春から初夏の植え付けで収穫は秋です。「いも」が二毛作可能なジャガイモだとすると植え付けの時期を絞るのは難しくなりますが、開戦前にすでに食糧事情は悪化していたのでしょう。

日本本土の初空襲は1942年4月のドーリットル空襲です。太平洋上の航空母艦から出撃した16機が主に東京を空爆しています。最後に飛び立ったファロウ中尉が機長を務める16番機は名古屋空爆のあと、四日市や和歌山に機銃掃射しています。

これが湯浅における最初の空襲警報だったのかもしれません。警報は1937年の防空法で制度化されており、NHKのラジオ第一放送に割り込む形で流されていたようです。湯浅のお隣の有田市にある石油精製工場は1945年7月に空襲を受けています。

湯浅の伝統的建造物群保存地区の街並は戦災を経ていない証左です。湯浅に疎開してきた玉出小の大阪市西成区玉出地区は1945年3月の大阪大空襲でほぼ全焼しています。