横浜女学院の校訓は「愛と誠」

「愛と誠」が校訓

「愛と誠」を校訓としている高校が見つかりました。横浜女学院高校は横浜市中区山手町の西端にあります。敷地は中学と同一です。

横浜女学院
石川町駅付近(地理院タイルを加工)

同校Webサイトの「学校案内」のページには次のように記載されています。

校訓「愛と誠」
「愛と誠」は生きる力の基であるイエス・キリストの教えである。
いつも感謝をささげ、神さまに信頼をおき、絶えず希望を持つことにより、生きる喜びが与えられる。

横浜女学院中学校 高等学校>学校案内

宗教系の旧商業高校はかなり珍しいわけですが、横浜女学校は生粋のキリスト教系というわけでもないようです。

1945年(昭和20)5月29日、横浜大空襲で神奈川女子商業学校が全焼。一方の横浜千歳女子商業学校は、校舎を海軍に接収され、被災は免れたものの、破損の被害は甚大でした。こうした状況の中、やむを得ず、被災した神奈川女子商業学校が、横浜千歳女子商業学校の校舎を借用することになったのです。

青山学院大学ソーパー・プログラム>創立の礎>横浜学院

どうやら戦禍で2つの女子商業校が合併したようです。

食い違う合併前後の名称

Wikipedia「横浜女学院中学校・高等学校」のページの「沿革」は次のように記載されています(2018/12/28現在)。これを素直に信じるなら、商業高校でなくなったのは1983年になります。

1921年 – 横浜千歳裁縫女学校設立
1941年 – 神奈川女子商業学校設立
1947年 – 横浜千歳女子商業学校と神奈川女子商業高等学校が併合、横浜女子商業学校・横浜女子中学校とする。
1983年 – 横浜学院女子中学校・高等学校と改称。
1999年 – 横浜女学院中学校・高等学校と改称。

Wikipedia>横浜女学院中学校・高等学校

1947年の段階で神奈川女子商業「高等」学校の名称はあり得ません。なぜなら、翌年の学制改革で初めて高等学校が成立するからです。一方、四谷大塚のWebサイトには横浜女学院の沿革が次のように記載されています。

1947年に横浜千歳女子商業学校と神奈川女子商業学校が合併し、横浜女子高等学校と横浜女子中学校となり、1983年横浜学院女子中学校・横浜学院女子高等学校に改称。1999年、横浜女学院中学校・横浜女学院高等学校に校名を変更。

四谷大塚 中学案内>横浜女学院中学校

同じ理由で1947年の時点で横浜女子「高等」学校が存在するはずはありませんが、こちらに従うなら、商業校でなくなったのは1947年ということになります。だんだん楽しくなってきました。最大のポイントは1947年合併後の名称です。

青学ソーパー・プログラムには「1947年(昭和 22)やむにやまれぬ措置として、両校は合併。〈横浜学院女子商業学校・横浜女子中学校〉と改称します」との記述があります。おそらく、これが正解に違いありません。

横浜学院女子商業学校が横浜女子高校に

横浜市Webサイトに「横浜市内旧制中学・高校・専門学校 校名変遷(戦前創始編)」のページがあります。これをベースに年表をつくってみました。

1886年明治19年5月山内小学校(設立)
1921年大正10年11月横浜千歳裁縫女学校(改称)
1933年昭和8年4月横浜千歳女学校(改称)
1936年昭和11年4月千歳高等家政女学校(改称)
1943年昭和18年8月31日臣道女学院(認可)
1944年昭和19年3月23日横浜千歳女子商業学校(改称)神奈川女子商業学校(改称)
1947年昭和22年12月10日横浜学院女子商業学校(改称)←(合併)
1948年昭和23年3月20日横浜女子高等学校(認可)
1983年昭和58年横浜学院女子高等学校(改称)
1999年平成11年横浜女学院高等学校(改称)
▲横浜女学院の沿革

1947年に合併したのは横浜千歳女子商と神奈川女子商であり、合併創立後の名称は横浜学院女子商業学校と横浜女子中学校、翌1948年の学制改革で「商業」が取れて横浜女子高等学校に改称したのが真実のようです。

さて、校舎が残ったのは千歳女子商でした。千歳女子商の校地が横浜女学院に引き継がれているものと思われますが、神奈川女子商についてはその所在地がわかりませんでした。

また、横浜女学院Webサイトには「1952年のキリスト教宣教開始」との記述があることから、キリスト教系の学校になったのは合併の数年後です。「愛と誠」の校訓もそれ以降ということになります。少年マガジンの連載が始まった1973年には「愛と誠」を校訓とする学校が実在していた可能性はかなり高いわけです。

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