アメダス渡嘉敷、その隣接地は気が滅入る重さだった

アメダス渡嘉敷

2020年台風9号でアメダス渡嘉敷が観測した最大風速32.6m/sと最大瞬間風速47.5m/sは、ともに2020年の全国5位でした。2020年の年平均風速は4.9m/sで全国921観測地点のうち41位タイですので、上位5%に入っています。

また、2020年の1時間最大降水量は全国1294観測所のうち5位の115.5ミリでした。10分最大降水量は24位タイの26ミリです。ともに1977年3月の観測開始以来の最大値です。台風8号によるものです。

渡嘉敷島へのアクセス

渡嘉敷島は那覇港からフェリーで70分、高速船で35分です。海上タクシーは約1時間、タクシーヘリなら15分ということです。すべての運賃には環境協力税(100円)が上乗せされているものと思われます。沖縄本島の約30キロ西です。

渡嘉敷島付近
渡嘉敷島付近(地理院タイルを加工)

渡嘉敷島の面積は沖縄県12位です(沖縄本島を含む)。沖縄には人口1000人以上の島が12あります(同)。2019年1月1日現在の渡嘉敷島の人口は716人で、695人の粟国島、688人の小浜島を抑えて13位です。沖縄本島から見て渡嘉敷島の手前にある前島は人口1人です。渡嘉敷村の有人島はこの2島です。慶良間列島の西側は座間味村になります。

慶良間列島
慶良間列島(地理院タイルを加工)

紫のマーカーが村役場、青のマーカーがヘリポート、赤のマーカーがアメダス渡嘉敷です。アメダス渡嘉敷の標高は220mで沖縄では2番目に標高の高い観測所です。「国立沖縄青少年交流の家」の敷地内に計器類が設置されています。Google Mapでは「西展望台」と「東展望台」の間です。

「展望台」と名付けられていますが、塔が立っているわけでもなく、コイン式の双眼鏡が設置されているわけでもありません。まあ、文字どおりの「台」となるかもしれない岩だけは配置されています。私の感覚では展望広場です。2016年2月撮影のストビューを埋め込みました

Google Mapでは両展望の間に「集団自決跡地」があります。踏んではいけない地雷に私は触れてしまったのでした。

1945年3月28日の悲劇

米軍は3月26日に座間味島に上陸し、翌27日には渡嘉敷島に上陸したようです。沖縄本島を攻撃する補給基地として慶良間列島の島々を利用しようという企図だったそうです。山に逃げ込んだ住民のうち約300名が集団自決したのは28日です。

この台地後方の谷間は去る大戦において住民が集団自決
した場所である 米軍の上陸により追いつめられた住民は
友軍を頼ってこの地に集結したが敵の砲爆は熾烈を極め
遂に包囲され行く場を失い刻々と迫る危機を感じた住民は
「生きて捕虜となり辱めを受けるより死して国に殉ずること
が国民としての本分である」として昭和二十年三月二十八日
祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲壮な決意をした

集団自決跡地に渡嘉敷村名義で1993年に建立された石碑

沖縄戦の集団自決で100人規模に達するのは、伊江島、沖縄本島の読谷村、座間味島、渡嘉敷島です。石碑では 「老若男女三一五名」ですが、村のWebサイトでは330名とされています。いずれにせよ、渡嘉敷島の集団自決が沖縄最大であることに変わりはありません。

村の文化財に指定された2005年、ロサンゼルス・タイムスの記事が邦訳され、現地には村の教育委員会の名義で新たな説明板が掲げられています(引用文中の「注」は教育委員会によるものです)。

 米国の「野蛮人」の前に引き出されるよりも自殺する方を選んだ日本の民間人(注.渡嘉敷島の人々)が、死体あるいは瀕死の状態となって折り重なった見るも恐ろしい光景が、今日慶良間列島の渡嘉敷島に上陸した米兵達を迎えた。
 最初に現場に到着した哨戒隊に同行した、ニューヨーク市在住の陸軍撮影兵アレキサンダー・ロバーツ伍長は「いままで目にしたものの中で最も凄惨」と現場の様子を表現した。
 「我々は島の北端に向かうきつい坂道を登り、その夜は露営した。闇の中に恐ろしい叫び声や鳴き声うめき声が聞こえ、それは早朝まで続いた」と彼は語った。

渡嘉敷村>集団自決の実相・ここであったこと

渡嘉敷島と座間味島の集団自決は日本軍の命令あるいは関与があったかどうかで最高裁まで争われました。明示の命令があってもなくても最終的には集団催眠状態なのでしょうが、すくなくとも乳幼児については「自決」であるはずはありません。多くの場合は親が手をかけたものと思われます。

山に集まった住民は約600人ということです。手榴弾が不発で、ナタや鎌、鍬、棒、ひも、石などが使われ、(結果的には)半数近くが生き残ったことになります。そっちのほうが悲劇的です。

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