ひっそり散った桜花女子商

あまりに話が重いのでページを分けることにしました。名古屋の桜花学園高は女子バスケットボールやハンドボールの強豪校として知られています。同校の校名は次のように変わっています。

  • 1923 桜花高等女学校
  • 1941 桜花女子学園
  • 1948 桜花女子学園高等学校
  • 1955 名古屋短期大学付属高等学校
  • 1999 桜花学園高等学校

女子バスケ部が頭角を現すのは1980年代後半であり、「名短」の時代です。この30年で半数以上の全国大会を制しています。学校自体は1903年に設立された「桜花義会看病婦学校」が起源ということになっています。

学校法人桜花学園のWebサイトには次のように記載されています。「桜花女子商」は1943年設置で1945年廃止のようです。

明治36年 桜花義会看病婦学校 創立
大正12年 桜花高等女学校 創立
大正13年 桜花高等技芸学校創立
昭和14年 名古屋商業実践女学校 創立
昭和18年 名古屋商業実践女学校を昇格し、桜花女子商業学校 設置
昭和20年 同校 廃止
昭和23年 桜花女子学園中学校 設置
      桜花女子学園高等学校 設置

学校法人桜花学園「沿革」

一方、桜花学園高校Webサイトの記載は次のとおりです。当然といえば当然ですが、「桜花女子商」や「技芸学校」に関してはノータッチです。

明治36年 桜花義会看病婦学校
大正12年 桜花高等女学校
大正13年 師範科・高等師範科・中等教員養成所
昭和16年 桜花女子学園
昭和18年 (専攻科)付属幼稚園
昭和22年 桜花女子学園中学校
昭和23年 桜花女子学園高等学校

桜花学園高等学校「沿革」

「桜花女子学園中学校」の設置が前者では1948年ですが、後者では1947年になっています。新制中学は1947年スタートです。1年遅れで設立された可能性は低かろうと思われますので、後者が正しいはずです。

肝心の「桜花女子商」ですが、国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている商業学校台帳によれば1944年4月開校となっていますので、MAPでは1944年開校で1945年閉校として扱いました。

【外部リンク】
国立公文書館デジタルアーカイブ>商業学校台帳(北海道~京都)>愛知 桜花女子商業学校

名古屋の育英

愛知県立旭丘高校Webサイトには次のような記述があります。

愛知一中の校歌は、マラソン王日比野寛校長自らの作詞によるもので、明治37年に制定されました。これは日本で最初の校歌であるといわれています。四句二十連の長い詩の中には、愛知一中の教育理念が随所に盛り込まれていたため、旭丘高校と改称された後も、しばらくは歌い継がれていました

愛知県立旭丘高等学校>旭丘高校について 校歌

残念ながら「日本で最初の校歌」の歌詞は掲載されていませんし、今の校歌とは違うようです。日比野寛校長が愛知一中を退職するのは1916年のようです。翌1917年4月の第13回衆議院議員総選挙で憲政党から立候補して当選しています。

ちなみに、愛知一中が第3回全国中等学校優勝野球大会で敗者復活から優勝したのは同年8月です。愛知一中校長在任中の1908年に日比野寛は夜間の「育英学校」を立ち上げています。

1920年に昼間課程の「商業育英学校」が設立され、日比野寛は1922年から「名古屋育英商業学校」の校長に就任します。代議士は1期限りでした。やがて「育英商業学校」は東邦学園の傘下に入り、1935年には「金城商業学校」と改称します。

この「金城商業学校」は1945年3月の空襲で校舎(青)を失い、東に1.2km離れた兄弟校(赤)に同居することになります。学制改革を経て1952年には正式に東邦高に合併吸収されます。

名古屋市北区には「金城」という町域名があります(黄)。名古屋城の北側です。「金城商業学校」は今の東区東桜であり、名古屋城の南東です。どうして「金城」なのか気になりますが、地名ではなく人名なのかもしれません。

それはさておき、「金城商業学校」の最終所在地は東邦高ということになるわけです。東邦高は千種駅周辺の再開発で1971年に郊外の東山キャンパス(緑)に移転します。

なお、東邦商は戦時転換で系列の大同工業学校北校舎となり、商業校としては戦前で終わっているようです。

【外部リンク】
学校法人東邦学園>第41回「金城商業」最後の卒業アルバム
橦木倶楽部通信第4輯>50 育英商業学校-日比野寛-

三島市芝町の田方商

静岡県商業高等学校長会のWebサイトに「静岡県商業教育のあゆみ」と題するページがあります。年表中の1947年9月に「三島商業学校は私立東静商業学校合併」と記載されています。

