苫東開発に消えた集落

地名としての「柏原」の読みは、次のように12通りあるようです。適切なのかどうかはまだわかりませんが、とりあえず6グループに分けてみました。グループ内の相違については、あまり深入りすることは避けたいと考えています。

  • (A)かしわばら
  • (A)かしわはら
  • (A)かしわばる
  • (A)かしわぱっら
  • (B)かしわら
  • (B)かしはら
  • (B)かしばら
  • (C)かしょうはら
  • (D)かいばら
  • (D)がいばら
  • (E)かせばら
  • (F)かやばる

昨年9月の北海道胆振東部地震で大規模停電の引き金を引いたとされるのが苫東厚真火力発電所です。最北の「柏原」は、苫東厚真と同じ開発地域にあります。火力発電所は臨海部であり、「柏原」は臨空部と呼ばれる地域です。

苫東地区 (Google Earthプロ)

境界線の東側は厚真町です。火力発電所は境界の沿岸部にあり、その北に白く見える一団は石油備蓄基地です。備蓄基地から柏原のマーカーまで建物はほとんどありませんが、もともとは1万ヘクタールの工業用地です。

1万ヘクタールとは10km四方です。国家プロジェクトである工業用地造成のために、農業や酪農を営んでいた入植者が札束で追い出された黒歴史があります。柏原小学校が廃校になったのは1971年ですから佐藤内閣末期です。

この苫小牧市柏原について、郵便番号検索をかけると「かしわら」です。これで何の問題もないはずですが、MapFan、Mapion、Yahoo!地図、goo地図、いつもNAVI、NAVITIMEのネット地図では「かしわら」とされています。

コトバンクの「日本の地名がわかる事典」でも「かしわら」です。苫小牧市Webサイトには「町名一覧表」が掲げられており、これも「字柏原」を「あざかしわら」としています。

行政当局が「かしわら」としているのですから、「HA」だろうが「BA」だろうが業務にはたいして影響のない郵便局はスルーするしかありません。ちなみに、角川日本地名大辞典では「かしわら」でした。

実はNAVITIMEのバス停検索では、柏原も柏原西も柏原西口も「かしわら」になります。これにこだわったら、ちっとも話が進まないと思った次第です。まあ、正式とされる名称と俗称が異なるのはありがちなことです。

外部リンク
 苫小牧市>苫小牧市 町名一覧表
 村影弥太郎の集落紀行>柏原

3つの美浜町

自治体名としての美浜町は愛知、福井、和歌山の3県にあります。千葉市には美浜区もあり、マリンスタジアムの住所が千葉市美浜区美浜です。美浜区全域は埋立地ですので、比較的最近の地名です。

「美浜」の字や町域名は、浦安市、北谷市、西之表市にもあります。市川市と接する浦安市美浜も埋立地です。東葛飾郡浦安町美浜と名付けられたのは1971年です。沖縄の北谷市美浜も埋立地で、北谷町運動公園は1988年のオープンです。

西之表市の美浜町はもともとの地名かと思われます。美浜簡易郵便局の標高は8mですし、市営住宅美浜団地は10m、美浜児童センターにいたっては標高27mです。西之表港や西之表市役所には歩いても行ける距離(1.2~1.5km)です。

この種子島の西之表が「美浜」の地名でもっとも歴史がありそうです。ちなみに、ちょっと反則っぽいかもしれませんが、今は京丹後市となっている旧・久美浜町は、町村制施行の1889年当時から久美浜村です。

さて、3つの美浜町はいずれも昭和の大合併で誕生しています。その先後は明確です。この3町と旧・久美浜町の位置関係は次のとおりです。

福井県美方郡美浜町

  • 1954年2月に耳村、北西郷村、南西郷村、山東村の4村合併で美浜町
  • 人口9,459人(2019/04/01)、町議定数14、財政力指数0.74
  • 小学校3、中学校1
  • セブンイレブン0、ローソン1、ファミマ3

