1年限りの女子商業高校

1971年高校野球選手権大会の北関東予選決勝で負けたのが上武大第一高校です。今では群馬もすっかり私学優勢になっているようですが、この当時はまだ群馬の私立高の甲子園出場はありません。

上武大第一高校は1963年に学文館女子商として創立されています。女子商だったのは1年限りで、翌年には共学化されて新町高校に改称、1968年の上武大開学と同時に上武大第一高校に名前を変えています。

1971年は、学校創立9年目にしておそらくは創部8年目の快進撃だったことになります。労使関係が一因だったのか事情のほどはわかりませんが、上武大第一高校は1979年に閉校になっています。

ネット上で検索しても正確な住所は出てきません。新町高校という名称からしても高崎市新町にある今の上武大高崎キャンパスが学文館女子商の所在地として最有力視されます。

国土地理院のWebサイトで公開されている航空写真では、1961年6月には田んぼか畑ですが、1964年5月には校舎らしき鉄筋コンクリートの陸屋根が確認できます。

国土地理院撮影の空中写真(高崎市新町の現・上武大高崎キャンパス付近)

初年度の募集人員は1クラスかせいぜい2クラスでしょう。開校1年目は十字路左下(南西)の既存建物で対処できたはずです。時期的に矛盾はありませんので、ここが学文館女子商の所在地と考えてもよさそうです。

酒田商跡地に小学校

2012年に酒田市内の公立高校4校が統合されて、山形県立酒田光陵高校が新設されています。さすがに4校統合は珍しいと思われます。酒田市の人口は10万人強です。同規模他市の10月1日現在の法定人口と市内の高校数は次のとおりです。

  • 107,014人 石川県小松市 7校
  • 105,717人 愛媛県西条市 5校
  • 102,397人 鹿児島県鹿屋市 6校
  • 102,353人 山形県酒田市 4校(ほかに通信制1校)
  • 101,784人 茨城県筑西市 5校(ほかに高等専修学校1校)
  • 101,286人 岡山県津山市 6校
  • 99,157人 長野県飯田市 5校

人口10万人なら高校生相当の人口は1学年900人台です。1学年1000人で考えると40人学級で25クラスになります。統合前の7校は多いでしょうが、統合後の4校は思い切った決断だったのかもしれません。

さて、酒田光陵高は旧・酒田中央高の校地に新設され、校舎は隣接地に増築されました。ご近所だった旧・酒田工高と旧・酒田北高は市街地からやや外れた酒田北港の近くにあります。

酒田商工会議所は両校の跡地利用に関して用途地域を変更してほしい意向を表明しています。跡地をどうするかはまだ決まっていないわけです。一方、市街地にある旧・酒田商の跡地はストリートビューで確認することができました。

埋め込んだのは2012年11月のストリートビューです。表札には「酒田市立亀城小学校」と刻まれています。旧・酒田商高の近くにあった亀城小も統合対象であり、同校敷地内で新校舎を建設する2年間、旧・酒田商を仮校舎としていたようです。

閉校後の高校の校舎に中学校が入ってくるケースは比較的よくありますが、小学校が入居するのはあまり聞きません。2018年7月のストビューでもこの校舎は残っています。

結局、亀城小が亀ケ崎小として元の校地に戻った2014年以降は空家状態が続いているということのようです。

釜石商跡地は復興住宅

ある程度は覚悟していたことですが、「商業高校MAP」は移転や統廃合でかなり苦戦しています。釜石商は2009年に釜石工との統合で釜石商工となり、釜石商工は大観音近くの旧・釜石工の校舎を使用しています。

