【ブログ】5代目んだ

日本一は徳島県の京上

標高西日本2位の剣山を抱える徳島県三好郡の旧・東祖谷山村(ひがしいややまそん)は、2006年に池田町など5町村と合併して、今は三好市になっています。アメダス観測点の京上(きょうじょう)は旧・東祖谷山村の中心部です。

祖谷山は平家落人伝説の地であり、豊臣時代と徳川時代の一揆の地です。秘境スポットとして脚光を浴びた近年は、旧・西祖谷山村の祖谷渓やかずら橋に外国人観光客が盛大に訪れているようです。

京上は最寄り駅の土讃線大歩危(おおぼけ)駅から車で40分弱です。空港は高知空港が最寄りになります。京上で最大瞬間風速の観測が始まったのは2008年です。観測史上1~10位は、いずれも冬から春にかけて記録されています。

  • 15.6m/s(2016/04/17)西北西
  • 14.6m/s(2012/12/08)南
  • 14.5m/s(2016/04/16)南西
  • 14.2m/s(2016/01/19)南東
  • 14.0m/s(2015/12/04)東南東
  • 14.0m/s(2010/03/15)西南西
  • 14.0m/s(2009/05/27)北東
  • 13.9m/s(2010/12/03)南東
  • 13.7m/s(2009/11/02)南
  • 13.6m/s(2017/01/15)南東

残念ながらストリートビューでは観測ポイントを確認することはできませんが、南斜面に設置されているはずです。「2018年の最大瞬間風速ランキング」の928地点のうち15.6m/sより数値が小さいのは京上以外には3地点です。

島根県・赤名の観測史上1位は19.8m/s、山口県・広瀬は18.2m/s、福岡県・添田は19.6m/sです。京上は2018年だけでなく通算でも最大瞬間風速がもっとも小さい観測ポイントということになります。

2017年台風18号は鹿児島を経て9月17日16時半頃に高知県西部に再上陸、四国を横断して22時頃に明石に再上陸しています。京上付近を通過したわけですが、この日の京上の最大瞬間風速は21時10分の10.8m/sに過ぎません。

台風から温帯低気圧に衰えた翌18日正午過ぎには八戸で41.7m/sの最大瞬間風速を記録してますので、けっして弱い台風だったわけではありません。室戸岬でも40m/s超を観測しています。

また、雨台風だった2015年台風11号は熊野川の氾濫により新宮市などで床上浸水を引き起こしましたが、進路としては高知県室戸市に上陸して岡山県倉敷市に再上陸しています。この台風も京上付近を通過したわけです。

2015年7月16日から17日にかけての各地の最大瞬間風速は次のとおりです。

  • 42.6m/s 室戸岬
  • 32.0m/s 徳島
  • 27.9m/s 高松
  • 27.9m/s 新居浜
  • 26.8m/s 池田(青)
  • 23.6m/s 木頭(黄)
  • 22.5m/s 高知
  • 21.1m/s 倉敷
  • 19.9m/s 安芸
  • 19.9m/s 福山
  • 09.9m/s 大栃(緑)
  • 08.7m/s 京上(赤)

京上という地名の由来にも心惹かれるものがありますが、膠と関係があるのかどうかを含めてまったくわかりませんでした。

風速計の設置高さ

連日の猛暑に今日はどこで40℃を超えたのかと、半ば楽しみに気象庁のサイトを開いていたのは2018年の夏でした。毎日見ているうちに、不思議なことに気づきました。多くの場合、県庁所在地の風速の数値がやけに大きいのです。

たとえば、2018年10月1日の台風24号襲来時の神奈川県内5地点の最大瞬間風速は次のとおりです。神奈川の風速測定点はこの5か所だけです。

  • 38.5m/s 横浜(観測史上2位)
  • 36.8m/s 辻堂(観測史上1位)
  • 36.5m/s 三浦(観測史上3位)
  • 29.8m/s 海老名(観測史上1位)
  • 29.0m/s 小田原(観測史上1位)

