名古屋の育英

愛知県立旭丘高校Webサイトには次のような記述があります。

愛知一中の校歌は、マラソン王日比野寛校長自らの作詞によるもので、明治37年に制定されました。これは日本で最初の校歌であるといわれています。四句二十連の長い詩の中には、愛知一中の教育理念が随所に盛り込まれていたため、旭丘高校と改称された後も、しばらくは歌い継がれていました

愛知県立旭丘高等学校>旭丘高校について 校歌

残念ながら「日本で最初の校歌」の歌詞は掲載されていませんし、今の校歌とは違うようです。日比野寛校長が愛知一中を退職するのは1916年のようです。翌1917年4月の第13回衆議院議員総選挙で憲政党から立候補して当選しています。

ちなみに、愛知一中が第3回全国中等学校優勝野球大会で敗者復活から優勝したのは同年8月です。愛知一中校長在任中の1908年に日比野寛は夜間の「育英学校」を立ち上げています。

1920年に昼間課程の「商業育英学校」が設立され、日比野寛は1922年から「名古屋育英商業学校」の校長に就任します。代議士は1期限りでした。やがて「育英商業学校」は東邦学園の傘下に入り、1935年には「金城商業学校」と改称します。

この「金城商業学校」は1945年3月の空襲で校舎(青)を失い、東に1.2km離れた兄弟校(赤)に同居することになります。学制改革を経て1952年には正式に東邦高に合併吸収されます。

名古屋市北区には「金城」という町域名があります(黄)。名古屋城の北側です。「金城商業学校」は今の東区東桜であり、名古屋城の南東です。どうして「金城」なのか気になりますが、地名ではなく人名なのかもしれません。

それはさておき、「金城商業学校」の最終所在地は東邦高ということになるわけです。東邦高は千種駅周辺の再開発で1971年に郊外の東山キャンパス(緑)に移転します。

なお、東邦商は戦時転換で系列の大同工業学校北校舎となり、商業校としては戦前で終わっているようです。

【外部リンク】
学校法人東邦学園>第41回「金城商業」最後の卒業アルバム
橦木倶楽部通信第4輯>50 育英商業学校-日比野寛-

伊那スタジアム脇の記念碑

伊那商業学校は1939年創立で1948年閉校の私立校です。所在地探しは難航するだろうと覚悟していましたが、拍子抜けするほどあっさり見つかりました。先駆者のおかげです。

伊那商の跡地は今では「伊那スタジアム(旧・長野県伊那運動公園野球場)」になっています。1947年9月22日米軍撮影の航空写真です。画像上部に見えるのが伊那商の校舎になるはずです。

国土地理院 空中写真(1947/09/22撮影)

実際には校舎は南向きに建てられていますので、国土地理院の写真の方位を60°ほど右に傾ける必要があります。次に示すのはGoogleMapによる今の航空写真です。外野が芝でないもう1つの球場は「伊那市営野球場」です。

赤のマーカーは「伊那商業学校建立跡記念碑」が建っている場所です。孫引きするしかありません。「この朝日ヶ丘の学舎を巣立った我々同窓生六三四名、「士魂商才」の大旆を掲げたこの地は我々の魂の故郷である」とのことです。

もちろん有志だとしても、わずか634名の卒業生でよくぞこの石碑を建てたものです。閉校後の校舎や講堂は、旧制・長野県立農林専門学校(→信州大農学部)が一時的に借用していたようです。

なお、学校用地はもともと伊那町のものだったようです。伊那商について詳しくは末尾外部リンクでどうぞ。

【外部リンク】
くーる長野 ~隠れた見所 おいしい食事~>「高遠ぶらり」を楽しむ~伊那商業学校跡地に行ってみました~

柏の城本丸跡

志木市は町(市)自体がややこしい変遷をたどっています。志木町と宗岡村は離婚して再婚したレアな事例です。

  • 1889年 新座郡志木町
  • 1896年 北足立郡志木町
  • 1944年 北足立郡志紀町(合併)
  • 1948年 北足立郡志木町(分離)
  • 1955年 北足立郡足立町(合併)
  • 1970年 志木市

さて、本題の商業高校です。1939年に設立された志木町立商業学校は、戦時転換で工業学校となり、1946年には商業校に戻り、学制改革で志木高になったものの、1949年には閉校となっています。