今回の「商業高校MAP」は1943年度以降を対象にしていますので、三島商も東静岡商も対象となります。三島商は1948年の学制改革で三島二高となり、翌1949年には今の三島南高に改称しています。

一方の東静商は学制改革前に消滅した私立校です。東静商の最終所在地に辿り着くのは容易ではなさそうですが、想像以上の情報量がありました。まずは、三島市Webサイトです。

 明治40年(1907)光安寺(長谷町=現、日の出町)の住職桑畑龍音は境内に福田青年夜学校を創立しました。明治44年(1911)農家や実業家の子弟を対象に、その業務に要する知識、技能を修得させると共に、普通教育の補習を行うために三島農業補修学校を開校しました。
 大正14年(1925)寺の敷地内に校舎を新築して3年制の実務中学校としました。1学級のみで生徒は男子ばかり30人くらいでした。<略>
 その後、西福寺住職矢弓真善に経営が代わり、芝町に移転増築され、生徒数40人で4年制の田方商業学校となりました。昭和20年(1945)東静商業学校に、昭和22年(1947)市立三島商業学校(現、静岡県立三島南高等学校)に合併(がっぺい)されました。

三島市>むかしの学校「実務中学校」

いくつものキーワードが示されています。実務中から田方商に改称・移転した年こそ漏れていますが、最終所在地は芝町である可能性が高いわけです。実務中時代の光安寺は青のマーカー、西福寺が赤のマーカーです。

光安寺も西福寺も宗派は時宗ですので、そういう縁もあって学校を引き継いだのでしょう。さて、三島市のWebサイトにはこんなページもあります。これで、実務中から田方商への改称時期が判明します。

 三島地方唯一の私立学校
昭和5年、青木千代作氏が実科女学校を設立しました。昭和9年に三島家政学校を合併して三島実科高等女学校が誕生、現在の三島高等学校に引き継がれています。
私立の男子校は、三島実務中学校があり昭和11年に田方商業学校となりました。

三島市>三島実科高等女学校(三島高等学校)誕生(昭和初期(2))

また、「SOUTHERN CITY」という三島南高同窓会関係のWebサイトには同窓会の会報「函嶺春秋」がPDFで公開されており、その第23号6ページに「私立の東静商業と三島化学工業学校が母校に併合された」との記述があります。

この三島化学工とは、戦時転換で田方商に併置された学校ではないかと推測されます。三島商も三島工を併置していた関係で受け入れにさほど支障はなかったのでしょう。ここまでを年表にすると、次のようになります。

  • 1907年 福田青年夜学校
  • 1911年 三島農業補修学校
  • 1925年 三島実務中学校
  • 1936年 静岡県田方商業学校(芝町に移転)
  • (1944年 三島化学工業学校)
  • 1945年 東静商業学校
  • 1947年{三島商業学校に合併}

肝心の東静町または田方商の所在地ですが、西福寺は今の大宮町にあり芝本町との境界付近です。三島市のサイトでは「芝町は、現在の寿町・本町・芝本町・一番町にまたがる地域」とされていますので、大宮町は旧・芝町ではありません。

そこで、航空写真を見てみました。次に掲げるのは1941年4月撮影のものです。画面の右半分を占めるのが三嶋大社です。

国土地理院空中写真(1941/04/01)三島大社付近

画像の左中央に学校用地らしきものがあり、西福寺とは道路を挟んで向かい側という色めき立ちたくなる位置関係ですが、あいにくその区画は今の中央町です。残念ながら「商業高校MAP」上では西福寺にマーカーを置いてお茶を濁します。

尋常高等小学校に同居

富山湾沿岸の中新川郡水橋町は、西は富山市、東は滑川市と接していました。富山市に編入されたのは1966年です。1942年から1948年までの短期間存在した水橋商は、水橋町立東水橋実業学校として1935年に設立されています。

Wikipedia「富山県立滑川高等学校」の「沿革」から、水橋商関連の項目だけピックアップしてみました。(2018/12/30現在)

