夏休みの巨人戦を中止にした1967年の日本楽器

◆1967年の第38回都市対抗の準優勝は日本楽器(→ヤマハ)でした。ただの準Vではありませんでした。31チームが出場したこの大会、準決勝まで進むと4試合です。普通なら36イニングです。日本楽器は14+10+9+9+13+6+10と、ほとんど2倍の71イニングかけて決勝進出を果たしました。「1967年日本楽器」と題して、旧「セットポジション」の「社会人野球のページ」に収録していたページを焼き直しました。2007年に公開したページです。

1967年日本楽器

時系列で、まず予選結果から調べてみました。

静岡1次予選と山静2次予選

当時の静岡1次予選は「2敗で終わり」の敗者復活トーナメントです。10チームのうち4チームが山静2次予選に進みます。日本楽器は前年の山静第2代表・河合楽器に競り勝って2次予選進出を決め、3連勝で初めて1位通過を果たしました。

1967年都市対抗の静岡1次予選

敗者復活方式ですので、トーナメントの山は2つになります。日本楽器とは対照的に、前年の山静第1代表・大昭和製紙は初めて1次予選敗退に甘んじるという波乱が起きています。1次予選終了後に1次敗退チームから補強選手を選ぶことができるのが、この当時のルールでした。

静岡第1代表の日本楽器は前年ベスト4の大昭和から三田や加藤などを補強して2次予選に臨みます。山静2次予選は5チームによるリーグ戦です。上位2チームに本大会の出場権が与えられますが、山梨のチームが都市対抗に出たことはありません。

日楽河合日軽金指櫛形
日本楽器3◯11◯03◯010◯04勝0敗
河合楽器1●34●66◯111◯02勝2敗
日本軽金属0●16◯41●29◯02勝2敗
金指造船所0●31●62◯19◯02勝2敗
オール櫛形0●100●110●90●90勝4敗
▲山静2次予選

日本楽器は全勝で2次予選を突破して、2年ぶり2回目の都市対抗出場を決めています(2位の3チームは再リーグ戦で河合楽器が第2代表になりました)。

1回戦(大会2日目第1試合)

1回戦の相手は電電近畿は2年前に日本楽器が初出場したときの優勝チームです。2年前の日本楽器は1回戦で八幡製鉄に完封負けでした。

3点ビハインドで迎えた9回表一死後、川島勝司(2021年殿堂入り)が死球で出塁してから日本楽器の代打攻勢が始まります。まずキャッチャーの細川に対して、大昭和から補強された三原が代打に起用されます。三原は四球を得て一死一・二塁。

続く三田の代打・丸田はファーストゴロでした。走者を二・三塁に進めたもののツーアウトです。3点差ですので、二塁走者は同点のランナーでもありません。山田の代打・神谷がセンター前ヒットで2者生還、1点差に詰め寄って二死一塁です。

片桐がライト前ヒットで続いて二死一・三塁。片桐は二盗を決めて、逆転の走者が得点圏に進みました。東本のセンター前ヒットで神谷が生還、片桐は本塁でタッチアウトでした。

同点後の9回裏の電電近畿の攻撃は3者凡退で延長戦に突入します。10回以降の日本楽器は常に走者を出し、押し気味に試合を進めているようですが、決勝点を奪うことはできませんでした。あとの試合がつかえていますので、延長14回で引き分けになりました。

1回戦は園長14回で引き分け

当日の毎日夕刊には「このカードは明29日の第3試合で行なわれることになった」とあります。この日程変更はその日のうちに再変更を迫られます。第4試合の9回裏、やはり3点のビハインドを背負っていた電電東海が同点に追いついて、追い越せなかったからです。

第4試合は9回終了が23:27ということで、延長に入ることなく引き分け再試合となりました。

1回戦再試合(大会3日目第2試合)

日程の再変更で、日本楽器と電電近畿の再試合は翌29日の第2試合に組み入れられます。ところが、1回裏の一死一塁で雷雨のため試合は中断します。大会本部は午後7時半から再開するという苦肉の策に出ました。

球場は後楽園です。内野席のジャンボスタンドができるのは翌1970年、人工芝は1976年、隣接地に東京ドームが開場するのは1988年です。両チームはいったん宿舎に引き上げ、応援団も雨上がりの街に出ていったそうです。

東京管区気象台の観測値では、午後4時の時間降水量が9.5ミリ、午後5時が6.5ミリで、午後6時は0ミリです(この場合の「0ミリ」とは0.1ミリ未満という意味です)。午後7時以降は降っていません。天気予報を適切に活用した再開予定の判断だったわけです。