台風の進路に近かったのは海老名ですが、吹き返しの南方向からの風で記録が出ています。そうすると、相模湾に面した辻堂、三浦、小田原のほうが強くてもよさそうな気がします。

また、10月6日の佐賀県内6地点の最大瞬間風速は次のとおりでした。韓国に上陸した台風25号の影響で記録ラッシュとなった日です。この日の午前中、私が乗っていた新幹線は小倉-博多間で20分ほど運転を見合わせました。

  • 32.4m/s 佐賀(観測史上3位)
  • 26.9m/s 嬉野(観測史上1位)
  • 26.2m/s 伊万里(観測史上1位)
  • 26.2m/s 川副(観測史上1位)
  • 24.2m/s 白石(観測史上1位)
  • 23.2m/s 唐津(観測史上5位)

佐賀だけ突出しています。これらの現象は、風速計の地上からの高さに起因するものと思われます。佐賀は56.1m、横浜は19.8mです。しかも、横浜地方気象台は港の見える丘公園より高いところにあります。

「2018年の最大瞬間風速ランキング」の928地点のうち、風向風速計の高さ10m未満が276地点で29.7%、10mジャストは431地点で46.4%、10m超が221地点で23.8%です。上位100地点と下位100地点の内訳は次のようになります。

  • 上位100地点(10m未満27、10m22、10m超51)
  • 下位100地点(10m未満41、10m52、10m超7)

広島や八王子でも庁舎の屋上に風向風速計が設置されています。広島や八王子の数値が高いからといって風が強い街だとは言えないわけです。

宝運丸の関空連絡橋衝突

最大瞬間風速の2018年アメダス最大値は、9月4日13時38分に関空島で観測された58.1m/sです。ジェット燃料輸送船「宝雲丸」が走錨の末、関西空港連絡橋に衝突したのもほぼ同時刻です。

2018年台風21号は、9月4日火曜日の正午頃に阿南市付近に上陸、淡路島を経て、14時頃に神戸に再上陸し若狭湾へ抜けました。ほぼ進路予報どおりです。上陸時の中心気圧950hPaは1993年台風15号以来の25年ぶりでした。

JR西日本は3日正午前に4日午前10時をメドにした計画運休をリリースし、京阪神の主要な商業施設も3日のうちに4日の終日休業を発表していました。公立学校の休校やUSJの休業も前日のうちに決まっていました。

出勤したところで帰りの足は確保されていません。不要不急の外出を控えるように自宅待機とした一般企業も多かったわけです。大阪都心部の4日の昼間人口は1週間前の6割減だったとも報道されています(末尾外部リンク)。

220万戸にも及ぶ停電被害にくらべて、人的被害が死者13名にとどまったのは、強い警戒感の帰結だったのかもしれません。車を立体駐車場に預けたり、ベランダのものはすべて仕舞い込んだという話も聞いています。

さて、関空島の9月3日の最大瞬間風速は9.3m/sです。9月4日当日は朝7時50分まで5.1m/sが最大瞬間風速です。とりわけ未明の3時10分から4時10分までの時間帯は1.5m/sしかありません。

午前9時台にようやく最大瞬間風速が10m/sを超えますが、これは関空島では平常値の範囲内です。11時20分に初めて最大瞬間風速が20m/sに達し、12時40分に30m/sを超えています。足の早い台風でした。

13時20分以降の10分ごとの最大瞬間風速は、40.1m/s、52.5m/s、58.1m/s、57.1m/sと推移しています。午前中は主に東北東の風でしたが、台風が淡路島を通過し関空島に最接近すると風向きが変わります。

13時30分から14時にかけては南南西の風です。風向きの変化で横風を受けたのが走錨の出発点なのかもしれません。宝運丸は3日夜にジェット燃料を降ろして、4日は高石の製油所で積み込みの予定だったそうです。

高石は堺市浜寺地区の南に隣接する小さな市で、市域の約半分を占める埋立地にはガスタンクが林立しています。台風の日にジェット燃料の積み込みという屋外作業ができるはずがないことは想定できます。