旧・釜石商が浮いたわけですが、2018年の今でもその体育館は拠点避難所に指定されています。2011年の震災当時はまだ校舎も残っていたようです。

グラウンドへの仮設住宅の建設が始まったのは震災1か月後です。4階建てと思われる校舎は解体され、8階建ての復興住宅に生まれ変わっています。

釜石市のWebサイトに「東日本大震災 釜石市教訓集 未来の命を守るために」というPDFファイル(↑)がありました。

長浜市南端にある長浜北と長浜北星

滋賀県立長浜北星高校のWebサイト「沿革」のページから、気になる部分を抜き出してみました(元号を西暦に置き換えています)。

  • 1924/04/10 「長浜町立長浜商業学校」設立
  • 1930/04/01 「滋賀県立長浜商業学校」と改称
  • 1944/04/01 「滋賀県立長浜工業学校」併設
  • 1948/03/31 「滋賀県立長浜工業学校」が廃止
  • 1948/04/01 「滋賀県立長浜南高等学校(商業、農業課程)」が設置
  • 1948/08/25 普通課程を設置、商業課程を「滋賀県立長浜北高等学校」に移転
  • 1948/09/18 定時制商業課程を「滋賀県立長浜北高等学校」に新設
  • 1949/04/01 県下公立高等学校編成替により、「滋賀県立長浜高等学校南校舎」と改称
  • 1950/04/01 平方町に新校舎完成。これを「南校舎」と称し、従来の「南校舎」を「中校舎」と改称し、全日制(普通、商業課程)定時制(商業課程)を設置
  • 1951/04/01 全日制工業課程(紡織科)を新設
  • 1952/11/15 校名を「滋賀県立長浜西高等学校」と改称
  • 1953/04/01 全日制工業課程に女子工芸科を新設
  • 1961/04/01 「滋賀県立長浜商工高等学校」と校名変更し、紡織科・繊維化学科・女子工芸科を繊維工業科に改編し、電気科の新設
  • 1998/04/01 全日制課程を総合学科に改編「滋賀県立長浜北星高等学校」に校名変更

記述不足ですので整理します。長浜北星の校名は次のように変更されています。

  • 1924年 長浜町立長浜商高
  • 1930年 滋賀県立長浜商高(県立移管)
  • 1948年 滋賀県立長浜南高(商→南)
  • 1949年 滋賀県立長浜高 南校舎(長浜北と統合)
  • 1950年 滋賀県立長浜高 中校舎
  • 1952年 滋賀県立長浜西高
  • 1961年 滋賀県立長浜商工高
  • 1998年 滋賀県立長浜北星高

1950年前後に「南校舎」や「中校舎」と呼ばれていたのですから、「北校舎」があるはずです。「北校舎」は1911年に高等女学校として開校した長浜北です。統合は長く続かず、1952年には北高と西高に再分割されます。

赤が中校舎(1952年当時の長浜西高校)で青が北校舎(当時の長浜北高校)です。北と西の位置関係はいたって妥当です。その後、1976年には緑の位置に長浜高校(2代目)が開校します。

さて、不幸の1つ目は「長浜北星」の名称です。なぜ「北星」なのでしょうか? 同校Webサイトの「学校長挨拶」のページに次のような記述があります。

本校校章には、天球に燦然と輝く北極星のごとく、若者たちの長い人生を生き抜く指針が与えられる高校に、湖北の希望の星と讃えられる高校になるようにとの願いが込められています。

それはそれで立派な理念でしょうが、「長浜」と「長浜北」がある以上、わざわざ「長浜北星」と名付ける必要はなかったのではないかと思わなくもありません。やがて、2つ目の不幸が訪れます。

長浜市は2006年に北の2町と合併し、2010年にはさらに北の6町を編入します。その結果、人口で滋賀県3位、面積では滋賀県1位となりました。旧・長浜市はその南端に位置しています。「長浜北星」から米原市との境界まで約3kmです。

3つ目の不幸は青の「長浜北」と緑の「長浜」が2016年に統合され、統合後は「長浜北」を名乗ったことです。歴史の長いほうが浅いほうを飲み込むのはよくあることです。そして、新・長浜北は緑の校舎を使うことになりました。

2度の合併により長浜市の市域は北に大きく広がりました。今は福井と岐阜の両県に接しています。南北は約40kmあります。その長浜市の南端に「北高校」と「北星高校」が共存しています。もともと赤と緑は市街地の南側でもあります。

いつか誰かがどこかで、(究極的にはどうでもいい)この疑問を抱くに違いありません。だとすれば、書き留めておく価値がありそうです。

ウラ優勝校まとめ

「高校野球ウラ優勝校MAP」が完成しましたので、集約しておきます。今年の夏は第99回大会でした。大会自体が中止になったのが2大会あります。ウラ優勝校が海外のチームとなるケースが5大会です。

正統なウラ優勝校は延べ78校で、巡ウラが15校(巡ウラの准ウラは除く)です。2+5+78+15=100となりますが、第5回大会ではウラ優勝校を2校認定しましたので、計算は合います。

このほか、准ウラが30校、巡ウラの准ウラが2校でしたので、100-(2+5)+(30+2)で延べ125校を「ウラ優勝校」としてMAPに反映させました。重複が次のように3例ありますので、実数としては122校になります。

