海岸から200m、標高1m

今回の「商業高校MAP」で対象とするのは600校を超えそうでが、津波被害がもっとも大きかったのは石巻市立女子商だったのだろうと思われます。海岸からの距離は約200mで、標高はおそらく1mかせいぜい2mです。

当然のことながら、石巻女子商の校舎は使えず、日和山公園の近くにある石巻女子高の敷地に仮校舎を建てることになります。震災前から再編統合の話はあったようですが、2つの市立女子高は2015年に統合されます。

2011年入学の生徒は2014年に卒業するわけですから、2012年入学生との2学年は仮校舎で高校生活の丸3年を過ごしたことになります。石巻女子商(赤)から西に約2kmの位置に石巻ガスの本社ビル(青)があります。

震災後、石巻ガスは本社機能を日和山公園の麓にあるガスビルに移したそうです。津波到達時のビル屋上からの映像は今もYou Tubeに残っています。この事務所の営業再開は2012年10月ということです。会話に登場する湊中は4階建てです。

津波はほぼ同じ規模で石巻女子商をも襲ったはずです。都立武蔵高同窓会Webサイトに石巻女子商の理科教諭が寄稿しています。「校舎1階部分は津波に打ち抜かれ、体育館や弓道場は破壊・流出」したそうです。

入試翌々日で自宅学習日だったそうですが、その先生は学校からまずは鹿妻小学校(黄)に、次いで菅原神社(緑)に避難しています。Google Earthで調べたとところ、鹿妻小学校の標高は1~2m程度ですが、菅原神社は10~15mです。

たとえ神職を置かずとも、沢であれ井戸であれ水を必須とする神社が、このような絶妙な場所につくられがちなのは先人の知恵なのではないかと疑いたくなります。「稲むらの火」の広八幡神社にしても標高は12mです。

菅原神社が遷座されたのは1767年のようです。1611年の慶長三陸地震は誰も実体験していないことになります。1763年には宝暦八戸沖地震が起きていますが、津波の最大高さは宮古付近の4mということですから、直接の影響はなさそうです。

埋め込んだのは2013年5月のストリートビューです。校舎解体を経て統合後も「石巻女子商業高前」バス停の名前はそのままだったようですが、今年になって「栄田」バス停に変わったそうです。

【外部リンク】
東京都立武蔵高等学校同窓会>東日本大震災の被災地にて


帯広南?商

「商業高校MAP」を見ながら、ふと気づいたことがあります。帯広南商が白樺学園の北側にあるのです。そんなはずはありません。白樺学園が帯広商として創立された翌年に開校した帯広南商は、帯広商の南にあるべきです。

調べてみると両校とも移転していました。ただ、両校のWebサイトでは移転した年はわかりましたが、移転前の所在地はいずれも記載されていませんでした。まあ、そんなものかもしれません。両者の大雑把な沿革は次のとおりです。

  • 1958★帯広商が帯広市白樺16条西2丁目に開校
  • 1959◆帯広南商が帯広市西17条南5丁目に開校
  • 1965★帯広商が白樺学園に改称
  • 1989◆帯広南商が帯広市西21条南5丁目に移転
  • 1996★白樺学園が芽室町北伏古に移転

創立時の位置関係はたしかに帯広商の南に帯広南商がありました。赤のマーカーが帯広商→白樺学園で、青のマーカーが帯広南商です。

先に移転した帯広南商は南5丁目から南5丁目への移転ですので、緯度はほとんど変わりません。白樺学園が市町境となる帯広の森運動公園の隣接地に移転したとき、旧・帯広商は帯広南商の南に回り込んだことになります。

旧・帯広商がなければ、帯広南商は素直に帯広商を名乗ったはずです。先に帯広商ができたために「南」を付して区別を容易にしたかったのでしょうが、旧・帯広商との位置関係だけで「南」になったわけでもなさそうです。

帯広市の中心部は駅の北側です。帯広市役所も、北海道銀行帯広支店も、NHK帯広放送局も、北海道電力帯広支店も、地元百貨店の藤丸も、国の出先機関の合同庁舎も、すべて帯広駅の北側にあります。

根室本線で南北に分けると南側であることに変わりはありませんが、中心部から見ると移転後の南商は西としか言えません。このような現象は各地で見られますので、最近の新設校の名称では東西南北がむしろ珍しくなっているのでしょう。

