三峰五岳の一角

雲仙岳の最高峰は平成新山の1483mです。ピーク時は1488mだったそうです。平成新山は1990年から1996年にかけての普賢岳の噴火活動で形成された溶岩ドームです。「三峰五岳の雲仙岳」の「三峰五岳」に平成新山は入っていません。

「三峰」は普賢岳(1359m)、国見岳(1347m)、妙見岳(1333m)で、「五岳」は九千部岳(1062m)絹笠岳(879m)、高岩山(881m)、野岳(1142m)、矢岳(940m)です。

「四峰五岳」に昇格?しなかったのは、平成新山が普賢岳の派生物という認識だからからなのでしょうか。1991年6月には噴火による火砕流で40人以上が亡くなり、全焼した小学校は災害遺構として保存されています。2012/12のストビューです。

さて、「雲仙岳」はもともとは島原半島の山々の総称だったそうですが、ときに普賢岳の別称のように用いられたり、「三峰」もしくは「三峰五岳」を指すこともあるようです。

アメダス観測地点としての「雲仙岳」は、風速・風向については絹笠山の山頂、気温や降水量、日照時間はその麓の温泉街に設けられています。年間の平均風速は1978~2002年が1.2~1.5km/s、2003年以降が4.4~4.9km/sです。

温泉街で計測していた風速・風向の観測ポイントを、温泉街より200mほど標高の高い絹笠山山頂に移したのが2003年ということになりそうです。赤のマーカーが絹笠山山頂で、「雲仙地獄」が温泉街です。

青が普賢岳山頂、その東の盛り上がったところが平成新山、緑のマーカーは旧・大野木場小学校の被災校舎です。絹笠山から普賢岳まで直線で約4.5kmになります。破線が市境界で、西が雲仙市、東が島原市、南は南島原市です。

絹笠山山頂の「雲仙岳」観測地点における4月9日23:40から4月10日0:30にかけての10分ごとの最大瞬間風速は次のように推移しました。風のピークは日付を跨いだこの1時間でした。

  • 23:40 28.0km/s
  • 23:50 31.8km/s
  • 24:00 31.2km/s
  • 00:10 32.3km/s
  • 00:20 27.2km/s
  • 00:30 28.1km/s

4月9日23:48に記録された31.8km/sはこの日の最大瞬間風速全国1位、4月10日00:06に記録された32.3km/sも最大瞬間風速全国1位です。ピークがたまたまこの時間帯だったことで「一粒で二度おいしい」結果が訪れたのでした。

雲仙には行基が開祖とされる大乗院満明寺と温泉(うんぜん)神社があります。空海や義経と同様、行基も各地に「伝説」を残しています。いずれは「行基MAP」を作成するつもりです。


【2019/04/17追記】
4月13日と14日の本泊(利尻島)でも同じ現象が起きています。13日23:42に20.6m/s、14日0:40に22.1m/sを記録した本泊は2日連続で瞬間最大風速1位です。ありがちなことのようです。

駅前立地で統合後の跡地は即売

統合によって移転・閉校となった学校の敷地が10年経っても校舎の取り壊しさえ行われていないケースは珍しくありません。解体するだけでもそこそこの費用が生じます。人口が減って閉校するわけですから、有効利用は難しいのが実情でしょう。

堺市立商・第二商の場合は即売だったようです。堺市立商業学校は1921年の設立で、1923年に今の南海電鉄高野線浅香山駅前の敷地に校舎を新築しています。浅香山駅の開業は1915年です。

学校があるから駅ができたのではなく、最初から駅があったところに学校をつくったということになります。第二商の設立は1940年です。いったん廃止されますが、敷地と校舎を共有する形で1952年に定時制が独立開校します。

大和川は大阪市と堺市を隔てる市境界となる河川です。浅香山駅には各駅しか停まりませんが、ターミナルのなんば駅から20分前後です。しかも、並行する西の南海本線七道駅や東のJR阪和線浅香駅まで約1kmという恵まれた立地になります。

堺市立工・第二工との合併統合は2008年4月です。2007年の全日制入学生は2009年度末まで市立商に通っています。2007年の定時制入学生は2010年度の最後の1年間を市立工に新設された堺市立高で授業を受けたようです。

スムーズに売却が決まったからです。校舎はリニューアルされて関西大学堺キャンパスになっています。お買い得であることは間違いありません。転売制限が付いているとしても、この立地ならおいしい資産です。

2010年2月のストビューです。まだ引き渡しされていない時期ではないかと思われますが、奥にはクレーン車のようなものが見えます。まあ、全日制の授業は終わっているでしょうし、定時制の時間帯には工事はしないものでしょう。

丼池はどこにあったのか?