  1. 1932年第18回大会の旧制・水口中は巡ウラであり、准ウラでもあります。MAP上では准ウラに含めています。
  2. 宮城の東北学院は1922年第8回大会でウラ、1935年の第21回大会では巡ウラです。複数回制覇ということで、MAP上では赤マーカーを用いました。
  3. 鳥取県の青谷高校は1980年の第62回大会と2000年の第82回大会で正統なV2を果たしています。もちろん赤マーカーとしました。

地域別では四国がもっとも少なく、ウラ優勝校空白県は和歌山と高知です。隣接する奈良と徳島も1校だけです。MAP上でも四国の南東部から紀伊半島にかけての空白が目立ちます。

岩手と秋田の計4校が北部に集中したため、両県の中南部も空白地帯です。南四国や紀伊半島もそうですが、もともと人口の多い地域ではありませんので、総体としてはバランスよく分布していると言えそうです。

「准ウラ」の概念を持ち込んだため、「夏といえば」さんの「逆トーナメント」のページとは一線を画すことになりましたが、これは「セットポジション」時代から密かに気にしていたことです。

今回のウラ優勝校MAPで面白かったのは、やはり跡地探しでした。深入りしたくてウズウズしています。着手するとしても来年になるでしょうが、新制高校に限定して廃校MAPを作成することになるかもしれません。

限定したとしても全国では1000校超になるでしょうから、MAPは8分割ぐらいが妥当だと思われます。なお、今回のウラ優勝校MAPでは、高校野球の地区割りに従い、山梨は関東、三重は東海で処理しています。

正体不明・金沢市商のナゾ

1946年の第28回大会は太平洋戦争後最初の大会です。

  • 浪華商2-0京都二中5-3下関商2-0松江中11-8敦賀商
  • (北陸大会)敦賀商8-5富山商8-7金沢二中
  • (石川予選)《金沢三中21-7金沢二中》21-6石川工16-9金沢市商

現・金沢商は1900年に「金沢市立商業学校」として開校していますが、1907年には県立に移管しており、1923年第9回大会で甲子園初出場を果たしたときは「石川県立金沢商業学校」の名称です。

その後も名称変更はありますが、県立校であることに変わりはありません。したがって、1946年の巡ウラ優勝校「金沢市商」は現在の金沢商ではありません。

現・金沢市工は1944年に「金沢市立工業学校」から「金沢市立第一工業学校」に名称変更しています。学制改革の1948年、「金沢市立第一工業学校」は「金沢市立第二工業学校」を吸収して「金沢市立工業高等学校」になっています。

おそらく「市立第二工業」は1944年にできたのでしょう。終戦を挟んで4年間だけ存在した「市立第二工業」こそ1946年の巡ウラ優勝校「金沢市商」ではないか、と踏んで検索してみました。

金沢市図書館のWebサイトに「市史年表 金沢の百年 大正編」と題する壮大なページが見つかりました。関係しそうな項目だけピックアップします。

1927年12月26日 明春4月開校する金沢市立工業学校の設立認可指令が文部省から出た。仮校舎は新竪町小学校の不要校舎(49坪)を小将町小学校庭に移転して使用する。学科は土木建築科と機械電気科とし、5年後の生徒定員は全学年10学級400人と専修科2学級60人。

1930年9月1日 金沢市立工業学校は小将町の仮校舎から泉野の新校舎に移転、授業を開始した。

1933年2月28日 2年制の金沢市立商業高校の創立が市会で可決された。校舎に長田町小学校の一部をあて、募集人員は200人。

1934年7月29日 金沢野球協会が市立工業学校野球場に建設中のスタンドが完成、記念野球大会がおこなわれた。スタンド観覧席の収容人員は2,000人で北陸最大のもの。

1935年5月25日 泉野町の金沢市立工業学校は、全校舎が完成したので校舎落成式を盛大に挙行した。

1937年4月1日 金沢市立商業学校は新学年から修業年限2年制を3年制に改めた。

1943年12月3日 明年4月実施する県下商業学校の戦時転換が県で決定した。県立金沢商業は存置、金沢市立商業は金沢市立第二工業学校として機械、金属工業の2科を設置、小松商業は農業学校に、七尾商業は七尾工業学校に転換する。また県立工業は図案科を廃止し科名を改称する。