さて、白樺学園の跡地にはショッピングモールが入っていますが、帯広南商の跡地は依然として遊休土地?のままのようです。南商の移転はもう30年前です。2012年5月のストリートビューを埋め込みました。

桃李不言

池袋駅西口に20m×6mほどの小さな公園があります。塀には梟のレリーフが10個ほど埋め込まれており、公園中央のモニュメントは夜間にライトアップされます。センターポールの頂点に設置されているのは風見鶏仕様の親子連れフクロウです。

ホテルメトロポリタン正面玄関の向かい側にあるこの公園の名前は「元池袋史跡公園」ですが、高い木はありませんし腰掛けるスペースも限られているため公園感は薄く、単に歩道のショートカットコースという認識で済まされそうです。

この公園には「池袋地名ゆかりの地」の石碑だけではなく、「成蹊学園発祥の地」の碑もあります。成蹊学園とは言うまでもなく吉祥寺の成蹊学園ですが、「成蹊」を名乗る学校法人は、東京と大阪以外にも福島と福岡にあります。

いずれも史記の文言に由来するだけで、相互に人的・資本的関係はないようです。福島成蹊高校は、1944年から1949年まで福島成蹊女子商という名称でした。当時の校舎は福島市宮町にあったようですが、正確な所在地がわかりません。

宮町に校舎があったのは1914年から1959年にかけてです。いくら60年前と言っても、高校なら一定規模以上の敷地が必要です。宮町の町域には結構な境内と駐車場を備えた稲荷神社もあります。候補となる区画をかなり絞ることができます。

おそらくは、今の福島文化学園(幼稚園)の5階建てビルが旧・福島成蹊女子商の校地だったのではないかと推測されます。赤のマーカーを置いたところです。今の福島成蹊高校は青のマーカーの位置にあります。

福島文化学園のWebサイトを覗いてみたところ、幸いにも「沿革」のページがありました。今の5階建てビルは1965年の新築だそうです。一応、時期的には符合します。

もっとも、福島文化学園はもともとこの土地にあったのかもしれません。そして、福島成蹊女子商の校舎が別のところにあったという可能性が排除されたわけでもありません。

柏崎商跡地の柏崎翔陽

Wikipediaの「新潟県立柏崎商業高等学校」のページには、やや独りよがりと思えなくもない次のような記載があります(2018/12/07現在)。

2000年に創立90周年を迎えたが、2002年4月から募集を停止し、2004年3月閉校。校舎は新潟県立柏崎翔洋中等教育学校に転用された。
新潟県立柏崎農業高等学校と統合して新潟県立柏崎総合高等学校となったとされることが多い一方で、卒業証明書の交付申請先には柏崎翔洋中等教育学校が指定されているが、両校ともに柏崎商業について具体的な言及をしていないため、後身に該当するのかは定かではない。

再編の対象とされた3校は、商業高校と農業高校、それに元来は女子校で被服科や保育科を設置していた常盤高校です。3校の統廃合に先立って、常盤高校の保育科は閉科となり、付属幼稚園も閉園になっています。

常磐高校の被服科は商業高校と農業高校の各科とともに農業高校の校地に新設された総合高校(青)に引き継がれ、常盤高校(緑)は普通科単置で存続、商業高校の校地には中高一貫の柏崎翔洋中等教育学校(赤)が設置されています。

中等教育学校の都道府県別設置数は、東京が最多で国立2校と区立1校を含めて8校です。新潟は県立オンリーの7校で、これに次ぐのは神奈川(私立3校)と愛媛(私立2校)5校です。九州は3校で東北は2校ですから、新潟は突出しています。

Wikipediaには「両校とも柏崎商業について具体的な言及をしていない」と記述されていますが、総合高校Webサイトの「学校長挨拶」では次のように言及されています(2018/12/07現在)。

平成14年4月、新潟県立柏崎農業高等学校、新潟県立柏崎商業高等学校、新潟県立柏崎常盤高等学校の被服科を再編成統合し、総合学科を設置する現在の新潟県立柏崎総合高等学校へと生まれ変わりました。

卒業証明書の件は行政サービスとしては決してイレギュラーな対応ではありません。車をどこに停めればいいのか、事務室の窓口がどこにあるのか、行ったことのない学校で迷わせるより賢明かもしれません。

SYOUGYOUの跡地にSYOUYOUが新設されたわけですが、「翔洋」の由来について翔洋校Webサイトでは触れられていません。様々な思惑が交錯する中で落とし所を探った結果がこうなったというのが実情ではないかと想像したくなります。

