三春台の関東学院商、廃校時は六浦だったのか?

関東学院商

ミッション系の商業校はきわめて貴重です。太平洋戦争前後の短期間ながら関東学院商業学校があったようなのですが、関東学院大や関東学院高、関東学院六浦高のWebサイトでは確認できません。

関東学院と同じバプテスト教会に属する西南学院大のWebサイト上に次のようなPDF文書が見つかりました。

夜間授業の四年制、入学資格を旧制高等小学校とする関東学院商業学校を開設 (1940年)。1944年、非常時体制下で、商業学校は生徒募集を中止し、工業学校を設置する。1946年、工業学校は、商業学校と旧名称に復した。1948年、関東学院商工高等学校となる。1960年頃より入学生徒が減少、1970年、生徒募集停止。1973年、商工高等学校廃止。

西南学院大学>『関東学院百年史』を読んで p77

おかげさまで、所在地以外はこれで完璧のはずです。年表にすると、次のようになります。

1940関東学院商業学校
1944関東学院工業学校
1946関東学院商業学校
1948関東学院商工高等学校
1970(生徒募集停止)
1973(閉校)
▲関東学院商

4年制ですから、募集停止前年の1969年入学生は1973年に卒業します。卒業を待っての閉校である以上、関東学院高や関東学院六浦高が生徒を引き受けたわけではありません。商工高について何も触れないのは当然のことです。

六浦移転か、三春台残置か、それとも

商工高の所在地については、次のような情報があります。

昭和十五年四月、横浜市南区三春台の関東学院内に勤労青少年のための夜間甲種の商業学校として、発足した

関東学院大学>学院史資料室ニューズ・レターNo.5 p11

定時制だった商工高は主として関東学院高の施設を利用していたのでしょう。ただ、悩ましいことに商業校としての最終年度は1947年度です。青マーカーの関東学院高は戦禍で一時的に赤マーカーの六浦に移転しています。

三春台に戻ったのは1949年です。その際、関東学院高の一部が六浦教室として六浦に残り、1953年に正式に関東学院六浦高が分離しています。三春台の最寄り駅である京急黄金町駅と六浦の金沢八景駅間は今なら特急で25分です。

当時は本数も少なく、そんなに速くなかったはずです。1947年の時点では関東学院商は関東学院高とともに六浦に移転していたのかもしれませんが、通学への配慮で三春台に残っていた可能性もありますし、近くに教室を確保したかもしれません。

もはやネット上で確認できることではないでしょうから、とりあえず「商業高校MAP」ではマーカーを三春台に置きました。

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