1948年4月1日 新制高等学校が開校した。金沢市内の県、市立高校は6校。県立金沢一高(校舎は一中)、県立金沢二高(校舎は県一女と三中校舎の一部)、県立金沢三高(校舎は県二女)、県立工芸高校(校舎は県工)、県立金沢商業高校(校舎は金商)、市立金沢工業高校(校舎は市一工)。

1948年4月25日 金沢ではじめての職業野球公式試合・太陽ロビンス対急映フライヤーズ戦が、兼六園球場で開催された。

1933年創立の金沢市商が1944年に金沢二工となり、1948年に現・金沢市工と統合されたという流れのようです。1946年当時は「金沢市立第二工業学校」が正しいのでしょう。

この年表では、創立時の名称が「~高校」になっています。本当に旧制中等学校(実業学校)ではなく旧制高等学校に相当するのか、それとも単なる誤記なのかはわかりません。

また、1946年時点の所在地も判然としません。MAPでは暫定措置(永遠の暫定?)で現・長田町小学校にマーカーを置きました。

埋め込んだのは2015年6月撮影のストリートビューです。小学校の裏門を出ると、すぐに歩道橋です。さすがに校内直結にはできないでしょうが、狭い道ですから門柱が邪魔かもしれません。

校門の先はクスノキの並木

1930年第16回の「巡ウラ」優勝校は千葉の茂原農です。

  • 広島商8-2諏訪蚕糸3-0平安中15-0東北中3-2水戸中
  • (東関東大会)水戸中7-4茨城工22-8千葉師範
  • (千葉予選)《千葉中13-6千葉師範》15-1成東中21-3茂原農

2006年4月、茂原農は茂原工との統合で茂原樟陽(もばらしょうよう)高校になっています。旧・茂原農の校地と校舎が統合後の茂原樟陽に引き継がれているようです。

Wikipediaの「茂原樟陽」のページには、旧・茂原工の校地は工業校舎として使用されているかのような記載もあります(2017/09/19現在)。公式サイトを覗いてみた限り、旧・茂原工の校舎が今も使われている形跡はありません。

統合当初の数年間は旧・茂原農が本校舎、旧・茂原工は工業校舎という形で運用されていたのかもしれません。新校名「樟陽」のうち「樟」は、校門を入ったところにあるクスノキの並木に由来するものと思われます。

「姓名分布&ランキング 写録宝夢巣」さんによれば、「楠」姓は全国で864位、「楠木」姓は2734位だそうです。一般的にはクスノキは「楠」と書きますが、どうやらクスノキに「樟」、タブノキに「楠」を当てるのが正解のようです。

クスノキは西日本に多く分布しており、兵庫、佐賀、熊本、鹿児島の4県で「県の木」とされています。上記姓名ランキングでも、「楠木」姓や「楠」姓はやはり西日本に多い苗字です。

京都大学の正門から入った真正面の木がクスノキです。ストリートビューには雪景色の時計台前クスノキがありました。2015年1月撮影のものです。

もう1つ、ストビュー(2013年3月撮影)を埋め込んでおきます。鹿児島県姶良市の蒲生八幡神社境内にある「蒲生のクス」です。根元に木製の格子扉が見えますが、中には8畳分の空洞があるそうです。

樹齢1500年と言われるのは、1123年の神社創建時にすでに存在していたとされているからでしょうが、日本では自生しない(異説あり)というクスノキですから、誰かが植林したことになるわけです。

施設は残れど名前は変わり

2005年第87回大会のウラ優勝校は熊本県立苓洋(れいよう)高校です。

  • 駒大苫小牧5-3京都外大西10-8宇部商5-3日大三9-6前橋商5-3熊本工
  • (熊本大会)熊本工6-5文徳5-2千原台5-3秀岳館7-0熊本農10-2矢部4-1牛深10-0苓洋

苓洋は2.5校の統合により今年3月末に閉校となっています。

  • 苓洋高(天草郡苓北町富岡)→天草拓心高へ統合
  • 苓明高(天草市本渡町本戸馬場)→天草拓心高へ統合
  • 河浦高(天草市河浦町河浦)→園芸科学科が天草拓心高へ統合、普通科は牛深高へ統合

赤マーカーが旧・苓洋高、青マーカーが旧・苓明高(統合後の天草拓心高)、緑マーカーが旧・河浦高になります。

ただし、統合後の天草拓心高は旧・苓明高の校舎を本校舎とし、旧・苓洋高の校舎はマリン校舎として海洋科学科と普通科総合コースを置いています。敷地内には新寮が建築中のようです。