和歌山県日高郡美浜町

  • 1954年10月に松原村、和田村、三尾村の3村合併で美浜町
  • 人口7,207人(2019/04/01)、町議定数10、財政力指数0.30
  • 小学校2、中学校1
  • セブンイレブン0、ローソン1、ファミマ1

愛知県知多郡美浜町

  • 1955年4月に河和町と野間町の2
  • 町合併で美浜町
  • 人口22,023(2019/03/31)、町議定数16、財政力指数0.72
  • 小学校6、中学校2、高校1
  • セブンイレブン4、ローソン2、ファミマ4

「美浜」流行り?の先陣を切った形の福井県美浜町のWebサイトには次のように記述されていますが、久美浜が頭の片隅にはあったのだろうと私は推測しています。さすがに種子島の美浜町は知らないでしょう。

「美浜町」という名は、この地域が「弥美庄(みみのしょう)」とも呼ばれていたので「美」の字を、4村とも海に接して美しい浜辺があるので「浜」の字を使いました。

美方郡美浜町>美浜町の紹介

和歌山県美浜町のWebサイトはあっさりしたものです。公募で何位だったのか、2位以下だとすればなぜ逆転したのかは示されていません。

「美浜町」の町名は、合併当時公募により名付けられたものです。

日高郡美浜町>町の沿革

愛知県美浜町のWebサイトではどういう理由で「美浜町」を名乗ったのか、私が探した範囲では見つけることができませんでした。知多郡美浜町は南セントレア市になり損ねた町でもあります。

1958年には三重県南部の阿田和町、神志山村、市木尾呂志村が合併して「御浜町」が発足しています。熊野市に隣接する町です。さすがに4番煎じの「美浜町」にはなれなかったものと思われます。

実は、私は1935年設立の和歌山県常盤商業学校を探っていたのでした。学校台帳では所在地が「和歌山県日高郡和田村字蔵垣1078-1」となっています。美浜町和田で検索したところ、福井県美浜町和田がヒットしたわけです。

南にあるべき海が北にあるのですから、ちょっとしたパニックです。大字まで同名かよという愚痴が出ても許されると信じています。愛知県美浜町の大字には「河和」(こうわ)と「奥田」はありましたが「和田」はありませんでした。

まあ、同じ名前を選んだだけあって共通点はあるもので、福井と和歌山の美浜町は町の木がマツ、愛知の美浜町と三重の御浜町はクロマツです。福井と愛知の町の花はツツジでした。そのうち町の木や町の花でMAPをつくるかもしれません。

常盤商は戦時転換で常盤農になっていますが、1944年に生徒募集を停止し、新制高校には移行せず閉校しているようです。ここが所在地ではないかと私が睨んでいる場所をストビューで見ると公共施設のような建物が建っています。

公民館とか地区の集会所のような佇まいで、すくなくとも一般の民家ではありません。看板・表札の類いが見当たらず、確証もありませんので、掲載は断念しました。

白光商業高校は「しらみつ」か?

千葉県八千代市を本拠とする白光舎は、直営と取次で約200店舗を抱えるクリーニング・チェーン店です。「白光」は「はっこう」と読みます。はんごだての著名メーカー「白光株式会社」もHAKKOです。

一方、宗教法人白光真宏会の「白光」は「びゃっこう」です。「世界人類が平和でありますように」関連のはずですが、私は白光商業高校もそっち系と思っていました。どうやらそういうわけではないようです。

この白光商について、Wikipedia「白光商業高等学校」のページには「1965年 – 学校法人白光学園の運営により開校。 1972年 – 休校」との記述があり、廃止時の所在地として「大和高田市根成柿」が記されています。

1970年の地形図では根成柿(ねなりがき)に高校を示す丸囲みの文マークを確認できます。今ではネオシティ大和高田というマンションが3棟建っています。1994年から1995年にかけての竣工です。次の画像は1985年11月撮影の航空写真です。

国土地理院(1985/11/03撮影)大和高田

白光商の敷地は画像中央を東西に走る道路の南側です。校庭は少年野球なり草野球なりのグラウンドとして整備?されています。芝も張ってあるようです。道路の対面は県営住宅の坊城団地です。

休校が1972年なのだとしても、校舎自体は今の集合住宅が建てられる直前まで残っていたようで、90年代初頭の空中写真でも上の画像とほぼ同じ姿を確認することができます。

所在地さえわかればワトソン君としての役割は終わりなのですが、実はちょっと気になることがあります。Wikipediaでは読みが「白光商業高等学校(しらみつしょうぎょうこうとうがっこう)」になっているのです。

「白玉あんみつ」を略したようなこの名称は、学校名としてはいかがなものだろうかと思うわけです。もちろん、白百合女子大や白梅学園大の事例は知っていますが、白光商は女子校ではありません。

京都・北野天満宮の最寄駅は、京福電気鉄道北野線の北野白梅町(きたのはくばいちょう)駅です。白梅でさえ「しらうめ」ではなく「はくばい」と読むこともあります。一般名詞とは言えない「しらみつ」の読みは納得し難いところです。

日本私立学校振興・共済事業団の「学校法人情報検索システム」で「白光学園」を検索したところ、法人名は「はっこうがくえん」でした。今治にも同名の法人がありますが、やはり読みは「はっこう」で理事長が白石さんです。

ただ、「しらみつ」の読みが皆無なのかと言うと、そういうわけでもないのです。生駒山の麓の石切には白光大神(しらみつおおかみ)を祀る神社があります。白光とは白蛇のことのようです。2015年3月のストビューです。

生駒山山頂の龍光寺では2匹の白蛇様が飼育小屋?で公開されています。というわけで、法人名が「はっこう」であるとしても、学校名は間違いなく「しらみつ」であった可能性はまだ排除できません。

駅前立地で統合後の跡地は即売

統合によって移転・閉校となった学校の敷地が10年経っても校舎の取り壊しさえ行われていないケースは珍しくありません。解体するだけでもそこそこの費用が生じます。人口が減って閉校するわけですから、有効利用は難しいのが実情でしょう。

堺市立商・第二商の場合は即売だったようです。堺市立商業学校は1921年の設立で、1923年に今の南海電鉄高野線浅香山駅前の敷地に校舎を新築しています。浅香山駅の開業は1915年です。

学校があるから駅ができたのではなく、最初から駅があったところに学校をつくったということになります。第二商の設立は1940年です。いったん廃止されますが、敷地と校舎を共有する形で1952年に定時制が独立開校します。

大和川は大阪市と堺市を隔てる市境界となる河川です。浅香山駅には各駅しか停まりませんが、ターミナルのなんば駅から20分前後です。しかも、並行する西の南海本線七道駅や東のJR阪和線浅香駅まで約1kmという恵まれた立地になります。

堺市立工・第二工との合併統合は2008年4月です。2007年の全日制入学生は2009年度末まで市立商に通っています。2007年の定時制入学生は2010年度の最後の1年間を市立工に新設された堺市立高で授業を受けたようです。

スムーズに売却が決まったからです。校舎はリニューアルされて関西大学堺キャンパスになっています。お買い得であることは間違いありません。転売制限が付いているとしても、この立地ならおいしい資産です。

2010年2月のストビューです。まだ引き渡しされていない時期ではないかと思われますが、奥にはクレーン車のようなものが見えます。まあ、全日制の授業は終わっているでしょうし、定時制の時間帯には工事はしないものでしょう。

丼池はどこにあったのか?

「丼池」は大阪難読地名の三役クラスです。「どいけ」と読みます。「丼」を「どぶ」と読めるものではありません。まして、ドブ川の「どぶ」がそのまま正式な地名になるという自虐的な発想がなかなか出てきません。

この「丼池」なる池は実在していたようです。小学館「デジタル大辞泉」は次のように記述しています。

大阪市中央区南船場にあった池。明治7年(1874)に埋められた。池に面していた丼池筋には第二次大戦前は家具問屋、戦後は繊維問屋が密集。旧名、芦間池(あしまいけ)