宝運丸を所有する会社の社長は、「台風を想定した、できうる限りの対応をしていた」(末尾外部リンク)と主張しています。損害賠償の可能性があり海難審判を控えている当事者ですから、ある意味では当然の発言です。

船員の立場からこの主張を擁護する意見もありますが、私には違和感を拭えない部分が残ります。台風21号の最大瞬間風速は、神戸で41.8m/s、明石で31.6m/s、姫路で26.8m/s、小豆島の内海で20.8m/sです。

台風21号は早くから「今年最強」とアナウンスされていました。時速15ノットとしても1時間少々で明石海峡を抜けて播磨灘に出ることが可能です。危険が迫る大阪湾を脱出して姫路沖や小豆島まで退避する余裕は十分にありました。

瀬戸大橋でもトラックは横転していますので、播磨灘なら安全だったとは言えませんが、大阪湾よりはるかに危険度は少なかったわけです。並の台風であれば宝運丸の空港付近での錨泊は「最善」だったのかもしれません。

台風21号が並の台風でないことは最初からわかっていました。想定外をも想定すべきでした。暴風域から出ないまでも、危険半円を避けるという選択肢はあってもよかったのではないかと思われます。

西宮市の鳴尾川河口付近の動画です。流されているのは釣り船のようです。漂流物が堆積しているスロープの先が船着き場であろうと思われます。

【外部リンク】
NETIB-NEWS>【社長インタビュー】台風21号で関空連絡橋に激突した「宝運丸」船主~「閉じ込めの原因になった」と謝罪(前)
ライ麦畑で倒れ伏す>関空連絡橋に衝突した「宝運丸」船主、清水 満雄氏の弁明は船員から見れば妥当なものだ
気象庁>過去の気象データ検索>関空島 2018年9月4日(10分ごとの値)
ウェザーニューズ>9月4日、近畿地方に暴風や高潮をもたらした台風21号について
日本経済新聞>台風21号直撃時 大阪都心の昼間人口6割減

台風21号通過後に壊れた蒲生田岬の風速計

四国最東端は徳島県阿南市の蒲生田岬です。原発誘致を白紙撤回した頃は「がもうだ」と報道されていたように私は記憶していますが、徳島県観光協会や阿南市のWebサイトでは「かもだ」岬です。

領海法や瀬戸内法では、この蒲生田岬(紀伊水道)まで瀬戸内海の範囲に入ります。蒲生田岬の風速・風向計が機能不全に陥ったのは台風24号ではなく、停泊中のタンカーを関空連絡橋に激突させた台風21号です。

蒲生田岬のアメダスの最大瞬間風速は、2018年9月4日7時20分に20m/sを、9時50分に30m/s、10時40分に40m/sを超えます。ピークは11時20分の48.8m/sで、蒲生田における去年の最大値です。

蒲生田の最大瞬間風速は12時00分には30m/sに下がり、20m/s台の最後は15時30分です。20時10分以後は10m/s前後で落ち着いていましたが、日付の変わった5日の0時40分を最後に風速・風向の記録が途絶えます。

復活するのは9月7日の早朝4時20分です。はたして夜間作業で対応しなければならないほどのことなのだろうかと思わなくもありません。道路や鉄道が寸断されたわけではありません。たかが風速計です。

たとえ復旧が翌日の夕方になったとしても、誰も文句は言わないでしょう。故障の内容も復旧作業の内容もわかりませんが、高さ10mの風速計であるからには、高所作業を伴うものでしょう。

さて、私が訪れた時代にはありませんでしたが、岬には「波の詩(うた)」と題するハート型のモニュメントが設置されています。埋め込んだのは2012年8月撮影のストビューです。