名前が変わっただけで実質的には存続していると言ってもいいのかもしれません。苓洋高は「洋」の字が示すように、もともとは水産高校です。施設的にも全面移転は困難なのでしょう。

同様の動きは他県でも見られます。千葉の銚子水産は銚子商に、大分の海洋科学は津久見に統合されていますが、銚子商水産校舎や津久見高海洋科学校として施設そのものは残っています。

大分県と香川県は水産高校の実習船を共同運行するようです。通年で使うわけでないなら、それも自治体としての知恵なのかもしれません。

なお、旧・苓洋高のある苓北町(れいほくまち)は合併に参加していません。今では天草郡唯一の町です。火力発電所のおかげで財政が比較的豊かなようです。苓北町Webサイトには「苓」についての次のような記述があります。

苓北という名前は天草全土が「苓州」と呼ばれていたことでつけられました。「苓」は「あまくさ(甘草)」を意味し、苓州の北部に位置する町ということで「苓北」と名付けられました。

埋め込んだストリートビューは2013年12月撮影のものです。旧・苓洋高から車で10分強です。あいにく干潮時でなければ拝むことはできないそうです。

旧市名ではなく旧町名が新市名に

1969年第51回大会のウラ優勝校は三重県伊賀市の上野商業です。滋賀県甲賀市の水口高校は1932年の准ウラ優勝校ですから、三役揃い踏みまで雑賀を残すのみです。

  • 松山商4-2(0-0)三沢3-2玉島商7-2仙台商4-1広陵8-7三重
  • (三岐大会)三重5-2県岐阜商8-7伊勢工
  • (三重予選)伊勢工4-3木本7-1明野14-4宇治山田商4-1上野商

上野商は2011年3月末で閉校となり、旧・上野工の校地に上野商と上野農が集約され伊賀白鳳高校となっています。

最新2015年2月撮影のストリートビューでは解体工事です。県立高校なのに解体工事の発注者は伊賀市と表示されていますので、敷地は県から市へ譲渡されたものと思われます。

伊賀市は、2004年11月に上野市を核として阿山郡伊賀町、阿山町、島ヶ原村、大山田村、名賀郡青山町の6自体体が合併して発足しています。平成の大合併で旧市名が退けられて旧町村名が新市名になったケースは数例しかありません。

  • 2005/04【妙高市】新井市、妙高高原町、妙高村
  • 2005/11【霧島市】国分市、溝辺町、横川町、牧園町、霧島町、隼人町、福山町
  • 2006/03【朝倉市】甘木市、朝倉町、杷木町
  • 2006/03【天草市】本渡市、牛深市、有明町、天草町、御所浦町、倉岳町、栖本町、新和町、五和町、河浦町

跡地利用は難題?

1968年第50回大会はオモテの優勝校が興国で、ウラは寒河江工です。

  • 興国1-0静岡商2-0倉敷工6-3広陵8-2岩国商1-0日大山形
  • (山形大会)17-0山形東7-2山形南5-1寒河江5-0酒田商2-0寒河江工

寒河江工は1回戦不戦勝であり、酒田商は1回戦で温海(あつみ)を7対0で破っているため、温海は「准ウラ優勝校」ということになります。

東田川郡温海町は2005年10月に、鶴岡市、藤島町、羽黒町、櫛引町、朝日村と合併しています。この結果、合併後の鶴岡市は面積では東北最大の基礎自治体となり、出羽三山はすべて合併後の鶴岡市に属することになりました。

  • 月山(鶴岡市、庄内町、西川町)
  • 湯殿山(鶴岡市、西川町)
  • 羽黒山(鶴岡市)

山形県立温海高は2002年に鶴岡中央高の分校となり、2012年3月末で閉校になっています。最後の卒業生は7人だったようです。あつみ温泉の下流域です。

埋め込んだストリートビューは2012年9月撮影のものです。奥の4階建てと隣の体育館が分校の建物です。跡地利用について、体育館を(日本最大規模の)映画スタジオにして映画村にしようというプランもあったようです。

実現したというニュースは見つかりませんので、断念したものと思われます。解体費用は約1億円だそうです。Google Earthプロには2015年10月撮影の衛星写真がありますが、校舎はこの時点では解体されていません。再訪が必要なようです。