コトバンク「丼池」

明治初期に埋められてしまったドブ池は、いったい南船場のどこにあったのでしょうか。丼池筋沿いであることは確定です。丼池筋は御堂筋の2本東を南北に走る通りです。

御堂筋の1本東は心斎橋筋であり、夜間以外は歩行者専用道路のアーケード付き商店街です。ここには訪日外国人相手のドラッグストアが林立しています。お隣の丼池筋はさほど特徴的というわけでもありません。

今は撤去されていますが、大阪初のアーケードは丼池筋だったそうです。大阪船場丼池筋連盟は1954年に設立された丼池問屋街協同組合を引き継ぎ、本町3丁目から南久宝寺3丁目までの500mの区間を「丼池ストリート」と称しています。

地図上の緑の線が「丼池ストリート」です。赤のマーカーは、本来のテーマである芦池(女子)商の跡地です。今は消滅した高校の所在地を探しているうちに、私は明治初期に埋められた丼池を探す羽目に陥ったのでした。

江戸時代の古地図を眺めてもそれらしき池は見当たりません。スマホに「大阪こちずぶらり」をインストールしてみましたが、やはり丼池筋沿いに池を見つけることができません。

そうこうするうちに、ピンポイントで丼池の所在地を示しているWebページが見つかりました。

「どぶいけ」というのは大阪市のど真ん中にある街・船場(せんば)の繊維問屋街のなかにある商店街です。漢字で書くと「丼池」。一角というか、南北に通っている道筋のことです。現在は埋め立ててありませんが大阪大空襲の1トン爆弾の炸裂跡「丼池」が戦後久宝中学となり現在は久宝公園として残っています

船場 小野利>船場 小野利 の紹介

明治初期に埋められた丼池のほかに、もう1つの丼池が1945年3月の大阪大空襲によって出現したようです。丼池筋沿いの爆弾跡が(第2の)丼池と呼ばれても不思議ではありません。引用元のページでは画像も公開されています。

大阪市街地に落とされた1トン爆弾は直径60cmで長さ180cmだそうです。数10m規模のちょうど丼のような穴が生じたでしょうし、やがて雨がたまってドブ池になったのかもしれません。ただし、丼池筋の名称は戦前の地図にも散見されます。

難波藁師(なにはやくし)塩町心斎橋車町にあり。
本尊薬師仏は弘法大師の作にて、長五寸三歩。古は天台の仏院にして難波薬師堂と号す。
年久しく荒廃に及んで、本尊も民家に伝はり、近世ここに安置す。毎月八日・十二日、宵薬師とて法会あり。
現成地址(げんじょうちのあと)この地に井あり。むかしは広き池にして巡りに片葉の芦を生ず。今什物とす。
とぷ地と称ずるはこの池の名なるペし。

摂津名所図会>巻之四 大坂(おほさか)の号>難波薬師

このページには地図も添えられています。赤丸がついているのは、芦池(女子)商跡地から2つ南の区画でした。住居表示では南船場3丁目5番のブロックです。

大阪市立芦池女子商業学校は1944年の設立です。国策により男子の商業校は主に工業校化するわけですが、その埋め合わせで女子の商業校が開設されるのは当然のことなのかもしれません。

今の南船場3丁目にあった国民学校の校舎が芦池女子商になります。芦池女子商は1948年の学制改革で芦池商高になりますが、同年より住吉商高が同居し、2年後には住吉商が芦池商を吸収、その2年後には8km南の元の校地に移転します。

「庇を貸して母屋を取られる」のではなく、「庇を貸して母屋から追い出される」という憂き目にあったことになります。もっとも芦池商の校舎・校地を受け継いだのは大阪市立芦池小学校ですから、元に戻っただけとも言えます。

芦池小は1987年に大宝(だいほう)小、道仁(どうにん)小との3校統合で、南小となります。南小は大宝小の校地に開設されましたので、芦池小の校地は空いたわけですが、次の「入居者」は丼池筋を挟んで隣接する南幼稚園でした。

2013/09のストビューです。鉄扉越しに小学校の石碑を確認することができます。校舎は取り壊され、一角には地域住民のための南船場会館が建てられています。幼稚園のグラウンドとして使われているようです。