台風24号は宮城島の風速計も破壊

沖縄本島中部の東海岸に与勝半島(または勝連半島)という出っ張りがあります。半島と平安座島(へんざじま)は、「海中道路」と呼ばれる県道10号線で結ばれています。

平安座島の北東に位置するのが宮城島(みやぎじま)です。平安座島と宮城島を繋ぐ橋は「桃源橋」という名前のようです。全長は27mです。島と島の間の水面は一般的には海峡と言われるはずです。

桃源橋を車で通っても、レンタチャリや徒歩で渡っても、海峡は川(運河)と誤解されるものと思われます。両サイドから埋め立てが進んだ結果です。橋を渡った宮城島にアメダス観測点があります。灌漑用ため池と思われる施設の端です。

宮城島のアメダスは2018年9月29日の11時10分に降水量2mm(10分)、気温25.7℃、南東の風31.5m/s(10分)、最大瞬間風速は46.2m/s(3秒)を記録しています。

11時20分から風速・風向の記録は途絶えており、10月1日の16時40分に復活しています。53時間もの空白が生じているわけです。と同様に気温と降水量は記録されていますので、停電等による施設全体の問題ではなく、風速・風向計単独のアクシデントだと思われます。

台風24号は沖縄近海で滞留していました。沖縄はほとんど丸1日に渡って暴風域内にありました。午前7時以降の10分毎の平均風速は例外なく30m/s以上であり、最大瞬間風速もことごとく40m/s以上です。

ところで、「海中道路」は今では著名な観光スポットの1つです。橋を架けたわけではなく、干潮時には歩いても渡れたという浅瀬の上に堤防のように築造された道路です。橋と違ってGLが低く、さほど海面と変わりません。

水門の関係で多少のアップダウンはありますが、「海中道路」の名前は誇張でも伊達でもありません。中央分離帯付きの4車線道路は、もともとは石油精製基地のパイプライン敷設のためにガルフ社が埋め立てたもののようです。

開通したのは沖縄本土復帰直前の1972年4月です。翌1973年は第1次オイルショックです。ガルフ社が同じセブンシスターズのソーカルと合併したのは第2次オイルショック後の1984年です。

【外部リンク】
国際気象海洋株式会社>台風24号進路図

風速計を壊した2018年台風24号

気象庁Webサイトでは各観測ポイントにつき10分ごとの観測値が公表されています。沖縄県国頭郡国頭村(くにがみそん)奥のデータは、2018年9月29日21時20分が降水量3mm、気温23.3℃、西南西の風25.2m/s、最大瞬間風速49.3m/sです。

ところが、21時30分以降の風速・風向の記録がありません。復活するのは翌々日となる10月1日の13時30分です。この間の降水量や気温は普通に掲載されていますので、計40時間に及ぶ空白は風速計が壊れたものと思われます。

20数km離れた対岸の与論島では21時20分以降の最大瞬間風速は、47.3m/s→48.4m/s→53.0m/s→49.9m/s→56.6m/s→54.0m/sで推移しています。最大瞬間風速とは3秒間計12観測値の平均値です。

台風24号は沖縄本島北部の西海上を通過しました。沖縄本島も与論島も進行方向右側の危険半円に入っていました。29日の22時台や23時台はまだ暴風域から抜けていませんでした。

この台風は沖縄市・東南植物楽園に設置されていた高さ25mの観音像をもなぎ倒しましたが、像が倒れたのは夜ですから吹き返しの風になります。奥の風速計にアクシデントが生じたのも吹き返しの時間帯です。

台風24号はJR東日本が初めて計画運休に踏み切った台風です(首都圏接近は30日の日曜夜)。風速50m/sを時速換算すると180km/hとなります。そして、風圧は風速の2乗に比例するそうです。

何が起きても不思議ではないレベルの風が吹いていたということなのでしょう。国頭村は沖縄本島の北端です。アメダスの観測施設は奥集落の中心部から外れた標高232mの山中に設けられています。

国頭村はヤンバルクイナの生息地でもあります。2016年から村域の大半が「やんばる国立公園」に指定されています。

沖縄のモータープール見当たらず

先日、和歌山県田辺市内を車で通ったとき、名称なしで「当モータープールは月極専用駐車場です」の看板が掲げてある平場の駐車場を見かけました。だから行ったわけではありませんが、田辺はモータープールのメッカです。