3時間45分という長い中断を経て、ナイターで再開された試合は、前日同様に電電近畿が先手をとり日本楽器が追いかける展開になります。

3点リードされた日本楽器は8回二死から代打・川島のソロホームランで2点差に迫ります。さらに、9回一死一塁で代打の山田が同点2ランを放ち、2日連続で9回表に追いついたのでした。再試合も延長戦に突入し、大会本部は青ざめたに違いありません。

都市対抗とは言ってもその実体は企業対抗です。会社を休んで応援に駆り出されるのですから、試合日程が派手に狂うと具合が悪いわけです。幸いにも、10回には死球押し出しで勝ち越した直後に、同点弾の山田が決定的な2点タイムリーを打っています。

1回戦再試合は延長10回

前日は第1試合です。この日は午後7時半に1回裏から再開していますので、試合終了は午後10時前後と思われます。日本楽器の都市対抗初勝利は、まるまる2日かけての難産の末に奪いとったものでした。

勝敗の帰結より、変転極まりないこのドラマチックな試合の流れにほんろうされたことだけで、ファンは満足だったろう。いい試合だった。浜松、大阪両チーム総力をあげての死闘に心からねぎらいと称賛の拍手を贈りたい。

「毎日新聞」19967年7月30日付朝刊

奈良井記者の署名記事(戦評)はこのように結ばれています。

2回戦(大会6日目第2試合)

中2日挟んだ2回戦の相手は立正佼成会でした。立正佼成会も2年ぶり2度目の出場です。この大会の日本楽器に寄り添う雨による2度目のいたずらが待っていました。にわか雨で4回裏の日本楽器の攻撃中に試合が中断します。

2時間11分後に再開された試合は同点で9回に入ります。9回裏、日本楽器の攻撃は一死から川島が二塁打を放ち、立正佼成会は左の酒井がマウンドに上がります。日本楽器はスイッチヒッターの東本で応じています。この2人は明治大で酒井が1年先輩になるそうです。

インコースに来たらバントするつもりだったと言う163センチの小兵は、もちろん右打席に入ったはずです。2b-1sからの4球目をレフトスタンドに運びます。代打によるサヨナラ弾は大会史上初ということです。

2回戦はサヨナラ勝ち

「9回」、「代打」、「雨」…キーワードのスリーカードが揃ったわけです。

準々決勝(大会8日目第1試合)

拓殖銀行との準々決勝はノーマルな試合です。なにしろ、日本楽器は初回にさっさと先制して、先発の仲子が2安打で完封しています。何も起こりようがありませんし、代打も出ていません。雨も降っていないようです。

準々決勝の拓銀戦

日本楽器野球部の創部はこの大会でアベック出場となった同じ浜松市の河合楽器より少しだけ遅い1958年です。河合楽器の都市対抗初出場は1963年であり、いきなりベスト4に進んでいます。この日の勝利で、ライバル意識がないはずがない河合に肩を並べたわけです。

当時の都市対抗は準々決勝を2日に振り分けており、この試合は4試合のうち1試合目です。もし準々決勝を1日で済ませてしまう窮屈日程なら、日本楽器は5連戦に巻き込まれていたことになります。もっとも、準決勝が3日がかりになるとは誰も想像しないものでしょうけど…。

準決勝(大会10日目第1試合)

準決勝第1ラウンドは、日本楽器が3本のソロアーチで先手をとり、日立製作所は2ランで反撃します。7回表、日本楽器は代打・三原のヒットをきっかけに内野ゴロでリードを2点に広げました。

迎えた9回裏、日立は一死満塁から松浦がライト線を破ります。2者生還して同点、サヨナラの走者は本塁でアウト、打者走者の松浦も三塁でタッチアウトです。結局、同点のまま延長13回で引き分けて、日本楽器にとって3度目の延長戦は2度目の再試合となります。

準決勝は9回裏に追いつかれて延長14回引き分け

この試合は準決勝の第1試合でした。第2試合は2時間遅れで午後8時半プレイボールになったそうです。4時間で打ち切って再試合というルールだったのかもしれません。

準決勝再試合(大会11日目)

準決勝第2ラウンドは静かなゲームです。1回は両チームともに3者凡退、11個のゼロが積み重なります。6回裏、ヒットの細川を米倉が送り、片桐の投手ゴロで細川が三塁に進みます。両チームを通じて初めての三塁走者です。

ここで、激しくなった雨のため25分中断して、そのままノーゲームとなっています。6回途中のノーゲームですので正式試合として認めらずオフィシャルな記録としては残りませんが、試合は行われたのです。

