盛岡の江とは

木曽川は長野と愛知では南北に流れていますが、岐阜県内ではおおむね東から西へ流れています。木曽川南岸の愛知県江南市には県立の江南高がありますが、江南商は存在しません。

屈斜路湖から太平洋へ注ぐ釧路川の河口付近にある釧路江南高の前身は釧路女子高であり、商業科を設置していた実績はありません。釧路にも江南商はありません。

北上川に東から中津川が、西からは雫石川が合流する地点が盛岡です。江南商は盛岡で4年間だけ存在しています。

江南義塾盛岡高の現在地は北上川西岸の前九年町(赤)です。ここは「江南」ではありません。名前だけで歴史を感じさせるこの町に江南義塾盛岡高が移転したのは1980年のことです。まだ岩手橘高の名称でした。

前九年町に移転する前の校舎は御厩橋北詰の大沢川原(青)にあったようです。大沢川原は北上川と中津川の合流地点です。ということは、大沢川原もまた「江南」の地ではありません。

江南義塾高Webサイトには理事長の「あいさつ」が掲載されています。

本校は、明治25年9月菊池道太先生により、当時県下に一つしかない盛岡中学校入学のための予備校「育英学舎」として、盛岡市加賀野に創設されました。翌月には「学術講習会」と改称され、明治30年には日影門外小路に移転し、明治33年に「江南義塾」と改称されました。幾多の変遷の後、昭和25年から「岩手橘高等学校」となりましたが、平成7年開学の精神に立ち返りさらなる発展を期して、「江南義塾盛岡高等学校」と改称され現在に至ります。

校舎が日影門外小路(緑)にあった時代に「江南義塾」を名乗ったようです。盛岡城の日影門そのものは今の北日本銀行本店付近にあったそうですが、町域名としての日影門外小路は盛岡郵便局付近だそうです。

日影門外小路も地形的には「江南」ではありません。創立の地は加賀野(黄)ということです。場所を特定できたわけではありませんので、マーカーは適当に打ちました。実際にはもっと上流だったのかもしれません。

加賀野なら中津川の「江南」だと言えそうです。ただし、釈然としないのは日影門に移ってから「江南」を名乗っていることです。「沿革と現況」のページには次のような記述があります。

中国の江南地方は、気候温暖・地味肥沃で昔から文物の栄えた理想郷とされていますが、先生は東北、わけても岩手こそ、中国の江南であるとの誇りと理想を掲げて塾経営に当たるとともに、塾所在地が中津川南側地区に位置していたこともあって、上記「江南の橘」を念頭に置いて、塾名を「江南義塾」と定めたものと推測されます。

というわけで、川との位置関係はあまり重要ではなく、むしろ「江南の橘、江北の枳となる」の故事から名付けられたもののようです。疑問は解決しましたが、困ったことがあります。

江南商業学校は1934年に岩手商業学校と改称し、1944年の戦時転換で岩手農業学校になり、その後は商業校に復していません。1944年時点の所在地が日影門外小路なのか大沢川原なのか判明していません。

もちろん暫定的なものですが、MAPではとりあえず大沢川原にマーカーを置きました。国土地理院の1948年の航空写真では、大沢川原に校舎らしいものが確認できます。