すでに田辺では50施設以上の駐車場を「モータープールMAP(大阪以外)」に落とし込んできましたが、このパターンは記憶にありません。早速チェックしてみたら、案の定「新種」でした。

1/8現在で、「モータープールMAP」に反映した貸駐車場の数を自治体別に数えると次のようになります。まず、都道府県別です。大阪はこの合計よりも多くなるはずです。

  1. 兵庫 288
  2. 奈良 270
  3. 和歌山 125
  4. 愛媛 86
  5. 香川 68
  6. 京都 33
  7. 徳島 30
  8. 静岡 29
  9. 東京 28

市町村別では次のとおりです。大阪はダントツの1位でしょうが、大阪市以外の大阪府下の市町村が10位以内に入ってくるかどうかはかなり微妙だろうと私は考えています。

  1. 奈良 157
  2. 神戸 108
  3. 高松 62
  4. 田辺 56
  5. 三田 50
  6. 尼崎 37
  7. 和歌山 36(他に駐輪場1)
  8. 八幡浜 32
  9. 洲本 31
  10. 徳島 30
  11. 松山 30
  12. 天理 29
  13. 京都 23(他に駐輪場1)
  14. 浜松 22

堺市は人口80万人超の政令指定都市です。田辺の翌日、私は結果的に南海本線の堺駅から南海高野線の堺東駅まで歩きましたが、モータープールは目につきませんでした。数としてはせいぜい尼崎か和歌山並みではないかと踏んでいます。

さて、目下のところのモータープール空白県は佐賀と沖縄のみです。ないわけではなさそうですが、ストリートビューで看板または表札を確認できることが「モータープールMAP」掲載の必要条件です。

ざっと検索してみましたが、この条件をクリアする施設は見つかりませんでした。ただ、不動産業者の中には貸駐車場をモータープールと称して自身のWebサイトに掲載しているところがあります。

沖縄選出の下地幹郎代議士のWebサイトには実父の下地米一・元平良市長について触れたページがあります。この用法の「モータープール」は貸駐車場ではなく車両置場です。業界用語であって一般に浸透しているわけではありません。

米一がはじめたころの個人運送業者たちは、モータープールと呼ばれた駐車場で情報を交換し、仕事を融通しあっていたが、

下地ミキオ オフィシャルサイト>宮古の事業家・下地米一の生涯(2)

下地代議士は今でこそ維新の会所属ですが、宮古島出身の中大卒ですから大阪に縁が深いわけではなさそうです。貸駐車場をモータープールと呼ぶ文化圏で暮らしたことはないはずです。

単に「モータープール」では通じないだろうという判断が「モータープールと呼ばれた駐車場で」の表現になったものと思われます。

展望台駐車場の墓地と雄冬遺跡

「増毛町の願い」という名のヘアローションがあります。その昔、桂歌丸をゲストに迎えたクイズダービーで紹介されたことがあるそうですので、そこそこの歴史を持つ商品のようです。「町」の字の大きさ(小ささ)がポイントです。

増毛町の願い

増毛町(ましけちょう)Webサイトは、町名の由来を「鰊(ニシン)が群来(くき)ると海一面にかもめが飛ぶことから、 アイヌ語で「かもめの多いところ」という意味の「マシュキニ」又は「マシュケ」が転じたもの」と説明しています。

増毛町と石狩市の境界近くにあるのが雄冬峠です。雄冬峠展望台は増毛町側にあります。駐車場が標高110m付近にあり、展望台は木製の遊歩道を登った標高140m付近です。1998年にできたものと思われます。

展望台は11月から3月まで冬季休業ということですが、展望台まで登らなくても、途中の遊歩道から日本海を望む絶景が楽しめるそうです。駐車場のストリートビューは2014年7月撮影のものです。

このストビューを左に150°回転させれば、展望台に続く階段が見えますが、私が気になったのはこの駐車場とお墓の位置関係です。前向き駐車が日本人ドライバーの習性です。墓石に排ガスをかける位置関係になっています。

さすがに多少なりともためらいはあるでしょう。現に白い車は墓石の正面を避けて2台目の枠に停めています。この墓はいったい何だろうというのが第1の疑問です。右から2基目の墓銘は「山崎家之墓」と読み取れます。

一般人の墓のようですが、さらに気になるのが右端の墓の右側に立つ木柱です。そこには「雄冬遺跡」と記されています。遺跡と墓は何か関係があるのでしょうか。北海道教育委員会Webサイトは雄冬遺跡について次のように記載しています。

縄文中期の石器等の破片が数多く出土され、崖錐堆積による巨大石が林立し、その間 には住居址があると言われている。

北海道教育委員会>市町村指定文化財一覧 p25

北海道内の縄文遺跡はそれほど珍しいわけでもありません。ただ、ここは標高100m以上です。海岸沿いの国道231号線(オロロンライン)から駐車場までストビューで登ってみましたが、途中に沢らしきものも見当たりません。

生活に不可欠な水をどう確保していたのだろうという疑問をひとまず置くとしても、 「崖錐堆積」とは穏やかではありません。「崖錐堆積」すなわち崖崩れ跡です。 再度起こる可能性は十分にあるはずです。

おそらく海岸には豊富な水産資源があったのでしょう。食糧には困らなかったのかもしれません。わざわざ海岸から登って酷寒の傾斜地に住居を構えるだけの理由について、私の想像力は及びません。

さて、雄冬遺跡が増毛町の史跡に指定されたのは1979年ということです。展望台をつくったときに遺跡が見つかったというわけではなさそうです。遺跡が見つかる前から墓はあったのかもしれません。

墓石はほぼ同時期に同じ石材で作られているようにも見えます。展望台の駐車場を確保するために墓を移動させる必要があり、そのときに新調されたということなのかもしれません。

名古屋の育英

愛知県立旭丘高校Webサイトには次のような記述があります。

愛知一中の校歌は、マラソン王日比野寛校長自らの作詞によるもので、明治37年に制定されました。これは日本で最初の校歌であるといわれています。四句二十連の長い詩の中には、愛知一中の教育理念が随所に盛り込まれていたため、旭丘高校と改称された後も、しばらくは歌い継がれていました

愛知県立旭丘高等学校>旭丘高校について 校歌

残念ながら「日本で最初の校歌」の歌詞は掲載されていませんし、今の校歌とは違うようです。日比野寛校長が愛知一中を退職するのは1916年のようです。翌1917年4月の第13回衆議院議員総選挙で憲政党から立候補して当選しています。

ちなみに、愛知一中が第3回全国中等学校優勝野球大会で敗者復活から優勝したのは同年8月です。愛知一中校長在任中の1908年に日比野寛は夜間の「育英学校」を立ち上げています。

1920年に昼間課程の「商業育英学校」が設立され、日比野寛は1922年から「名古屋育英商業学校」の校長に就任します。代議士は1期限りでした。やがて「育英商業学校」は東邦学園の傘下に入り、1935年には「金城商業学校」と改称します。

この「金城商業学校」は1945年3月の空襲で校舎(青)を失い、東に1.2km離れた兄弟校(赤)に同居することになります。学制改革を経て1952年には正式に東邦高に合併吸収されます。

名古屋市北区には「金城」という町域名があります(黄)。名古屋城の北側です。「金城商業学校」は今の東区東桜であり、名古屋城の南東です。どうして「金城」なのか気になりますが、地名ではなく人名なのかもしれません。

