北上川に雫石川に中津川、「盛岡の江」とは?

江南

長江(揚子江)はユーラシア大陸最長の河川です。何の前提もなく「江」と言えば、長江を指すのが一般的です。「江南」はもともとは長江より南、主に下流域のことです。韓国・ソウルでは漢江以南が「江南」になります。

長江(揚子江)

木曽川は長野と愛知では北から南に流れていますが、岐阜県内ではおおむね東から西へ流れます。木曽川南岸の愛知県江南市には県立江南高校があります。木曽川沿いに江南商は存在しません。

屈斜路湖から太平洋へ注ぐ釧路川の河口付近にある釧路江南高校の前身は釧路女子高です。商業科を設置していた実績はありません。釧路にも江南商はありません。新潟市には江南区があり、県立新潟江南高があります。江南商はありません。新潟の「江」は信濃川に決まっています。

江南商は盛岡で4年間だけ存在しています。一時は岩手商でしたが、今は江南義塾盛岡高校です。盛岡の場合、北上川に東から中津川が、西からは雫石川が合流します。東北本線(東北新幹線)には東から山田線が、西から田沢湖線(秋田新幹線)が合流します。川と鉄路の並走は日本では珍しい光景ではありません。

江南義塾盛岡
盛岡(地理院タイルを加工)

江南義塾盛岡高の現在地は北上川西岸の前九年町(赤マーカー)です。ここはどう見ても「江南」ではありません。

江南義塾盛岡の「江南」とは

1892年旧制中学の予備校として育英学舎が創設
1900年江南義塾に改称
1930年江南商業学校に改称
1934年岩手商業学校に改称
1944年岩手農業学校に改称
1948年学制改革で岩手農業高等学校
1950年岩手橘高等学校に改称
1980年大沢川原(地図の3)から現在地に移転
1995年江南義塾盛岡高等学校に改称
▲Wikipedia>江南義塾盛岡高等学校「沿革」から

歴史を感じさせる前九年町ですが、リアルな話では刑務所跡地だそうです。江南義塾盛岡高が前九年町に移転したのは1980年のことです。まだ岩手橘高の名称でした。移転前の校舎は御厩橋北詰の大沢川原(3)にあったようです。

橋の架替えのために移転を余儀なくされたようです。大沢川原は北上川と中津川の合流地点です。大沢川原もまた「江南」の地ではなく、むしろ真逆の「江北」です。

校舎が日影門外小路(2)にあった時代に「江南義塾」を名乗っています。盛岡城の日影門そのものは今の北日本銀行本店付近にあったそうですが、町域名としての日影門外小路は盛岡郵便局付近だそうです。日影門外小路も地形的には「江南」ではありません。

創立の地は加賀野(1)ということです。場所を特定できたわけではありませんので、マーカーは適当に置いています。実際にはもっと上流だったのかもしれません。加賀野なら中津川の「江南」だと言えなくはありません。

江北の枳となるなかれ、の意

江南義塾高Webサイトには次のように記載されています。

中国の江南地方は、気候温暖・地味肥沃で昔から文物の栄えた理想郷とされていますが、先生は東北、わけても岩手こそ、中国の江南であるとの誇りと理想を掲げて塾経営に当たるとともに、塾所在地が中津川南側地区に位置していたこともあって、上記「江南の橘」を念頭に置いて、塾名を「江南義塾」と定めたものと推測されます。

江南義塾盛岡高等学校>沿革と現況(2023/03/22閲覧)

「江南の橘、江北の枳(からたち)となる」の故事から名付けられたもののようです。「橘は食べられるのに、見た目が似ている枳は苦くて食べらず、しかも枝には鋭いトゲがある」ことから「人は環境によって性質が変わる」という意味で使われるそうです。

「枳ではなく橘になれ」ということなのでしょう。川との位置関係はあまり重要ではなかったわけです。私の疑問は解決しましたが、困ったことがあります。

江南商業学校は1934年に岩手商業学校と改称し、1944年の戦時転換で岩手農業学校になり、その後は商業校に復していません。1944年時点の所在地が日影門外小路なのか大沢川原なのか判明していません。

もちろん暫定的なものですが、MAPではとりあえず大沢川原にマーカーを置きました。国土地理院の1948年の航空写真では、大沢川原に校舎らしいものが確認できます。

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