「丼池」は大阪難読地名の三役クラスです。「どいけ」と読みます。「丼」を「どぶ」と読めるものではありません。まして、ドブ川の「どぶ」がそのまま正式な地名になるという自虐的な発想がなかなか出てきません。

この「丼池」なる池は実在していたようです。小学館「デジタル大辞泉」は次のように記述しています。

大阪市中央区南船場にあった池。明治7年(1874)に埋められた。池に面していた丼池筋には第二次大戦前は家具問屋、戦後は繊維問屋が密集。旧名、芦間池(あしまいけ)

コトバンク「丼池」

明治初期に埋められてしまったドブ池は、いったい南船場のどこにあったのでしょうか。丼池筋沿いであることは確定です。丼池筋は御堂筋の2本東を南北に走る通りです。

御堂筋の1本東は心斎橋筋であり、夜間以外は歩行者専用道路のアーケード付き商店街です。ここには訪日外国人相手のドラッグストアが林立しています。お隣の丼池筋はさほど特徴的というわけでもありません。

今は撤去されていますが、大阪初のアーケードは丼池筋だったそうです。大阪船場丼池筋連盟は1954年に設立された丼池問屋街協同組合を引き継ぎ、本町3丁目から南久宝寺3丁目までの500mの区間を「丼池ストリート」と称しています。

地図上の緑の線が「丼池ストリート」です。赤のマーカーは、本来のテーマである芦池(女子)商の跡地です。今は消滅した高校の所在地を探しているうちに、私は明治初期に埋められた丼池を探す羽目に陥ったのでした。

江戸時代の古地図を眺めてもそれらしき池は見当たりません。スマホに「大阪こちずぶらり」をインストールしてみましたが、やはり丼池筋沿いに池を見つけることができません。

そうこうするうちに、ピンポイントで丼池の所在地を示しているWebページが見つかりました。

「どぶいけ」というのは大阪市のど真ん中にある街・船場(せんば)の繊維問屋街のなかにある商店街です。漢字で書くと「丼池」。一角というか、南北に通っている道筋のことです。現在は埋め立ててありませんが大阪大空襲の1トン爆弾の炸裂跡「丼池」が戦後久宝中学となり現在は久宝公園として残っています

船場 小野利>船場 小野利 の紹介

明治初期に埋められた丼池のほかに、もう1つの丼池が1945年3月の大阪大空襲によって出現したようです。丼池筋沿いの爆弾跡が(第2の)丼池と呼ばれても不思議ではありません。引用元のページでは画像も公開されています。

大阪市街地に落とされた1トン爆弾は直径60cmで長さ180cmだそうです。数10m規模のちょうど丼のような穴が生じたでしょうし、やがて雨がたまってドブ池になったのかもしれません。ただし、丼池筋の名称は戦前の地図にも散見されます。

難波藁師(なにはやくし)塩町心斎橋車町にあり。
本尊薬師仏は弘法大師の作にて、長五寸三歩。古は天台の仏院にして難波薬師堂と号す。
年久しく荒廃に及んで、本尊も民家に伝はり、近世ここに安置す。毎月八日・十二日、宵薬師とて法会あり。
現成地址(げんじょうちのあと)この地に井あり。むかしは広き池にして巡りに片葉の芦を生ず。今什物とす。
とぷ地と称ずるはこの池の名なるペし。

摂津名所図会>巻之四 大坂(おほさか)の号>難波薬師

このページには地図も添えられています。赤丸がついているのは、芦池(女子)商跡地から2つ南の区画でした。住居表示では南船場3丁目5番のブロックです。

大阪市立芦池女子商業学校は1944年の設立です。国策により男子の商業校は主に工業校化するわけですが、その埋め合わせで女子の商業校が開設されるのは当然のことなのかもしれません。

今の南船場3丁目にあった国民学校の校舎が芦池女子商になります。芦池女子商は1948年の学制改革で芦池商高になりますが、同年より住吉商高が同居し、2年後には住吉商が芦池商を吸収、その2年後には8km南の元の校地に移転します。