どうやら高校跡には志木中が移転してきたようです。そこで、志木中のWebサイトを覗いてみると、やけに詳しい沿革が記されていました。

昭和22年4月 埼玉県北足立郡志紀町立志紀中学校として開校。
昭和23年4月 町村分離により、志木中学校として独立校となる。
昭和24年3月 志木商業高校が廃校となり、校舎の全てを使用。(現在の志木第三小学校校地)
昭和37年3月 新校庭完成。(現在の志木中校地)
昭和49年3月 新校舎完成。(現在の校地)

埼玉県志木市立志木中学校>志木中学校の沿革

こういうことのようです。まず1939年に赤のマーカーのところに志木町立商業学校が設立されます。1949年の閉校後は中学校が移転してきます。1962年に青のマーカーのところがグラウンドとして整備されます。

1974年に志木中は赤から青に移転し、空いた赤のスペースで翌1975年に志木三小が開校したということになります。この一帯は戦国時代の「柏の城」跡で、三小付近が本丸だそうです。

ところで、2018年ゆるキャラグランプリでは志木市文化スポーツ振興公社の「カパル」が逆転で1位に輝いています。河童系のゆるキャラは一定の勢力を確保しています。

  • 遠野市「カリンちゃん&くるりんちゃん」
  • 株式会社chico「ゆずがっぱ」
  • 株式会社メニコン「メル助」
  • 久留米市「くるっぱ」
  • 小樽紙匠堂「おたる運がっぱ」
  • 相模女子大学「さがっぱ・ジョー」
  • 天竜区観光協会佐久間支部「さくまる」
  • 相良村「サガラッパ」
  • 株式会社中国銀行「カッパのかんちゃん」
  • 志木市商工会「カッピー」
  • 福崎町「フクちゃん・サキちゃん」

カパルとにゃんごすたーのコラボ動画がありました。本来、カパルの手は指先まで緑です。アコギをそのまま弾くこともあるようですが、さすがにエレベでは手首から先が白黒の縞模様に変わっています。3本指は変わらないようですが…。

力行

「カ行」(かぎょう)ではなく「力行」(りっこう、りょっこう)です。鉄道用語は別にして、ほぼ死語となっているものと思われます。青空文庫を「力行」で検索すると20件ほどヒットしました。

冷淡なる社界論者は言ふ、勝敗は即ち社界分業の結果なり、彼等の敗るゝは敗るべきの理ありて敗れ、他の勝者の勝つは勝つべきの理ありて勝つなり、怠慢、失錯、魯鈍、無策等は敗滅の基なり、勤勉、力行、智策兼備なるは栄達の始めなりと。

北村透谷「最後の勝利者は誰ぞ」(初出1892年)

「勤倹」との組み合わせで「勤倹力行」として使われることが多いはずです。四字熟語と校訓の世界では現役です。「力行」を校訓として掲げている高校は確認できた範囲でも両手で足りません。

  • 滋賀・膳所「遵義、力行」
  • 島根・出雲西「誠実力行・明朗率直」
  • 宮城・亘理「質実剛健・勤勉力行」
  • 岩手・専大北上「質実剛健・誠実力行」
  • 鳥取・米子東「誠実 力行 明朗 率直」
  • 新潟・糸魚川「勤倹力行」
  • 熊本・専大玉名「報恩奉仕 質実剛健 誠実力行」
  • 神奈川・相川「質実剛健 進取力行 至誠明徳」
  • 宮城・気仙沼向洋「尚志 創造 力行」
  • 岡山・矢掛「至誠力行」
  • 北海道・音更「自律力行」
  • 岩手・江南義塾「公明 正大 自主 独立 勤倹 力行」
  • 宮城・佐沼「至誠 献身 窮理 力行」

1939年に設立された力行商業学校は1944年に戦時転換で力行工業学校となっていますが、どうやら商業校に復することなく閉校になっているようです。所在地についても判然としませんので、MAPでは小竹町の力行会館にマーカーを置きました。

【外部リンク】
学校法人 日本力行会>あゆみ(年代順)