それはさておき、「金城商業学校」の最終所在地は東邦高ということになるわけです。東邦高は千種駅周辺の再開発で1971年に郊外の東山キャンパス(緑)に移転します。

なお、東邦商は戦時転換で系列の大同工業学校北校舎となり、商業校としては戦前で終わっているようです。

【外部リンク】
学校法人東邦学園>第41回「金城商業」最後の卒業アルバム
橦木倶楽部通信第4輯>50 育英商業学校-日比野寛-

三島市芝町の田方商

静岡県商業高等学校長会のWebサイトに「静岡県商業教育のあゆみ」と題するページがあります。年表中の1947年9月に「三島商業学校は私立東静商業学校合併」と記載されています。

今回の「商業高校MAP」は1943年度以降を対象にしていますので、三島商も東静岡商も対象となります。三島商は1948年の学制改革で三島二高となり、翌1949年には今の三島南高に改称しています。

一方の東静商は学制改革前に消滅した私立校です。東静商の最終所在地に辿り着くのは容易ではなさそうですが、想像以上の情報量がありました。まずは、三島市Webサイトです。

 明治40年(1907)光安寺(長谷町=現、日の出町)の住職桑畑龍音は境内に福田青年夜学校を創立しました。明治44年(1911)農家や実業家の子弟を対象に、その業務に要する知識、技能を修得させると共に、普通教育の補習を行うために三島農業補修学校を開校しました。
 大正14年(1925)寺の敷地内に校舎を新築して3年制の実務中学校としました。1学級のみで生徒は男子ばかり30人くらいでした。<略>
 その後、西福寺住職矢弓真善に経営が代わり、芝町に移転増築され、生徒数40人で4年制の田方商業学校となりました。昭和20年(1945)東静商業学校に、昭和22年(1947)市立三島商業学校(現、静岡県立三島南高等学校)に合併(がっぺい)されました。

三島市>むかしの学校「実務中学校」

いくつものキーワードが示されています。実務中から田方商に改称・移転した年こそ漏れていますが、最終所在地は芝町である可能性が高いわけです。実務中時代の光安寺は青のマーカー、西福寺が赤のマーカーです。

光安寺も西福寺も宗派は時宗ですので、そういう縁もあって学校を引き継いだのでしょう。さて、三島市のWebサイトにはこんなページもあります。これで、実務中から田方商への改称時期が判明します。

 三島地方唯一の私立学校
昭和5年、青木千代作氏が実科女学校を設立しました。昭和9年に三島家政学校を合併して三島実科高等女学校が誕生、現在の三島高等学校に引き継がれています。
私立の男子校は、三島実務中学校があり昭和11年に田方商業学校となりました。

三島市>三島実科高等女学校(三島高等学校)誕生(昭和初期(2))

また、「SOUTHERN CITY」という三島南高同窓会関係のWebサイトには同窓会の会報「函嶺春秋」がPDFで公開されており、その第23号6ページに「私立の東静商業と三島化学工業学校が母校に併合された」との記述があります。

この三島化学工とは、戦時転換で田方商に併置された学校ではないかと推測されます。三島商も三島工を併置していた関係で受け入れにさほど支障はなかったのでしょう。ここまでを年表にすると、次のようになります。

  • 1907年 福田青年夜学校
  • 1911年 三島農業補修学校
  • 1925年 三島実務中学校
  • 1936年 静岡県田方商業学校(芝町に移転)
  • (1944年 三島化学工業学校)
  • 1945年 東静商業学校
  • 1947年{三島商業学校に合併}

肝心の東静町または田方商の所在地ですが、西福寺は今の大宮町にあり芝本町との境界付近です。三島市のサイトでは「芝町は、現在の寿町・本町・芝本町・一番町にまたがる地域」とされていますので、大宮町は旧・芝町ではありません。

そこで、航空写真を見てみました。次に掲げるのは1941年4月撮影のものです。画面の右半分を占めるのが三嶋大社です。

国土地理院空中写真(1941/04/01)三島大社付近

画像の左中央に学校用地らしきものがあり、西福寺とは道路を挟んで向かい側という色めき立ちたくなる位置関係ですが、あいにくその区画は今の中央町です。残念ながら「商業高校MAP」上では西福寺にマーカーを置いてお茶を濁します。