茶道発祥の地とは

「モータープールMAP(大阪以外)」に奈良市内11施設、京都市内1施設を追加しました。これで奈良県は270施設、奈良市は157施設を数えて、都道府県別では1位の兵庫に迫り、市町村別では2位の神戸を引き離しました。

12件はいずれも平置きの駐車場でした。まだまだ見つかるはずです。さて、今回追加したモータープールの近くにあったのが「茶道発祥の地」の石碑です。

何をもって「発祥」であると認定したのだろうと思ったわけですが、茶道の祖とされる村田珠光は11歳で出家して、この石碑から120m西にある浄土宗西山派の日輪山称名寺に入ったということです。

村田珠光は20歳になる前には称名寺を出てしまったという話もあります。珠光が茶道の原型を作ったのはその後になるはずです。まあ、あまり深追いしないのが平和なのかもしれません。

京都市上京区にある裏千家・今日庵は表千家・不審庵と隣接しており、武者小路千家の官休庵は南に700mほどです。千利休ゆかりの大徳寺真珠庵は京都市北区です。発祥は別にしてもメッカはやはり京都なのでしょう。

茶道を離れて、お茶そのものの起源にしても、奈良は形勢不利です。中国から持ち込んだお茶を比叡山山麓に植えたとされる最澄は、805年5月に神戸市和田岬に到着し7月に京都に入っています。

一方、最澄と同時期に唐に出発し東大寺や仏隆寺でお茶を栽培したとされる空海は806年10月に博多に着いたものの、大宰府での滞在期間が長く、関西に戻ったのは809年です。

ただし、茶筅については奈良県生駒市高山町が国産シェア90%だそうです。また、荒茶の生産量は京都5位で奈良6位のようです。茶道の確立に関わりのありそうな人物の生没年は次のとおりです。

  • 1394-1481 一休宗純
  • 1397-1471 能阿弥
  • 1423-1502 村田珠光
  • 1436-1490 足利義政
  • 1502-1555 武野紹鴎
  • 1520-1593 今井宗久
  • 1522-1591 千利休

関東一高

関東第一高等学校Webサイト「学園の概要」のページの「沿革」の項目です。「関東商業学校」の設立者・守屋荒美雄は、地図帳でおなじみの株式会社帝国書院の創業者でもあります。

大正14年 4月 守屋荒美雄・村上周三郎が関東商業学校を東京都千代田区神田錦町に設立
昭和14年 1月 江戸川区松島2丁目10番11号の現在地に移転
3月 関東工科学校(定時制)開校・電気科設置
昭和22年 4月 関東第一中学校併設
昭和23年 4月 学校制度の改正により関東綜合高等学校と改称
昭和28年 4月 関東商工高等学校と改称
昭和40年 4月 建築科設置
昭和48年 4月 商業科廃止・普通科設置
関東第一高等学校と改称

Wikipediaの「関東第一高等学校」のページでは次のように記載されています。

1925年 – 守屋荒美雄・村上周三郎が関東商業学校を東京都千代田区神田錦町三丁目3番地に設立
1939年 – 江戸川区松島二丁目10番11号の現在地に移転
1939年 – 電気科設置
1943年 – 帝国第一工業学校と改称
1943年 – 機械科設置
1945年 – 関東第一商工学校と改称
1947年 – 関東第一中学校併設
1948年 – 学校制度の改正により関東総合高等学校と改称
1953年 – 関東商工高等学校と改称

1943年(昭和18年)に「帝国第一工業学校」に名称変更しています。あいにく何月という記載はありません。「教育ニ関スル戦時非常措置方策」は1943年10月の閣議決定です。

これにいち早く対応して同年中に名称変更した可能性も排除できませんが、1939年に電気科、1943年に機械科が設置されていることからすれば、「工業」を名乗ることも不自然ではありません。

今回作成しようとしている商業高校MAPの対象は、1943年度以降に旧制「~商業学校」か新制「~商業高等学校」と称した学校ですが、これに該当するのか非該当なのか判断がつきかねます。

次やその次の企画も定まりましたので、このMAPに関してはあまり深掘りしないで、さっさと片付けようという意識になってきました。関東一高も対象とします。

明治4年に市は存在せず

福島県立福島商業高等学校のWebサイト「学校沿革」の冒頭4行です。

明治30年 福島町立福島商業補修学校として開校認可
大正11年 福島県立福島商業校と改称
昭和32年 創立60周年記念式典を挙行。記念事業として新校歌「若きこころ」発表昭和38年 福島西高女子高等学校新設にともない女子生徒募集停止