東経大の国分寺移転時期

東京経済大Webサイトのメニューボタンで「概要・歴史」をクリックして「東経大の歴史」のページを開くと、次のような年表が示されます。

1900(明治33)年
 大倉商業学校開校
 9月1日、東京・赤坂葵町に開校。翌年1月、夜学専修科を開校。
1919(大正8)年
 高等商業学校への昇格、認可される。
 大倉高等商業学校となり、名門高商として全国にその名を馳せる。
1944(昭和19)年
 大倉経済専門学校と改称
1946(昭和21)年
 赤坂葵町から国分寺へ移転

東京経済大学>概要・歴史>東経大の歴史

旧制の高等商業学校なら、今の私にとっては関心の対象外ということになりますが、大倉高等商業学校には中等科が設置されていたようです。この中等科が戦争と学制改革を経てどうなったのか、これだけではわかりません。

実はサイト内検索で見つけましたが、下のスライドメニューで「東経大の歴史が分かる博物館」から「東京経済大学118年の歴史」に入り、1946年の「戦時下校名変更と国分寺への移動」をクリックすると、次のポップアップが出てきます。

戦時下にあった1943年1月、文部省が中学校令・高等女学校令・実業学校令を廃止し中学校令を公布したことに伴い、大倉高等商業学校中等科は東京大倉商業学校に改称。1944年4月には、大倉高等商業学校が大倉経済専門学校へと改称する。1945年5月25日、夜半からの空襲により、別館・書庫・職員集会所・物置を残し、校舎の大半が焼失。教職員と学生は、終戦の8月15日を疎開先で迎えた。
空襲による校舎消失により、1946年1月20日、戦災を受けた赤坂葵町の校地・現存建物と引き換えに、大倉財閥系の兵器会社であった中央工業所有の土地・青年学校宿舎・工員宿舎などの建物の取得を決定し、国分寺に校舎を移転する。

東経大の歴史が分かる博物館>戦時下校名変更と国分寺への移動

1943年1月に公布された「中学校令」とは「中等学校令」の誤記と思われますが、中等科は「東京大倉商業学校」に改称しています。文脈からして、改称されたのは1943年のことでしょう。

1943年に改称されたのなら、今回の「商業高校MAP」の対象となります。肝心なのは後段です。本体の大倉経済専門学校が移転したのはわかりますが、東京大倉商業学校が移転したとは記載されていません。

また、1946年1月20日は「建物の取得を決定し」た日かもしれません。Wikipediaの「東京経済大学」のページでは、この日を国分寺移転の日としていますし(2018/12/20現在)、そのように読めなくもありません。

ただし、港区教育委員会の「デジタル港区教育史」は、大倉経済専門学校の国分寺移転を1946年5月としています。1944年4月のNo772に次のような記載があります。

私立大倉高等商業学校 大倉経済専門学校と改称(昭二〇・五戦災により焼失、昭二一・五国分寺市南町一の七に移転)

デジタル港区教育史> 港区教育史 上/下 39

いずれにせよ高等商業学校の中等科だった「東京大倉商業学校」に関する記述はなく、ここで足取りが途絶えてしまいます。最終所在地が校舎焼失時のホテルオークラ隣接地なのか、移転後の国分寺なのか判断できません。

移転しなかった可能性のほうが高いと思われますので、MAPでは虎ノ門ツインビルにマーカーを置きました。なお、札幌と神戸の大倉山は大倉財閥ゆかりですが、横浜の大倉山は同姓の別筋ということです。

そこ?

村田女子高Webサイトの「教訓・教育方針」のページです。

昭和6年、本校の母体となる「村田女子計理学校」(現 村田女子高等学校)を神保町の「村田簿記学校」に併設しました。昭和14年には小石川区久堅町(現在の文京区小石川)に独立移転、60年の歴史を刻みましたが、平成11年、文京区の要請で現在の本駒込に新築移転し、今日に至ります。

村田女子高等学校>校訓・教育方針

小石川移転は1939年で、本駒込移転が1999年ということになります。村田女子商から村田女子高への校名変更は1996年ですので、商業高校としての最終所在地は小石川です。

1995年の阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件のとき、私は小石川一丁目に住んでいました。通る機会は滅多にありませんでしたが1km圏内です。名前は知らなくても播磨坂に女子校があったことは覚えています。