「庇を貸して母屋を取られる」のではなく、「庇を貸して母屋から追い出される」という憂き目にあったことになります。もっとも芦池商の校舎・校地を受け継いだのは大阪市立芦池小学校ですから、元に戻っただけとも言えます。

芦池小は1987年に大宝(だいほう)小、道仁(どうにん)小との3校統合で、南小となります。南小は大宝小の校地に開設されましたので、芦池小の校地は空いたわけですが、次の「入居者」は丼池筋を挟んで隣接する南幼稚園でした。

2013/09のストビューです。鉄扉越しに小学校の石碑を確認することができます。校舎は取り壊され、一角には地域住民のための南船場会館が建てられています。幼稚園のグラウンドとして使われているようです。

名古屋の育英

愛知県立旭丘高校Webサイトには次のような記述があります。

愛知一中の校歌は、マラソン王日比野寛校長自らの作詞によるもので、明治37年に制定されました。これは日本で最初の校歌であるといわれています。四句二十連の長い詩の中には、愛知一中の教育理念が随所に盛り込まれていたため、旭丘高校と改称された後も、しばらくは歌い継がれていました

愛知県立旭丘高等学校>旭丘高校について 校歌

残念ながら「日本で最初の校歌」の歌詞は掲載されていませんし、今の校歌とは違うようです。日比野寛校長が愛知一中を退職するのは1916年のようです。翌1917年4月の第13回衆議院議員総選挙で憲政党から立候補して当選しています。

ちなみに、愛知一中が第3回全国中等学校優勝野球大会で敗者復活から優勝したのは同年8月です。愛知一中校長在任中の1908年に日比野寛は夜間の「育英学校」を立ち上げています。

1920年に昼間課程の「商業育英学校」が設立され、日比野寛は1922年から「名古屋育英商業学校」の校長に就任します。代議士は1期限りでした。やがて「育英商業学校」は東邦学園の傘下に入り、1935年には「金城商業学校」と改称します。

この「金城商業学校」は1945年3月の空襲で校舎(青)を失い、東に1.2km離れた兄弟校(赤)に同居することになります。学制改革を経て1952年には正式に東邦高に合併吸収されます。

名古屋市北区には「金城」という町域名があります(黄)。名古屋城の北側です。「金城商業学校」は今の東区東桜であり、名古屋城の南東です。どうして「金城」なのか気になりますが、地名ではなく人名なのかもしれません。

それはさておき、「金城商業学校」の最終所在地は東邦高ということになるわけです。東邦高は千種駅周辺の再開発で1971年に郊外の東山キャンパス(緑)に移転します。

なお、東邦商は戦時転換で系列の大同工業学校北校舎となり、商業校としては戦前で終わっているようです。

【外部リンク】
学校法人東邦学園>第41回「金城商業」最後の卒業アルバム
橦木倶楽部通信第4輯>50 育英商業学校-日比野寛-

伊那スタジアム脇の記念碑

伊那商業学校は1939年創立で1948年閉校の私立校です。所在地探しは難航するだろうと覚悟していましたが、拍子抜けするほどあっさり見つかりました。先駆者のおかげです。

伊那商の跡地は今では「伊那スタジアム(旧・長野県伊那運動公園野球場)」になっています。1947年9月22日米軍撮影の航空写真です。画像上部に見えるのが伊那商の校舎になるはずです。

国土地理院 空中写真(1947/09/22撮影)

実際には校舎は南向きに建てられていますので、国土地理院の写真の方位を60°ほど右に傾ける必要があります。次に示すのはGoogleMapによる今の航空写真です。外野が芝でないもう1つの球場は「伊那市営野球場」です。

赤のマーカーは「伊那商業学校建立跡記念碑」が建っている場所です。孫引きするしかありません。「この朝日ヶ丘の学舎を巣立った我々同窓生六三四名、「士魂商才」の大旆を掲げたこの地は我々の魂の故郷である」とのことです。

もちろん有志だとしても、わずか634名の卒業生でよくぞこの石碑を建てたものです。閉校後の校舎や講堂は、旧制・長野県立農林専門学校(→信州大農学部)が一時的に借用していたようです。

なお、学校用地はもともと伊那町のものだったようです。伊那商について詳しくは末尾外部リンクでどうぞ。

【外部リンク】
くーる長野 ~隠れた見所 おいしい食事~>「高遠ぶらり」を楽しむ~伊那商業学校跡地に行ってみました~