変遷が省略されるのは理解の範囲内ですが、そこを間違ってはいかんだろうと思ったりもします。Wikipediaの「福島県立福島商業高等学校」のページでは、大正11年には「福島県立福島商業校と改称」されたそうです。

福島大学の前身の1つである「福島経済専門学校」は1921年12月に設置され、翌1922年4月に1期生が入学しています。その際の名称は「福島高等商業学校」です。1922年は大正11年です。

つまり、1922年には旧制「福島商業学校」とともに旧制「福島高等商業学校」も成立しているわけです。この混同の可能性も否定できませんが、高校の歴史を語るのに大学の話が出てくるのも不自然ですので、単純なミスと思われます。

さて、福島市の市制施行は何年だろうかと、今度は福島市のWebサイトを覗いてみました(市勢概要>歴史)。

旧石器時代 福島盆地(信達地方)に人々が住むようになる。
<略>
1871年(明治4年) 福島県が誕生し、福島が県庁所在地となる。
1876年(明治9年) 福島県、磐城(いわき)県、若松(わかまつ)県が合併し、福島県となる。
1899年(明治32年) 東北初、日本銀行出張所(後に支店)が設置され、師範学校が置かれる。
1907年(明治40年) 市制施行(県内で2番目、全国で59番目の市として人口3万余人の「福島市」が誕生する。)

1871年に「福島が県庁所在地となる」とされています。市制施行第1号は1888年4月1日の大阪、京都、神戸、横浜など31都市ですから、1871年にはまだ「市」の制度そのものが存在しません。

1871年は信夫郡福島村が福島町になった年です。二本松県が福島県(第2次)に改称されたのと同じ年ですが、その先後についてはわかりませんでした。まあ、今や未来が大切なのであって、過去はアバウトでもいいものかもしれません。

ちなみに、福島県で最初に市に移行したのは1899年の若松市(→会津若松市)で、3番目が1924年の郡山市、4番目が1937年の平市(→いわき市)でした。

出自はやっぱりそこ

瀬川瑛子の母校でもある品川エトワール女子高校Webサイトの「沿革」のページの冒頭3行です。

1934 (S.9) 9.19.町田徳之助翁により、財団法人町田報徳会並びに町田報徳学舎設立。
1950 (S.25) 4.普通科の町田学園女子高等学校となる。
1984 (S.59) 9.創立50周年式典開催。

1934年から1950年まで「町田報徳学舎」で押し通したように解釈することもできますが、そんなはずはありません。男子校として設立された町田報徳学舎は、のちに町田報徳商業学校となり、1944年には何らかの転換を迫られているはずです。

学制改革は(高校については)1948年ですので、この時点でも名称変更が必ずあります。途中が思い切り省略されているわけですが、このようなケースは枚挙にいとまがありません。

で、町田報徳商業学校を深掘りしているうちにヒットしたのが、次のPDFファイルでした。

高校野球百科事典>高校野球創部調査β版>男子商業学校の戦時転換

やはりこの分野は高校野球と切り離せないもののようです。私は次の2つをリストアップしているところでした。後者に関しては、どこまで遡るのかという問題を抱えていました。

  1. 現存する商業高等学校
  2. かつての商業高等学校(または旧制の商業学校)

上のPDFをベースにすることができそうですので、1943年度以降に限定しようと考えています。私の問題意識に従い、「~実業」や「~商工」は対象外としますが、女子商業は含みます。分類としては次のようになります。

  1. 1943年度以降の旧制「~商業学校」で、現校名が「~商業高等学校」
  2. 1943年度以降の旧制「~商業学校」で、現校名が非「~商業高等学校」
  3. 新制「~商業高等学校」で、現校名も「~商業高等学校」
  4. 新制「~商業高等学校」で、現校名が非「~商業高等学校」

閉校の場合は2または4とします。いずれにせよ、MAPの元になるリストは組み替える必要があります。今週末にはMAP作成に着手するつもりでしたが、若干ずれ込みそうです。

MAP化するには所在地を把握する必要もあり、そう簡単にはいかないケースも多くあるでしょうが、ここまで来ればもう乗りかけた(泥?)舟です。

ところで、2006年発売の「河合奈保子・しんぐるこれくしょん」には「エトワール幼稚園園歌」が、2013年に発売された「河合奈保子 ゴールデン☆ベスト~B面コレクション~」には「町田学園女子高等学校校歌」が収録されています。