「しょう」の音を残して校名変更した商業高校

酒田商跡地に小学校

2012年に酒田市内の公立高校4校が統合されて、山形県立酒田光陵高校が新設されています。さすがに4校統合は珍しいと思われます。酒田市の人口は10万人強です。同規模他市の10月1日現在の法定人口と市内の高校数は次のとおりです。

  • 107,014人 石川県小松市 7校
  • 105,717人 愛媛県西条市 5校
  • 102,397人 鹿児島県鹿屋市 6校
  • 102,353人 山形県酒田市 4校(ほかに通信制1校)
  • 101,784人 茨城県筑西市 5校(ほかに高等専修学校1校)
  • 101,286人 岡山県津山市 6校
  • 99,157人 長野県飯田市 5校

人口10万人なら高校生相当の人口は1学年900人台です。1学年1000人で考えると40人学級で25クラスになります。統合前の7校は多いでしょうが、統合後の4校は思い切った決断だったのかもしれません。

さて、酒田光陵高は旧・酒田中央高の校地に新設され、校舎は隣接地に増築されました。ご近所だった旧・酒田工高と旧・酒田北高は市街地からやや外れた酒田北港の近くにあります。

酒田商工会議所は両校の跡地利用に関して用途地域を変更してほしい意向を表明しています。跡地をどうするかはまだ決まっていないわけです。一方、市街地にある旧・酒田商の跡地はストリートビューで確認することができました。

埋め込んだのは2012年11月のストリートビューです。表札には「酒田市立亀城小学校」と刻まれています。旧・酒田商高の近くにあった亀城小も統合対象であり、同校敷地内で新校舎を建設する2年間、旧・酒田商を仮校舎としていたようです。

閉校後の高校の校舎に中学校が入ってくるケースは比較的よくありますが、小学校が入居するのはあまり聞きません。2018年7月のストビューでもこの校舎は残っています。

結局、亀城小が亀ケ崎小として元の校地に戻った2014年以降は空家状態が続いているということのようです。

盛岡の江とは

木曽川は長野と愛知では南北に流れていますが、岐阜県内ではおおむね東から西へ流れています。木曽川南岸の愛知県江南市には県立の江南高がありますが、江南商は存在しません。

屈斜路湖から太平洋へ注ぐ釧路川の河口付近にある釧路江南高の前身は釧路女子高であり、商業科を設置していた実績はありません。釧路にも江南商はありません。

北上川に東から中津川が、西からは雫石川が合流する地点が盛岡です。江南商は盛岡で4年間だけ存在しています。

江南義塾盛岡高の現在地は北上川西岸の前九年町(赤)です。ここは「江南」ではありません。名前だけで歴史を感じさせるこの町に江南義塾盛岡高が移転したのは1980年のことです。まだ岩手橘高の名称でした。

前九年町に移転する前の校舎は御厩橋北詰の大沢川原(青)にあったようです。大沢川原は北上川と中津川の合流地点です。ということは、大沢川原もまた「江南」の地ではありません。

江南義塾高Webサイトには理事長の「あいさつ」が掲載されています。

本校は、明治25年9月菊池道太先生により、当時県下に一つしかない盛岡中学校入学のための予備校「育英学舎」として、盛岡市加賀野に創設されました。翌月には「学術講習会」と改称され、明治30年には日影門外小路に移転し、明治33年に「江南義塾」と改称されました。幾多の変遷の後、昭和25年から「岩手橘高等学校」となりましたが、平成7年開学の精神に立ち返りさらなる発展を期して、「江南義塾盛岡高等学校」と改称され現在に至ります。

校舎が日影門外小路(緑)にあった時代に「江南義塾」を名乗ったようです。盛岡城の日影門そのものは今の北日本銀行本店付近にあったそうですが、町域名としての日影門外小路は盛岡郵便局付近だそうです。

日影門外小路も地形的には「江南」ではありません。創立の地は加賀野(黄)ということです。場所を特定できたわけではありませんので、マーカーは適当に打ちました。実際にはもっと上流だったのかもしれません。

加賀野なら中津川の「江南」だと言えそうです。ただし、釈然としないのは日影門に移ってから「江南」を名乗っていることです。「沿革と現況」のページには次のような記述があります。