「ゆびとま」には村田女子高のページはありませんが、村田女子商のページがあります。その住所は「文京区小石川五丁目40-18」になっています。今は播磨坂清掃事業所のビルが建っている場所が私の記憶にある女子校の位置(赤)です。

別件で「昭和毎日」で公開されている1956年の地図(末尾外部リンク)を見ていたら、村田学園の文字が目に止まりました。そこは私の記憶とは異なる場所です。「文」のマークは四丁目の共同印刷本社と同じブロックにあります(青)。

1956年当時の村田学園中学校は吹上坂のほうにあったようです。ただ、どうしても拭えない疑問があります。昭和毎日の地図上で「文」のマークが付いている場所の現況は墓地です。

1956年に学校用地だったのに今では墓地になっているというのは、あまりにも解せない話であって、素直に受け入れることはできません。社寺が移転してきたとしても、墓地が絡むと相当に厄介です。

国土地理院が公開している航空写真をチェックしてみました。1948年にはまだ播磨坂ができていません。播磨坂は西の言問通りと南の外苑東通りに接続するはずだった環状3号線です。

1956年の航空写真は画像が粗く、善仁寺付近はよくわかりません。1957年10月撮影の航空写真が次の画像です。

国土地理院 1957/10/10撮影 播磨坂付近

「>」字型の建物が私の記憶にある女子校の位置です。この写真では播磨坂と吹上坂の間の区画にグラウンドのようなものが見えます。今は23階建てのタワーマンションが建っています。小石川パークタワーは1991年築です。

肝心の善仁寺付近は今とあまり変化はありません。何らかの学校施設が共同印刷の区画にも存在していた可能性は排除できませんが、昭和毎日の「文」マークは適切なものではないのかもしれないと私は判断しています。

なお、播磨坂で検索してみたところ、江戸、明治、大正、昭和初期、昭和30年代、昭和末期の地図を掲載したページが見つかりました。村田女子商の校舎の形状は上の航空写真とは異なりますが、位置は一致しています。

【外部リンク】
昭和毎日>昭和の地図(小石川四、五丁目)
東京坂道ゆるラン>文京さくらまつりの播磨坂と環三通り

西の順天

順天堂大は箱根駅伝で優勝11回の名門です。順天高の女子陸上部は今年で第30回となる高校駅伝に16回目の出場を決めています。大学の運営主体は「学校法人順天堂」であり、高校は「学校法人順天学園」です。

順天堂大の歴史は1838年(天保9年)の蘭方医学塾「和田塾」に遡るそうです。佐倉に移った1843年に医学塾「順天堂」を名乗っています。順天堂医院の本郷移転は1875年(明治8年)で、順天堂医事研究会の発足が1885年(明治18年)です。

順天堂医学専門学校の開設が1943年(昭和18年)、大学に昇格するのは戦後の1946年です。学校法人順天堂は短大を持っていた時期はありますが、高校以下には手をつけていません。

一方、大阪では1834年(天保5年)に和算塾「順天堂塾」が開設されます。開設者とされる福田理軒は1815年生まれですので、開塾に際して実際のところは9歳年上の兄が主導していたのでしょう。

明治維新は1868年です。明治政府による太陽暦の採用は明治5年ですが、福田理軒は改暦にも携わっていたようです。上京した理軒とともに大阪の順天堂塾は1871年に東京に移転し、その名を「順天求合社」に改めます。

その移転先は東京市神田区中猿楽町4番地でした。神保町交差点から西に200mほどです。ほぼ同時期に私塾として開設された東と西の順天堂は、神田川を挟んで直線距離1km圏内でニアミスすることになったわけです。

西の順天は1894年(明治27年)に「尋常中学順天求合社」を設立、1900年には「順天中学校」に改称されますが、1913年の神田大火と1923年の関東大震災で校舎が2度全焼したということです。

震災後の区画整理で、順天中の換地先は神田区表猿楽町7番地(西神田一丁目8番地)に決まります。1933年には「順天商業学校」が併設されたのも束の間、太平洋戦争の空襲で校舎はまた焼けてしまいます。

順天中は順天商とともに葛飾区青戸に移転し学制改革を迎えます。やがて、1958年に順天高は北区王子に移転します。同時に中学は閉校となり(1995年再設置)、順天商は別法人に譲渡されています。

