尋常高等小学校に同居

富山湾沿岸の中新川郡水橋町は、西は富山市、東は滑川市と接していました。富山市に編入されたのは1966年です。1942年から1948年までの短期間存在した水橋商は、水橋町立東水橋実業学校として1935年に設立されています。

Wikipedia「富山県立滑川高等学校」の「沿革」から、水橋商関連の項目だけピックアップしてみました。(2018/12/30現在)

1935/09/30 水橋町立東水橋実業学校設立が認可され、同日より開校する
1942/03/27 富山県立水橋商業学校設立の件が認可される
1942/03/31 水橋町立東水橋実業学校を廃する
1942/04/01 水橋町立富山県水橋商業学校が開校する
1948/03/31 水橋町立富山県水橋商業学校を廃止する
1948/04/01 富山県立水橋高等学校(普通科、商業科)を開校する
1948/09/01 富山県立滑川高等学校、富山県立滑川女子高等学校、富山県立水産高等学校及び富山県立水橋高等学校を統合して、男女共学の富山県立滑川高等学校(普通科、商業科、薬業科、漁業科、水産製造科)を開校する
1952/05/01 定時制課程による富山県立滑川高等学校水橋分校(商業課程)を富山市立水橋中学校内において開校する
1968/04/01 定時制水橋分校の募集を停止する

Wikipedia>富山県立滑川高等学校

水橋商は1948年の学制改革に伴う再編で富山県立水橋高等学校となりますが、9月には共学化の方針に沿って4校が滑川高に一本化されます。水橋高としての寿命はわずか半年だったわけです。

同名の富山県立水橋高等学校は水橋駅の南側に現存しますが、体育コースを持つこの県立高校は1983年に開校した2代目です。「水橋高」で検索してもヒットするのは2代目ばかりということになります。

私が知りたいのは水橋商時代の所在地ですが、まるで手がかりがありません。行き詰まった私は1940年代の航空写真を眺めてみました。70年以上前で、しかも都市部ではありません。学校施設と思われる場所はすぐに目に入ります。

この場所が今の○○小学校だなと当てはめていくうちに、ふとPC画面の端に「水橋」の文字が目に止まりました。それはWikipediaに添えられた写真のキャプションでした。「東水橋尋常高等小学校に併設されていた東水橋実業学校」

なるほど。東水橋実は小学校への併設だったわけです。9月末という半端な時期に認可され即日開校したのは、すでに設備的には整っていたからでした。また、発足時に「水橋…」ではなく「東水橋…」としたのは仁義を切ったのかもしれません。

小学校併設なら新たに学校建設せずに低コストで学校を設置できます。生徒も今までと同じところに通うだけですから大きな負担にはなりません。高等小学校なら授業料は徴収しています。過渡期においてはたしかにグッド・アイデアです。

1952年に滑川高水橋分校が水橋中に開設されたのも同じ手法になります。東水橋尋常高等小学校は今の水橋中部小学校だそうです。「商業高校MAP」では水橋商のマーカーを今の水橋中部小に置きました。

比較的大きめの謎としては設置者があります。1942年3月27日に「富山県立…」で認可されているのに、実際に4月1日で開校したときは「水橋町立…」です。将来的な県立移管を前提にしたものだったのでしょうか。

伊那スタジアム脇の記念碑

伊那商業学校は1939年創立で1948年閉校の私立校です。所在地探しは難航するだろうと覚悟していましたが、拍子抜けするほどあっさり見つかりました。先駆者のおかげです。

伊那商の跡地は今では「伊那スタジアム(旧・長野県伊那運動公園野球場)」になっています。1947年9月22日米軍撮影の航空写真です。画像上部に見えるのが伊那商の校舎になるはずです。

国土地理院 空中写真(1947/09/22撮影)

実際には校舎は南向きに建てられていますので、国土地理院の写真の方位を60°ほど右に傾ける必要があります。次に示すのはGoogleMapによる今の航空写真です。外野が芝でないもう1つの球場は「伊那市営野球場」です。

赤のマーカーは「伊那商業学校建立跡記念碑」が建っている場所です。孫引きするしかありません。「この朝日ヶ丘の学舎を巣立った我々同窓生六三四名、「士魂商才」の大旆を掲げたこの地は我々の魂の故郷である」とのことです。

もちろん有志だとしても、わずか634名の卒業生でよくぞこの石碑を建てたものです。閉校後の校舎や講堂は、旧制・長野県立農林専門学校(→信州大農学部)が一時的に借用していたようです。