中国の江南地方は、気候温暖・地味肥沃で昔から文物の栄えた理想郷とされていますが、先生は東北、わけても岩手こそ、中国の江南であるとの誇りと理想を掲げて塾経営に当たるとともに、塾所在地が中津川南側地区に位置していたこともあって、上記「江南の橘」を念頭に置いて、塾名を「江南義塾」と定めたものと推測されます。

というわけで、川との位置関係はあまり重要ではなく、むしろ「江南の橘、江北の枳となる」の故事から名付けられたもののようです。疑問は解決しましたが、困ったことがあります。

江南商業学校は1934年に岩手商業学校と改称し、1944年の戦時転換で岩手農業学校になり、その後は商業校に復していません。1944年時点の所在地が日影門外小路なのか大沢川原なのか判明していません。

もちろん暫定的なものですが、MAPではとりあえず大沢川原にマーカーを置きました。国土地理院の1948年の航空写真では、大沢川原に校舎らしいものが確認できます。

釜石商跡地は復興住宅

ある程度は覚悟していたことですが、「商業高校MAP」は移転や統廃合でかなり苦戦しています。釜石商は2009年に釜石工との統合で釜石商工となり、釜石商工は大観音近くの旧・釜石工の校舎を使用しています。

旧・釜石商が浮いたわけですが、2018年の今でもその体育館は拠点避難所に指定されています。2011年の震災当時はまだ校舎も残っていたようです。

グラウンドへの仮設住宅の建設が始まったのは震災1か月後です。4階建てと思われる校舎は解体され、8階建ての復興住宅に生まれ変わっています。

釜石市のWebサイトに「東日本大震災 釜石市教訓集 未来の命を守るために」というPDFファイル(↑)がありました。

「巡ウラ」の「准ウラ」

新制高校スタートの1948年第30回大会と翌1949年第31回大会では、ともに巡ウラ優勝校が西九州であり、しかも「巡ウラ」の「准ウラ」が成立しています。一般的にはウラのウラはオモテですが、「巡ウラ」の「准ウラ」はウラです。

1948年の「巡ウラ」は北松高校です。北松高校は1955年に北松農業高校に改称しています。

  • 小倉1-0桐蔭1-0西京商5-0享栄商11-0鹿島一
  • (西九州大会)鹿島一11-5佐賀一7-2武雄7-0海星
  • (長崎予選)《諫早4-2海星》4-1長崎工
  • (大村地区)長崎工-大村-北松

この年の長崎予選は6校のトーナメントです。長崎工は1回戦不戦勝であり、海星は1回戦で島原に勝っています。したがって、「准ウラ」の成立要件を満たします。

  • 小倉1-0桐蔭1-0西京商5-0享栄商11-0鹿島一
  • (西九州大会)鹿島一11-5佐賀一7-2武雄7-0海星
  • (長崎予選)《諫早4-2海星》13-0島原
  • (島原地区)島原7-4島原商、島原6-1島原商

地区代表決定戦では島原と島原商が2試合戦っており、島原の連勝でした。島原商が予選に参加したのはこの年だけで、サッカーの強豪校として台頭するのは1970年代のことです。

1949年の「巡ウラ」は有田工です。

  • 湘南5-3岐阜5-2倉敷工7-6小倉北15-4長崎東
  • (西九州大会)長崎東5-1鹿本3-1佐世保北5-1佐賀
  • (佐賀予選)《龍谷5-0佐賀》佐賀8-0鹿島5-0有田工

有田工は1956年に現在の校地に移転しています。同校Webサイト「学校沿革」には次のように記載されています。

1902年(明治35) 5月 有田町泉山に、同町白川より新校舎移転
1956年(昭和31) 4月 有田町中部桑古場に泉山より新校舎移転完了

所在地の詳細はわかりませんが、移転が1950年代なら形跡が残っていても不思議ではありません。Google Mapを航空写真に切り替えてみると、おそらくここだったのだろうという場所があります。

赤いラインの北側が「泉山」です。右上の県道233号線沿いの区画は学校用地の雰囲気が漂います。小規模な高校ならこんなものです。決めつけても大怪我はしないと思われます。

有田工は佐賀予選1回戦が不戦勝でした。有田工を退けた鹿島は1回戦で佐賀工に勝っています。つまり、佐賀工は「准ウラ」優勝校となります。

  • 湘南5-3岐阜5-2倉敷工7-6小倉北15-4長崎東
  • (西九州大会)長崎東5-1鹿本3-1佐世保北5-1佐賀
  • (佐賀予選)《龍谷5-0佐賀》佐賀8-0鹿島11-8佐賀工