切り離された順天商は弥久茂高から高田高へと名前を変え、1969年に休校となります。今回の私のミッションは商業高校の最終所在地をMAP化することです。青戸の所在さえわかればそれでいいのです。

ただ、些細な疑問があります。末尾外部リンクの「順天高校青戸校舎跡」には、順天高校のWebサイトからその「沿革」が引用されています。9年半前の投稿ですが、当時と今と「沿革」の文言は一字一句変わっていません。

私が引っかかるのは「1928(昭和3)神田三崎町に移転し、校舎を新設 」のくだりです。末尾リンク先の「180年史」によれば、関東大震災後の区画整理による移転先はgoo古地図上の「高等女子仏英和学校」(→白百合学園)跡地のはずです。

古地図上の「天主公教会」とは現在のカトリック神田教会であり、道路を隔ててその東側の猿楽町二丁目2番の敷地は神田女学園と思われます。移転先は現在の「西神田一丁目」のはずなのです。

そもそも1928年には「三崎町」はあっても「神田三崎町」の町域名が存在しません。「神田三崎町」と称されるのは神田区が麹町区と合区される戦後のことです。「神田三崎町」の町域名が出現したときはもう青戸に移転しているのです。

「西神田」が町域名になるのは1933年か1934年のようです。「沿革」の文言は、なぜ西神田や移転時の表猿楽町ではなく神田三崎町なのか、このどうでもいい疑問に私はとらわれてしまったのでした。

震災後に急拵えで建てた校舎が中猿楽町にあり、区画整理で指定された換地先が表猿楽町だったために、主に建築中は学内では新校舎を「三崎町」として呼んでいたのかもしれません。すっきりした推理ではありませんが…。

【外部リンク】
おやじのつぶやき>51 順天高校青戸校舎跡
学校法人順天学園>順天180年史
落ちこぼれ高校生の3年間>第十五章《雑記》
goo地図>三崎町・西神田付近の古地図

海岸から200m、標高1m

今回の「商業高校MAP」で対象とするのは600校を超えそうでが、津波被害がもっとも大きかったのは石巻市立女子商だったのだろうと思われます。海岸からの距離は約200mで、標高はおそらく1mかせいぜい2mです。

当然のことながら、石巻女子商の校舎は使えず、日和山公園の近くにある石巻女子高の敷地に仮校舎を建てることになります。震災前から再編統合の話はあったようですが、2つの市立女子高は2015年に統合されます。

2011年入学の生徒は2014年に卒業するわけですから、2012年入学生との2学年は仮校舎で高校生活の丸3年を過ごしたことになります。石巻女子商(赤)から西に約2kmの位置に石巻ガスの本社ビル(青)があります。

震災後、石巻ガスは本社機能を日和山公園の麓にあるガスビルに移したそうです。津波到達時のビル屋上からの映像は今もYou Tubeに残っています。この事務所の営業再開は2012年10月ということです。会話に登場する湊中は4階建てです。

津波はほぼ同じ規模で石巻女子商をも襲ったはずです。都立武蔵高同窓会Webサイトに石巻女子商の理科教諭が寄稿しています。「校舎1階部分は津波に打ち抜かれ、体育館や弓道場は破壊・流出」したそうです。

入試翌々日で自宅学習日だったそうですが、その先生は学校からまずは鹿妻小学校(黄)に、次いで菅原神社(緑)に避難しています。Google Earthで調べたとところ、鹿妻小学校の標高は1~2m程度ですが、菅原神社は10~15mです。

たとえ神職を置かずとも、沢であれ井戸であれ水を必須とする神社が、このような絶妙な場所につくられがちなのは先人の知恵なのではないかと疑いたくなります。「稲むらの火」の広八幡神社にしても標高は12mです。

菅原神社が遷座されたのは1767年のようです。1611年の慶長三陸地震は誰も実体験していないことになります。1763年には宝暦八戸沖地震が起きていますが、津波の最大高さは宮古付近の4mということですから、直接の影響はなさそうです。

埋め込んだのは2013年5月のストリートビューです。校舎解体を経て統合後も「石巻女子商業高前」バス停の名前はそのままだったようですが、今年になって「栄田」バス停に変わったそうです。