1935/09/30 水橋町立東水橋実業学校設立が認可され、同日より開校する
1942/03/27 富山県立水橋商業学校設立の件が認可される
1942/03/31 水橋町立東水橋実業学校を廃する
1942/04/01 水橋町立富山県水橋商業学校が開校する
1948/03/31 水橋町立富山県水橋商業学校を廃止する
1948/04/01 富山県立水橋高等学校(普通科、商業科)を開校する
1948/09/01 富山県立滑川高等学校、富山県立滑川女子高等学校、富山県立水産高等学校及び富山県立水橋高等学校を統合して、男女共学の富山県立滑川高等学校(普通科、商業科、薬業科、漁業科、水産製造科)を開校する
1952/05/01 定時制課程による富山県立滑川高等学校水橋分校(商業課程)を富山市立水橋中学校内において開校する
1968/04/01 定時制水橋分校の募集を停止する

Wikipedia>富山県立滑川高等学校

水橋商は1948年の学制改革に伴う再編で富山県立水橋高等学校となりますが、9月には共学化の方針に沿って4校が滑川高に一本化されます。水橋高としての寿命はわずか半年だったわけです。

同名の富山県立水橋高等学校は水橋駅の南側に現存しますが、体育コースを持つこの県立高校は1983年に開校した2代目です。「水橋高」で検索してもヒットするのは2代目ばかりということになります。

私が知りたいのは水橋商時代の所在地ですが、まるで手がかりがありません。行き詰まった私は1940年代の航空写真を眺めてみました。70年以上前で、しかも都市部ではありません。学校施設と思われる場所はすぐに目に入ります。

この場所が今の○○小学校だなと当てはめていくうちに、ふとPC画面の端に「水橋」の文字が目に止まりました。それはWikipediaに添えられた写真のキャプションでした。「東水橋尋常高等小学校に併設されていた東水橋実業学校」

なるほど。東水橋実は小学校への併設だったわけです。9月末という半端な時期に認可され即日開校したのは、すでに設備的には整っていたからでした。また、発足時に「水橋…」ではなく「東水橋…」としたのは仁義を切ったのかもしれません。

小学校併設なら新たに学校建設せずに低コストで学校を設置できます。生徒も今までと同じところに通うだけですから大きな負担にはなりません。高等小学校なら授業料は徴収しています。過渡期においてはたしかにグッド・アイデアです。

1952年に滑川高水橋分校が水橋中に開設されたのも同じ手法になります。東水橋尋常高等小学校は今の水橋中部小学校だそうです。「商業高校MAP」では水橋商のマーカーを今の水橋中部小に置きました。

比較的大きめの謎としては設置者があります。1942年3月27日に「富山県立…」で認可されているのに、実際に4月1日で開校したときは「水橋町立…」です。将来的な県立移管を前提にしたものだったのでしょうか。

伊那スタジアム脇の記念碑

伊那商業学校は1939年創立で1948年閉校の私立校です。所在地探しは難航するだろうと覚悟していましたが、拍子抜けするほどあっさり見つかりました。先駆者のおかげです。

伊那商の跡地は今では「伊那スタジアム(旧・長野県伊那運動公園野球場)」になっています。1947年9月22日米軍撮影の航空写真です。画像上部に見えるのが伊那商の校舎になるはずです。

国土地理院 空中写真(1947/09/22撮影)

実際には校舎は南向きに建てられていますので、国土地理院の写真の方位を60°ほど右に傾ける必要があります。次に示すのはGoogleMapによる今の航空写真です。外野が芝でないもう1つの球場は「伊那市営野球場」です。

赤のマーカーは「伊那商業学校建立跡記念碑」が建っている場所です。孫引きするしかありません。「この朝日ヶ丘の学舎を巣立った我々同窓生六三四名、「士魂商才」の大旆を掲げたこの地は我々の魂の故郷である」とのことです。

もちろん有志だとしても、わずか634名の卒業生でよくぞこの石碑を建てたものです。閉校後の校舎や講堂は、旧制・長野県立農林専門学校(→信州大農学部)が一時的に借用していたようです。

なお、学校用地はもともと伊那町のものだったようです。伊那商について詳しくは末尾外部リンクでどうぞ。

【外部リンク】
くーる長野 ~隠れた見所 おいしい食事~>「高遠ぶらり」を楽しむ~伊那商業学校跡地に行ってみました~