有田工と佐賀工はいわば兄弟校の関係にあります。1900年、金工科と木工科の佐賀県工業学校に窯業科の有田分校が設置されます。有田分校は1903年に佐賀県立有田工業学校として分離独立しています。

埋め込んだストリートビューは陶器製の鳥居で有名な陶山(すえやま)神社です。す。もちろん有田町にあります。

ローカルガイドさんによる2017年4月撮影のものです。360度パノラマカメラは今では2~3万で購入できますが、三脚が必要なうえに自分が写り込まないようにしなければならず、素人にはハードルが高そうです。

福岡農跡地は沖学園が継承

敗者復活戦が行なわれた1916年第2回大会の「巡ウラ」優勝校を辿ってみます。予選は九州大会の名称になっていたようですが、参加した10校はすべて福岡勢です。

  • 慶応普通部6-2市岡中5-4鳥取中9-6中学明善《広島商19-4中学明善》
  • (九州大会)中学明善9-2福岡工13-1福岡商25-0福岡農

福岡県立福岡農業高校のWebサイト「学校沿革」によれば、1916年当時の福岡県立福岡農学校は福岡市博多区竹下(当時の筑紫郡那珂村)に校舎があったようです。博多区竹下をGoogle Mapで開いてみました。

沖学園が怪しそうです。沖学園は1958年に博多商業高校として開校しています。福岡農が福岡市南区塩原に移転したのも1958年です。福岡農の校地は沖学園に払い下げられたものと思われます。

福岡県立博物館のWebサイトで公開されている1934年発行の「最新福岡市街及郊外地図」にアサヒビールの工場に隣接して「農学校」があります。確定です。

埋め込んだストリートビューは2014年1月撮影の沖学園です。脇の道路は「竹下通り」という通称のようです。

さて、福岡農は初参戦の1916年第2回から1954年第36回まで7回挑んで7連敗、1976年第58回以降は連続出場しており、初勝利は1977年第59回です。

1979年から1995年まで17年連続初戦敗退ですが、この間に沖学園と2度対戦しています。1987年は1対21、1993年は1対25という派手な最終スコアです。

野球部は弱小チームでも、福岡農は1948年2月の全国中等学校対抗駅伝で優勝しており、学制改革を経た翌1949年の高校対抗駅伝でもV2を果たしています。

今の「全国高等学校駅伝競走大会」は1950年が第1回です。1953年と翌1954年の第4回と第5回の優勝チームは、当時「福岡県立筑紫野高校」と称していた福岡農です。ただし、今の福岡農には陸上部あるいは駅伝部はないものと思われます。

純粋な農業科は全国規模でもすでに絶滅危惧種であり、今の福岡農に設置されているのは都市園芸科、環境活用科、食品科学科、生活デザイン科です。「土を耕し 心を耕し 未来を耕す」の校訓が色褪せないことを希望します。

跡地利用は難題?

1968年第50回大会はオモテの優勝校が興国で、ウラは寒河江工です。

  • 興国1-0静岡商2-0倉敷工6-3広陵8-2岩国商1-0日大山形
  • (山形大会)17-0山形東7-2山形南5-1寒河江5-0酒田商2-0寒河江工

寒河江工は1回戦不戦勝であり、酒田商は1回戦で温海(あつみ)を7対0で破っているため、温海は「准ウラ優勝校」ということになります。

東田川郡温海町は2005年10月に、鶴岡市、藤島町、羽黒町、櫛引町、朝日村と合併しています。この結果、合併後の鶴岡市は面積では東北最大の基礎自治体となり、出羽三山はすべて合併後の鶴岡市に属することになりました。

  • 月山(鶴岡市、庄内町、西川町)
  • 湯殿山(鶴岡市、西川町)
  • 羽黒山(鶴岡市)

山形県立温海高は2002年に鶴岡中央高の分校となり、2012年3月末で閉校になっています。最後の卒業生は7人だったようです。あつみ温泉の下流域です。

埋め込んだストリートビューは2012年9月撮影のものです。奥の4階建てと隣の体育館が分校の建物です。跡地利用について、体育館を(日本最大規模の)映画スタジオにして映画村にしようというプランもあったようです。

実現したというニュースは見つかりませんので、断念したものと思われます。解体費用は約1億円だそうです。Google Earthプロには2015年10月撮影の衛星写真がありますが、校舎はこの時点では解体されていません。再訪が必要なようです。