準決勝再試合は6回裏で降雨ノーゲーム

東京管区気象台の観測値では、午後8時の時間降水量が0.7ミリ、午後9時が2.5ミリ、午後10時以降は「–」です(これが本当の0ミリ)。当時の観測露場は大手町ですので、後楽園とはたいした距離ではありません。雨がやむのを待ってもよかったのかもしれません。

 この日楽、予選の山静大会でもよく雨に降られて雨中試合は経験も豊かとか。森口日楽監督は「うちにはだれか雨を呼ぶ男がいるらしい。雨には絶対に強いのですよ」と冗談を言いながらも6日のノーゲームが決まってさすがに疲れきった様子。とうとう疲れのため選手4人が発熱し、全員ビタミン注射を打ちつづけながらの奮闘ぶりは涙ぐましいものがある。

「朝日新聞」1967年8月7日付朝刊

このノーゲームで、8日に予定されていた夏休みの巨人戦が中止になっています。1967年は輝くV9の3年目です。今とは比較できないほど「野球は巨人」だった時代です。

第38回都市対抗野球大会準決勝、日立対浜松戦が6日、雨のためのノーゲームとなり、7日午後3時半から行なわれることになった。このため優勝戦は8日午後6時半からに延期された。なお8日に予定されていた巨人・広島戦は巨人側の好意で中止となった。

「毎日新聞」1967年8月7日付朝刊

準決勝再々試合(大会12日目)

都市対抗では同一大会で再試合を2度戦ったチームは、この年の日本楽器と1979年の大昭和製紙(1回戦の日本通運戦、2回戦の新日鉄広畑戦)だけです。日本楽器は事実上3試合目の再試合になります。

準決勝第3ラウンドは5回に日立が高畠の二塁打で先制します。日本楽器は7回に中野のソロアーチで追いつき、第1ラウンドに続いて延長戦に入ります。この大会の延長戦は5試合でしたが、そのうち4試合が日本楽器です。

再々試合も延長10回

10回表、日本楽器は二死から米倉がエラーで出塁します。控え捕手の大場が殊勲のタイムリー三塁打、投手の仲子も内野安打で続き、とうとうファイナル進出を決めました。

翌8月8日付の「毎日新聞」には決勝で対戦する両チームの準決勝までの成績が掲載されています。日本石油の131打数31安打(.237)に対して、日本楽器は245打数61安打(.249)です。投球回数は日石の36イニングに対して日本楽器は65イニングに達します。

もちろん、ここにはノーゲームの分(17打数2安打、6イニング)が含まれていません。ノーゲームは正式試合ではないからです。これを足し算すると262打数63安打、71イニングとなり、日本石油のほとんど倍になります。

決勝(大会13日目)

日本石油はこの時点ですでに優勝4回を誇る強豪です。準決勝までの4試合を一度もリードを許すことなく順当に勝ち上がってきた大本命でもあります。延長にも逆転にも縁がない完勝でした。日石のエースは平松政次です。準決勝まで4試合すべてに登板、33イニング投げて被安打17、無四球で失点2でした。

決勝は完封負け

中2日登板の平松は、4連戦目でお腹いっぱいの日本楽器を軽くひねっています。5安打無四球でこの大会3試合目の完封、2回には自らのホームランでチーム優勝と橋戸賞(MVP)に華を添えました。

大会主催者の「毎日新聞」は、翌8月9日付で「洗練された王者・横浜 浜松(日本楽器)の敢闘精神」と題された丸谷記者による署名記事を紙面右上に配しています。いわば大会の総評にあたるのでしょうが、冒頭7行で優勝した日本石油を称えただけで、準優勝の日本楽器には実に38行を費やしています。

1967年のグッドルーザーは新美敏を擁した5年後の1972年、川島勝司監督のもとで都市対抗初優勝を果たします。

投手起用と打撃成績

ノーゲームを含む8試合分の投手起用です。

日本楽器の投手起用

登録メンバーと打撃成績は次のとおりです。左端は背番号、○印は補強選手です。加藤、三原、米倉、三田は大昭和製紙ですが、柏原がどこの選手かはわかりません。「1左3-0」は「1番レフトで3打数ノーヒット」と読んでください。

登録メンバーと打撃成績

◆2002年の九州大学選手権では日本文理大が延長23回の準決勝のあと同日の決勝に臨んでいます。トーナメント大会で準決勝の1試合が長引くと、そのチームが決勝戦で不利になるのは自明です。都市対抗では2003年から採用された「タイブレーク」は、そうさせないための知恵なのだと私は理解しています。
◆Wikipedia「第38回都市対抗野球大会」のページでは1回戦再試合の延長10回の決勝点に関する記述が「押し出し四球」になっており、私の「死球押し出し」と異なります。たいした差異ではありませんが、もし気になるようでしたら調べてみてください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました