柏崎商跡地の柏崎翔陽

Wikipediaの「新潟県立柏崎商業高等学校」のページには、やや独りよがりと思えなくもない次のような記載があります(2018/12/07現在)。

2000年に創立90周年を迎えたが、2002年4月から募集を停止し、2004年3月閉校。校舎は新潟県立柏崎翔洋中等教育学校に転用された。
新潟県立柏崎農業高等学校と統合して新潟県立柏崎総合高等学校となったとされることが多い一方で、卒業証明書の交付申請先には柏崎翔洋中等教育学校が指定されているが、両校ともに柏崎商業について具体的な言及をしていないため、後身に該当するのかは定かではない。

再編の対象とされた3校は、商業高校と農業高校、それに元来は女子校で被服科や保育科を設置していた常盤高校です。3校の統廃合に先立って、常盤高校の保育科は閉科となり、付属幼稚園も閉園になっています。

常磐高校の被服科は商業高校と農業高校の各科とともに農業高校の校地に新設された総合高校(青)に引き継がれ、常盤高校(緑)は普通科単置で存続、商業高校の校地には中高一貫の柏崎翔洋中等教育学校(赤)が設置されています。

中等教育学校の都道府県別設置数は、東京が最多で国立2校と区立1校を含めて8校です。新潟は県立オンリーの7校で、これに次ぐのは神奈川(私立3校)と愛媛(私立2校)5校です。九州は3校で東北は2校ですから、新潟は突出しています。

Wikipediaには「両校とも柏崎商業について具体的な言及をしていない」と記述されていますが、総合高校Webサイトの「学校長挨拶」では次のように言及されています(2018/12/07現在)。

平成14年4月、新潟県立柏崎農業高等学校、新潟県立柏崎商業高等学校、新潟県立柏崎常盤高等学校の被服科を再編成統合し、総合学科を設置する現在の新潟県立柏崎総合高等学校へと生まれ変わりました。

卒業証明書の件は行政サービスとしては決してイレギュラーな対応ではありません。車をどこに停めればいいのか、事務室の窓口がどこにあるのか、行ったことのない学校で迷わせるより賢明かもしれません。

SYOUGYOUの跡地にSYOUYOUが新設されたわけですが、「翔洋」の由来について翔洋校Webサイトでは触れられていません。様々な思惑が交錯する中で落とし所を探った結果がこうなったというのが実情ではないかと想像したくなります。

「しょう」の音を残して校名変更した商業高校

酒田商跡地に小学校

2012年に酒田市内の公立高校4校が統合されて、山形県立酒田光陵高校が新設されています。さすがに4校統合は珍しいと思われます。酒田市の人口は10万人強です。同規模他市の10月1日現在の法定人口と市内の高校数は次のとおりです。

  • 107,014人 石川県小松市 7校
  • 105,717人 愛媛県西条市 5校
  • 102,397人 鹿児島県鹿屋市 6校
  • 102,353人 山形県酒田市 4校(ほかに通信制1校)
  • 101,784人 茨城県筑西市 5校(ほかに高等専修学校1校)
  • 101,286人 岡山県津山市 6校
  • 99,157人 長野県飯田市 5校

人口10万人なら高校生相当の人口は1学年900人台です。1学年1000人で考えると40人学級で25クラスになります。統合前の7校は多いでしょうが、統合後の4校は思い切った決断だったのかもしれません。

さて、酒田光陵高は旧・酒田中央高の校地に新設され、校舎は隣接地に増築されました。ご近所だった旧・酒田工高と旧・酒田北高は市街地からやや外れた酒田北港の近くにあります。

酒田商工会議所は両校の跡地利用に関して用途地域を変更してほしい意向を表明しています。跡地をどうするかはまだ決まっていないわけです。一方、市街地にある旧・酒田商の跡地はストリートビューで確認することができました。

埋め込んだのは2012年11月のストリートビューです。表札には「酒田市立亀城小学校」と刻まれています。旧・酒田商高の近くにあった亀城小も統合対象であり、同校敷地内で新校舎を建設する2年間、旧・酒田商を仮校舎としていたようです。

閉校後の高校の校舎に中学校が入ってくるケースは比較的よくありますが、小学校が入居するのはあまり聞きません。2018年7月のストビューでもこの校舎は残っています。

結局、亀城小が亀ケ崎小として元の校地に戻った2014年以降は空家状態が続いているということのようです。

盛岡の江とは

木曽川は長野と愛知では南北に流れていますが、岐阜県内ではおおむね東から西へ流れています。木曽川南岸の愛知県江南市には県立の江南高がありますが、江南商は存在しません。

屈斜路湖から太平洋へ注ぐ釧路川の河口付近にある釧路江南高の前身は釧路女子高であり、商業科を設置していた実績はありません。釧路にも江南商はありません。

北上川に東から中津川が、西からは雫石川が合流する地点が盛岡です。江南商は盛岡で4年間だけ存在しています。

江南義塾盛岡高の現在地は北上川西岸の前九年町(赤)です。ここは「江南」ではありません。名前だけで歴史を感じさせるこの町に江南義塾盛岡高が移転したのは1980年のことです。まだ岩手橘高の名称でした。

前九年町に移転する前の校舎は御厩橋北詰の大沢川原(青)にあったようです。大沢川原は北上川と中津川の合流地点です。ということは、大沢川原もまた「江南」の地ではありません。

江南義塾高Webサイトには理事長の「あいさつ」が掲載されています。

本校は、明治25年9月菊池道太先生により、当時県下に一つしかない盛岡中学校入学のための予備校「育英学舎」として、盛岡市加賀野に創設されました。翌月には「学術講習会」と改称され、明治30年には日影門外小路に移転し、明治33年に「江南義塾」と改称されました。幾多の変遷の後、昭和25年から「岩手橘高等学校」となりましたが、平成7年開学の精神に立ち返りさらなる発展を期して、「江南義塾盛岡高等学校」と改称され現在に至ります。

校舎が日影門外小路(緑)にあった時代に「江南義塾」を名乗ったようです。盛岡城の日影門そのものは今の北日本銀行本店付近にあったそうですが、町域名としての日影門外小路は盛岡郵便局付近だそうです。

日影門外小路も地形的には「江南」ではありません。創立の地は加賀野(黄)ということです。場所を特定できたわけではありませんので、マーカーは適当に打ちました。実際にはもっと上流だったのかもしれません。

加賀野なら中津川の「江南」だと言えそうです。ただし、釈然としないのは日影門に移ってから「江南」を名乗っていることです。「沿革と現況」のページには次のような記述があります。

中国の江南地方は、気候温暖・地味肥沃で昔から文物の栄えた理想郷とされていますが、先生は東北、わけても岩手こそ、中国の江南であるとの誇りと理想を掲げて塾経営に当たるとともに、塾所在地が中津川南側地区に位置していたこともあって、上記「江南の橘」を念頭に置いて、塾名を「江南義塾」と定めたものと推測されます。

というわけで、川との位置関係はあまり重要ではなく、むしろ「江南の橘、江北の枳となる」の故事から名付けられたもののようです。疑問は解決しましたが、困ったことがあります。

江南商業学校は1934年に岩手商業学校と改称し、1944年の戦時転換で岩手農業学校になり、その後は商業校に復していません。1944年時点の所在地が日影門外小路なのか大沢川原なのか判明していません。

もちろん暫定的なものですが、MAPではとりあえず大沢川原にマーカーを置きました。国土地理院の1948年の航空写真では、大沢川原に校舎らしいものが確認できます。

釜石商跡地は復興住宅

ある程度は覚悟していたことですが、「商業高校MAP」は移転や統廃合でかなり苦戦しています。釜石商は2009年に釜石工との統合で釜石商工となり、釜石商工は大観音近くの旧・釜石工の校舎を使用しています。

旧・釜石商が浮いたわけですが、2018年の今でもその体育館は拠点避難所に指定されています。2011年の震災当時はまだ校舎も残っていたようです。

グラウンドへの仮設住宅の建設が始まったのは震災1か月後です。4階建てと思われる校舎は解体され、8階建ての復興住宅に生まれ変わっています。

釜石市のWebサイトに「東日本大震災 釜石市教訓集 未来の命を守るために」というPDFファイル(↑)がありました。

「巡ウラ」の「准ウラ」

新制高校スタートの1948年第30回大会と翌1949年第31回大会では、ともに巡ウラ優勝校が西九州であり、しかも「巡ウラ」の「准ウラ」が成立しています。一般的にはウラのウラはオモテですが、「巡ウラ」の「准ウラ」はウラです。

1948年の「巡ウラ」は北松高校です。北松高校は1955年に北松農業高校に改称しています。

  • 小倉1-0桐蔭1-0西京商5-0享栄商11-0鹿島一
  • (西九州大会)鹿島一11-5佐賀一7-2武雄7-0海星
  • (長崎予選)《諫早4-2海星》4-1長崎工
  • (大村地区)長崎工-大村-北松

この年の長崎予選は6校のトーナメントです。長崎工は1回戦不戦勝であり、海星は1回戦で島原に勝っています。したがって、「准ウラ」の成立要件を満たします。

  • 小倉1-0桐蔭1-0西京商5-0享栄商11-0鹿島一
  • (西九州大会)鹿島一11-5佐賀一7-2武雄7-0海星
  • (長崎予選)《諫早4-2海星》13-0島原
  • (島原地区)島原7-4島原商、島原6-1島原商

地区代表決定戦では島原と島原商が2試合戦っており、島原の連勝でした。島原商が予選に参加したのはこの年だけで、サッカーの強豪校として台頭するのは1970年代のことです。

1949年の「巡ウラ」は有田工です。

  • 湘南5-3岐阜5-2倉敷工7-6小倉北15-4長崎東
  • (西九州大会)長崎東5-1鹿本3-1佐世保北5-1佐賀
  • (佐賀予選)《龍谷5-0佐賀》佐賀8-0鹿島5-0有田工

有田工は1956年に現在の校地に移転しています。同校Webサイト「学校沿革」には次のように記載されています。

1902年(明治35) 5月 有田町泉山に、同町白川より新校舎移転
1956年(昭和31) 4月 有田町中部桑古場に泉山より新校舎移転完了

所在地の詳細はわかりませんが、移転が1950年代なら形跡が残っていても不思議ではありません。Google Mapを航空写真に切り替えてみると、おそらくここだったのだろうという場所があります。

赤いラインの北側が「泉山」です。右上の県道233号線沿いの区画は学校用地の雰囲気が漂います。小規模な高校ならこんなものです。決めつけても大怪我はしないと思われます。

有田工は佐賀予選1回戦が不戦勝でした。有田工を退けた鹿島は1回戦で佐賀工に勝っています。つまり、佐賀工は「准ウラ」優勝校となります。

  • 湘南5-3岐阜5-2倉敷工7-6小倉北15-4長崎東
  • (西九州大会)長崎東5-1鹿本3-1佐世保北5-1佐賀
  • (佐賀予選)《龍谷5-0佐賀》佐賀8-0鹿島11-8佐賀工

有田工と佐賀工はいわば兄弟校の関係にあります。1900年、金工科と木工科の佐賀県工業学校に窯業科の有田分校が設置されます。有田分校は1903年に佐賀県立有田工業学校として分離独立しています。

埋め込んだストリートビューは陶器製の鳥居で有名な陶山(すえやま)神社です。す。もちろん有田町にあります。

ローカルガイドさんによる2017年4月撮影のものです。360度パノラマカメラは今では2~3万で購入できますが、三脚が必要なうえに自分が写り込まないようにしなければならず、素人にはハードルが高そうです。