なお、学校用地はもともと伊那町のものだったようです。伊那商について詳しくは末尾外部リンクでどうぞ。

【外部リンク】
くーる長野 ~隠れた見所 おいしい食事~>「高遠ぶらり」を楽しむ~伊那商業学校跡地に行ってみました~

三春台か、六浦か

ミッション系の商業校はきわめて貴重です。太平洋戦争前後の短期間ながら関東学院商業学校があったようなのですが、関東学院大や関東学院高、関東学院六浦高のWebサイトでは確認できません。

関東学院と同じバプテスト教会に属する西南学院大のWebサイト上に次のようなPDF文書が見つかりました。

夜間授業の四年制、入学資格を旧制高等小学校とする関東学院商業学校を開設 (1940年)。1944年、非常時体制下で、商業学校は生徒募集を中止し、工業学校を設置する。1946年、工業学校は、商業学校と旧名称に復した。1948年、関東学院商工高等学校となる。1960年頃より入学生徒が減少、1970年、生徒募集停止。1973年、商工高等学校廃止。

西南学院大学>『関東学院百年史』を読んで p77

おかげさまで、所在地以外はこれで完璧のはずです。年表にすると、次のようになります。

  • 1940年 関東学院商業学校
  • 1944年 関東学院工業学校
  • 1946年 関東学院商業学校
  • 1948年 関東学院商工高等学校
  • 1970年 生徒募集停止
  • 1973年 閉校

4年制ですから、募集停止前年の1969年入学生は1973年に卒業します。卒業を待っての閉校である以上、関東学院高や関東学院六浦高が生徒を引き受けたわけではありません。商工高について何も触れないのは当然のことです。

商工高の所在地については、次のような情報があります。

昭和十五年四月、横浜市南区三春台の関東学院内に勤労青少年のための夜間甲種の商業学校として、発足した

関東学院大学>学院史資料室ニューズ・レターNo.5 p11

定時制だった商工高は主として関東学院高の施設を利用していたのでしょう。ただ、悩ましいことに商業校としての最終年度は1947年度です。関東学院高は戦禍で一時的に六浦(青)に移転しています。

三春台(赤)に戻ったのは1949年です。この際、関東学院高の一部が六浦教室として六浦に残り、1953年に正式に関東学院六浦高が分離しています。三春台の最寄り駅である京急黄金町駅と六浦の金沢八景駅間は今なら特急で25分です。

当時は本数も少なく、そんなに速くなかったはずです。1947年の時点では関東学院商は関東学院高とともに六浦に移転していたのかもしれませんが、通学への配慮で三春台に残っていた可能性もあります。

もはやネット上で確認できることではないでしょうから、とりあえず「商業高校MAP」ではマーカーを三春台に置きました。

校訓が「愛と誠」

唐突に脱線したのは、「愛と誠」を校訓としている高校があったからです。横浜女学院高校は横浜市中区山手町の西端にあります。同校Webサイトの「学校案内」のページには次のように記載されています。

校訓「愛と誠」
「愛と誠」は生きる力の基であるイエス・キリストの教えである。 いつも感謝をささげ、神さまに信頼をおき、絶えず希望を持つことにより、生きる喜びが与えられる。

横浜女学院中学校 高等学校>学校案内

宗教系の学校が商業校を名乗るのはかなり珍しいケースですが、横浜女学校の場合はもともとはキリスト教系ではありません。戦禍で2つの商業校が合併して、キリストが持ち込まれたのでした。

1945年(昭和20)5月29日、横浜大空襲で神奈川女子商業学校が全焼。一方の横浜千歳女子商業学校は、校舎を海軍に接収され、被災は免れたものの、破損の被害は甚大でした。こうした状況の中、やむを得ず、被災した神奈川女子商業学校が、横浜千歳女子商業学校の校舎を借用することになったのです。

青山学院大学ソーパー・プログラム>創立の礎>横浜学院

1943年創立の臣道女学院は翌44年に神奈川女子商に改称しています。1866年創立の山内小学校は、1921年に横浜千歳裁縫女学校、1933年に横浜千歳女学校、1936年に千歳高等家政女学校、1944年に横浜千歳女子商業学校です。

この両校が合併したのは1947年ですが、Wikipedia「横浜女学院中学校・高等学校」のページの「沿革」は次のように記載されています(2018/12/28現在)。これを素直に信じるなら、商業高校でなくなったのは1983年になります。

1921年 – 横浜千歳裁縫女学校設立
1941年 – 神奈川女子商業学校設立
1947年 – 横浜千歳女子商業学校と神奈川女子商業高等学校が併合、横浜女子商業学校・横浜女子中学校とする。
1983年 – 横浜学院女子中学校・高等学校と改称。
1999年 – 横浜女学院中学校・高等学校と改称。

Wikipedia>横浜女学院中学校・高等学校

1947年の段階で神奈川女子商業「高等」学校の名称はあり得ません。翌年の学制改革で高等学校が成立するはずです。一方、四谷大塚のWebサイトでは横浜女学院の沿革が次のように記載されています。

1947年に横浜千歳女子商業学校と神奈川女子商業学校が合併し、横浜女子高等学校と横浜女子中学校となり、1983年横浜学院女子中学校・横浜学院女子高等学校に改称。1999年、横浜女学院中学校・横浜女学院高等学校に校名を変更。

四谷大塚 中学案内>横浜女学院中学校

1947年の時点で横浜女子「高等」学校が存在するはずがありませんが、こちらに従うなら、商業校でなくなったのは1947年ということになります。だんだん楽しくなってきました。ポイントは1947年合併後の名称です。

  • Wikipedia説 横浜女子商業学校と横浜女子中学校
  • 四谷大塚説 横浜女子高等学校と横浜女子中学校

青学ソーパー・プログラムには「1947 年(昭和 22)やむにやまれぬ措置として、両校は合併。〈横浜学院女子商業学校・横浜女子中学校〉と改称します」との記述があります。この信頼性は高いはずです。

1947年に合併したのは横浜千歳女子商と神奈川女子商であり、合併創立後の名称は横浜学院女子商業学校と横浜女子中学校、翌1948年の学制改革で「商業」が取れて横浜女子高等学校に改称したのが真実のようです。

  • 1947 横浜学院女子商業学校
  • 1948 横浜女子高等学校
  • 1983 横浜学院女子高等学校
  • 1999 横浜女学院高等学校

さて、校舎が残ったのは千歳女子商でした。千歳女子商の校地が横浜女学院に引き継がれているものと思われますが、神奈川女子商についてはその所在地がわかりません。

愛は平和ではない、愛は戦いである

タイトルそのままの言い回しではありませんが、これを始皇帝による名言として紹介しているサイトがあります。もし始皇帝だとすれば、「史記」の「秦始皇本紀」あたりが出典となるはずですが、その記載はありません。

私の世代がこの言葉に初めて接したのは「愛と誠」だったわけです。「週刊少年マガジン」で1973年から連載された劇画か、1974年夏公開の映画か、同年秋から放映されたTVドラマのいずれかです。

TVドラマは北村総一朗のナレーションから始まります。

愛は平和ではない
愛は戦いである
武器のかわりが
誠実(まこと)であるだけで
それは地上における
もっともはげしい きびしい
みずからをすてて
かからねばならない
戦いである――


わが子よ
このことを
覚えておきなさい
 (ネール元インド首相の
   娘への手紙)

「純愛山河 愛と誠」冒頭のナレーション

1970年代には、インドの初代首相は今の「ネルー」ではなく「ネール」の表記でした。ネット普及率が10%を超えた2000年ごろ、本当にジャワハルラール・ネルーがこの手紙を書いたのかどうかネット上では疑問が呈されていました。

梶原一騎には事実や史実と異なる「創作」が数多く指摘されています。花形満の「青い水面に美しく優雅に浮かぶ白鳥は、しかしその水中にかくれた足で絶え間なく水をかいている」は今では完全に否定されているはずです。

とはいえ「鴨の水掻き」の諺のように、水面下の苦労や努力を察するのも美徳であるかもしれません。また、坂本龍馬の「死ぬときはたとえどぶの中でも前のめりに死にたい」は星一徹が語ったものです。

フィクションの作中人物に語らせるだけなら許容範囲内であると私は理解しています。少なくともそれは捏造にはなりません。ただ、番組冒頭のナレーションで、いわゆる偉人の名を借りると「でっち上げ」の批判は避けられません。

ネルーは自分の一人娘にこのような手紙を書いたのでしょうか。私は疑問に思っていますが、意外に受け入れられているようです。「愛と誠」は2012年に妻夫木聡と武井咲の主演で再映画化されており、この映画でも使われたようです。

邦訳されているネルーの書簡集は、みすず書房の「父が子に語る世界歴史」全8巻を含めて10冊ほどあるようです。末尾外部リンク先のブログ主さんは、これを全部読んだうえで「愛は平和ではない」の文言を確認していません。

仮にネルーでないとしたら、梶原一騎の完全な創作なのでしょうか。私は何かモデルになるものがあるはずだと疑っています。その意味においては、始皇帝説はきわめて魅力的なものです。出所が明示されていませんけど…。

【外部リンク】
漫棚通信ブログ版>梶原一騎とネルー(その2)