◆無死満塁が無得点で終わることはさして珍しいことではありませんが、それが3者連続三振ならかなり珍しいはずです。これに同点の9回裏という舞台装置が整うなら、ありふれた3者連続三振ではありません。
◆旧「セットポジション」の「殿堂」で2000年8月に公開したページです。殿堂入り23人のうち唯一の高校生でした。
背番号18
1997年7月19日、夏の高校野球千葉大会3回戦の船橋市民球場第1試合には、五十嵐亮太(ヤクルト→メッツなど)の敬愛学園が出ていました。第2試合は五十嵐の付録のようなものです。県立高同士の対戦でした。
第2試合のスタメン発表で、「9番ピッチャー大須賀くん、背番号18」というアナウンスを聞いたとき、私は第2試合を見ないで帰ろうかと真剣に考えました。もうこの日の目的は果たしています。暑いうえに屋根はなく、1997年当時はスタンドに椅子もないコンクリートむき出しの球場でした。
背番号18なら、3番手か4番手のピッチャーでしょう。見ても仕方がないとさえ思ったわけです。ところが、投球練習している背番号18は大柄なサウスポーです。左ということを考慮すれば、五十嵐にもそれほどひけはとりません。
これで背番号18なら、エースはそれ以上が理屈です。私は暑さを押して、ステイを選択しました。検見川(けみがわ)高校の背番号1の選手はライトに入っていました。あいにく、その試合では背番号1の肩を見る機会に恵まれませんでした。
なぜなら、背番号18の大須賀は17三振を奪って1失点で完投したからです。背番号1の選手がライトから三塁あるいは本塁へ送球する緊迫の場面は訪れませんでした。3年生の背番号18が17奪三振なのです。ますます背番号1への期待が高まってしまいます。
2日後の7月21日、私は八千代球場に出かけました。第1試合は検見川高校です。当時、私は「同じチームを何度も見る必要はない」主義者でしたが、さすがに検見川の背番号1が気になります。中1日の試合ですから背番号1が投げるはずです。
対戦相手の成田高校は私立高です。この時点で夏は甲子園に6回出場しています。1993年と94年は県大会準優勝、95年もベスト4の強豪です。ところが、検見川の先発は背番号18の大須賀でした。ちょっとがっかりです。
9回ウラ無死満塁を3者連続三振
試合の途中で大須賀がエースだということを聞きました。まあ、そうでしょう。このクラスの投手が2人いれば、もっと前評判が高いはずです。
9回裏、大須賀は成田の先頭打者にセンターオーバーの三塁打を打たれました。八千代球場は器の大きい球場ではありません。ちょうど第2試合の応援の人たちも入ってきて、スタンドは混雑してきました。
私はネット裏の最上段で見ていましたが、後ろの通路には赤ちゃんを抱えたカップルが立っていました。検見川ベンチから伝令が出ます。「プロ野球ならこういう場面では敬遠して満塁にするんだよな」という声が後ろから聞こえてきました。
伝令が去り、検見川ベンチは満塁策を選びました。「ほらな」、さっきと同じ声が聞こえました。無死満塁となって成田の9番打者は初球にバントの構えを見せたものの見送ってストライク、2球目から4球目までボールが続きました。これでカウントは3B-1Sです。
満塁ですから四球も許されない絶体絶命のピンチです。5球目はストライクで、6球目は中途半端なバントの空振りでした。打順は1番に戻ります。初球がストライク、2球目は空振り、3球目も空振り、大須賀はこの試合14個目の三振を奪って、ツーアウトまでこぎつけます。
2番打者にはボールが2つ先行しますが、3球目と4球目が見逃しのストライク、5球目がファウル、6球目は空振りです。9回ウラ無死満塁を3者連続三振の離れ業で切り抜けたのです。
10回ウラ、伝令がマウンドに運んだのは
1995年の首都大学リーグで日体大の小林雅英(東京ガス→千葉ロッテ→インディアンズなど)が無死満塁を3者連続三振で抑えたのを見たことはありますが、そのときは両チーム無得点の2回裏でした。
9回裏の無死満塁とは状況的にくらべものになりません。ちなみに、小林の3者連続三振の3目は城西大の代田建紀(朝日生命→近鉄→ヤクルトなど)でした。
スクイズで勝ち越した直後の10回裏にも大須賀はピンチを迎えます。四球と安打に盗塁も絡んで一死二・三塁。ベンチから伝令が走り、内野手がマウンドに集まります。しばらくすると、ベンチからもう1人出てきました。マウンドに向かう走り方がどこかもどかしげです。
手に何か持っています。コップです。コップの水をこぼさないように走っているのでした。大須賀は2人目の伝令から受け取ったコップの水を飲み干して、後続を一塁ゴロと三振に封じました。この日は10回完投で16奪三振でした。
タイムのときに水を飲んではいけないというルールは内規にもないはずです。だとすれば、なかなかいいアイデアだと思われます。ワンテンポ遅れて、まるで運動会のスプーンリレーのようにベンチから出てくる感じが効果的です。
翌日のスポーツ新聞で背番号の謎が解けました。背番号18はプロや大学や社会人のエースナンバーです。大須賀には高校を卒業してもエースナンバーをつけられるような投手になってほしいという、いわば監督の親心だったようです。
伝令に持たせたコップの水といい、ここの監督の発想はユニークです。大須賀は進学した明治大でも背番号18をつけていましたが、社会人の新日本石油では背番号14でした。
無死満塁無得点は15%前後
よく「無死満塁は点にならない」と言われますが、私が見た試合では無得点のケースは14.6%です。神様・宇佐美氏の集計(1985年の両リーグ780試合対象)も14.4%です。
0点 | 46例 | 14.6% |
1点 | 62例 | 19.7% |
2点 | 55例 | 17.5% |
3点 | 52例 | 16.6% |
4点 | 58例 | 18.5% |
5点 | 16例 | 5.1% |
6点 | 14例 | 4.5% |
7点 | 7例 | 2.2% |
8点 | 1例 | 0.3% |
9点 | 2例 | 0.6% |
13点 | 1例 | 0.3% |
無死満塁では守備側が1点を惜しんだ結果、大量失点につながるケースがあります。基本的には、無死満塁は二塁ランナーをめぐる攻防だと考えたほうがよさそうです。大須賀のケースのように何がなんでも無失点で切り抜けなければならないという状況でないなら、中間守備が妥当です。
◆私は無死満塁無得点を46回見ていますが、日石で背番号18だった塩崎も東洋大時代に無死満塁を無得点で切り抜けています。
◆高校生をなかなか殿堂に選ばなかったのは、そこがピークであってほしくないという思いがあったからです。大須賀の殿堂入りを認めたのは、2度も付録扱いしたことへの後ろめたさとともに、堀内監督へのプラス評価があったはずです。
◆1997年の検見川高校は準決勝で敗れましたが、堀内幹仁監督がおそらく最後に指揮をとった佐倉高校は、2018年の秋季大会でベスト16に残り21世紀枠の県推薦校に選ばれています。あくまでも勝って出てこいという私のスタンスはいささかも揺らぐものではありません。
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