【外部リンク】
東京都立武蔵高等学校同窓会>東日本大震災の被災地にて


帯広南?商

「商業高校MAP」を見ながら、ふと気づいたことがあります。帯広南商が白樺学園の北側にあるのです。そんなはずはありません。白樺学園が帯広商として創立された翌年に開校した帯広南商は、帯広商の南にあるべきです。

調べてみると両校とも移転していました。ただ、両校のWebサイトでは移転した年はわかりましたが、移転前の所在地はいずれも記載されていませんでした。まあ、そんなものかもしれません。両者の大雑把な沿革は次のとおりです。

  • 1958★帯広商が帯広市白樺16条西2丁目に開校
  • 1959◆帯広南商が帯広市西17条南5丁目に開校
  • 1965★帯広商が白樺学園に改称
  • 1989◆帯広南商が帯広市西21条南5丁目に移転
  • 1996★白樺学園が芽室町北伏古に移転

創立時の位置関係はたしかに帯広商の南に帯広南商がありました。赤のマーカーが帯広商→白樺学園で、青のマーカーが帯広南商です。

先に移転した帯広南商は南5丁目から南5丁目への移転ですので、緯度はほとんど変わりません。白樺学園が市町境となる帯広の森運動公園の隣接地に移転したとき、旧・帯広商は帯広南商の南に回り込んだことになります。

旧・帯広商がなければ、帯広南商は素直に帯広商を名乗ったはずです。先に帯広商ができたために「南」を付して区別を容易にしたかったのでしょうが、旧・帯広商との位置関係だけで「南」になったわけでもなさそうです。

帯広市の中心部は駅の北側です。帯広市役所も、北海道銀行帯広支店も、NHK帯広放送局も、北海道電力帯広支店も、地元百貨店の藤丸も、国の出先機関の合同庁舎も、すべて帯広駅の北側にあります。

根室本線で南北に分けると南側であることに変わりはありませんが、中心部から見ると移転後の南商は西としか言えません。このような現象は各地で見られますので、最近の新設校の名称では東西南北がむしろ珍しくなっているのでしょう。

さて、白樺学園の跡地にはショッピングモールが入っていますが、帯広南商の跡地は依然として遊休土地?のままのようです。南商の移転はもう30年前です。2012年5月のストリートビューを埋め込みました。

桃李不言

池袋駅西口に20m×6mほどの小さな公園があります。塀には梟のレリーフが10個ほど埋め込まれており、公園中央のモニュメントは夜間にライトアップされます。センターポールの頂点に設置されているのは風見鶏仕様の親子連れフクロウです。

ホテルメトロポリタン正面玄関の向かい側にあるこの公園の名前は「元池袋史跡公園」ですが、高い木はありませんし腰掛けるスペースも限られているため公園感は薄く、単に歩道のショートカットコースという認識で済まされそうです。

この公園には「池袋地名ゆかりの地」の石碑だけではなく、「成蹊学園発祥の地」の碑もあります。成蹊学園とは言うまでもなく吉祥寺の成蹊学園ですが、「成蹊」を名乗る学校法人は、東京と大阪以外にも福島と福岡にあります。

いずれも史記の文言に由来するだけで、相互に人的・資本的関係はないようです。福島成蹊高校は、1944年から1949年まで福島成蹊女子商という名称でした。当時の校舎は福島市宮町にあったようですが、正確な所在地がわかりません。

宮町に校舎があったのは1914年から1959年にかけてです。いくら60年前と言っても、高校なら一定規模以上の敷地が必要です。宮町の町域には結構な境内と駐車場を備えた稲荷神社もあります。候補となる区画をかなり絞ることができます。

おそらくは、今の福島文化学園(幼稚園)の5階建てビルが旧・福島成蹊女子商の校地だったのではないかと推測されます。赤のマーカーを置いたところです。今の福島成蹊高校は青のマーカーの位置にあります。

福島文化学園のWebサイトを覗いてみたところ、幸いにも「沿革」のページがありました。今の5階建てビルは1965年の新築だそうです。一応、時期的には符合します。

もっとも、福島文化学園はもともとこの土地にあったのかもしれません。そして、福島成蹊女子商の校舎が別のところにあったという可能性が排除されたわけでもありません。