学園から作詞を依頼された売野雅勇の推薦だったようです。どうやらこの校歌と園歌は1990年代半ばに吹き込まれた音源で、おそらくはは非売品だったものと思われます。

長浜市南端にある長浜北と長浜北星

滋賀県立長浜北星高校のWebサイト「沿革」のページから、気になる部分を抜き出してみました(元号を西暦に置き換えています)。

  • 1924/04/10 「長浜町立長浜商業学校」設立
  • 1930/04/01 「滋賀県立長浜商業学校」と改称
  • 1944/04/01 「滋賀県立長浜工業学校」併設
  • 1948/03/31 「滋賀県立長浜工業学校」が廃止
  • 1948/04/01 「滋賀県立長浜南高等学校(商業、農業課程)」が設置
  • 1948/08/25 普通課程を設置、商業課程を「滋賀県立長浜北高等学校」に移転
  • 1948/09/18 定時制商業課程を「滋賀県立長浜北高等学校」に新設
  • 1949/04/01 県下公立高等学校編成替により、「滋賀県立長浜高等学校南校舎」と改称
  • 1950/04/01 平方町に新校舎完成。これを「南校舎」と称し、従来の「南校舎」を「中校舎」と改称し、全日制(普通、商業課程)定時制(商業課程)を設置
  • 1951/04/01 全日制工業課程(紡織科)を新設
  • 1952/11/15 校名を「滋賀県立長浜西高等学校」と改称
  • 1953/04/01 全日制工業課程に女子工芸科を新設
  • 1961/04/01 「滋賀県立長浜商工高等学校」と校名変更し、紡織科・繊維化学科・女子工芸科を繊維工業科に改編し、電気科の新設
  • 1998/04/01 全日制課程を総合学科に改編「滋賀県立長浜北星高等学校」に校名変更

記述不足ですので整理します。長浜北星の校名は次のように変更されています。

  • 1924年 長浜町立長浜商
  • 1930年 滋賀県立長浜商(県立移管)
  • 1948年 滋賀県立長浜南高(商→南)
  • 1949年 滋賀県立長浜高 南校舎(長浜北と統合)
  • 1950年 滋賀県立長浜高 中校舎
  • 1952年 滋賀県立長浜西高
  • 1961年 滋賀県立長浜商工高
  • 1998年 滋賀県立長浜北星高

1950年前後に「南校舎」や「中校舎」と呼ばれていたのですから、「北校舎」があるはずです。「北校舎」は1911年に高等女学校として開校した長浜北です。統合は長く続かず、1952年には北高と西高に再分割されます。

赤が中校舎(1952年当時の長浜西高校)で青が北校舎(当時の長浜北高校)です。北と西の位置関係はいたって妥当です。その後、1976年には緑の位置に長浜高校(2代目)が開校します。

さて、不幸の1つ目は「長浜北星」の名称です。なぜ「北星」なのでしょうか? 同校Webサイトの「学校長挨拶」のページに次のような記述があります。

本校校章には、天球に燦然と輝く北極星のごとく、若者たちの長い人生を生き抜く指針が与えられる高校に、湖北の希望の星と讃えられる高校になるようにとの願いが込められています。

それはそれで立派な理念でしょうが、「長浜」と「長浜北」がある以上、わざわざ「長浜北星」と名付ける必要はなかったのではないかと思わなくもありません。やがて、2つ目の不幸が訪れます。

長浜市は2006年に北の2町と合併し、2010年にはさらに北の6町を編入します。その結果、人口で滋賀県3位、面積では滋賀県1位となりました。旧・長浜市はその南端に位置しています。「長浜北星」から米原市との境界まで約3kmです。

3つ目の不幸は青の「長浜北」と緑の「長浜」が2016年に統合され、統合後は「長浜北」を名乗ったことです。歴史の長いほうが浅いほうを飲み込むのはよくあることです。そして、新・長浜北は緑の校舎を使うことになりました。

2度の合併により長浜市の市域は北に大きく広がりました。今は福井と岐阜の両県に接しています。南北は約40kmあります。その長浜市の南端に「北高校」と「北星高校」が共存しています。もともと赤と緑は市街地の南側でもあります。

いつか誰かがどこかで、(究極的にはどうでもいい)この疑問を抱くに違いありません。だとすれば、書き留めておく価値がありそうです。