名古屋にもあった育英商はマラソン校長の形見

◆金城商業学校の最終所在地を調べるのがこのページのミッションです。

マラソン校長

愛知県立旭丘高校Webサイトには次のような記述があります。

愛知一中の校歌は、マラソン王日比野寛校長自らの作詞によるもので、明治37年に制定されました。これは日本で最初の校歌であるといわれています。四句二十連の長い詩の中には、愛知一中の教育理念が随所に盛り込まれていたため、旭丘高校と改称された後も、しばらくは歌い継がれていました

愛知県立旭丘高等学校>旭丘高校について 校歌

残念ながら「日本で最初の校歌」の歌詞は掲載されていませんし、今の校歌とは違います。日比野氏はマラソンを学校教育に持ち込んだ始祖とされています。「~王」と呼ぶのが適切かどうかは別にして、自らも走っていたということですので「マラソン校長」ではあったようです。

日比野氏が愛知一中を退職するのは1916年のようです。翌1917年4月の第13回衆議院議員総選挙で憲政党から立候補して当選しています。

ちなみに、愛知一中が第3回全国中等学校優勝野球大会で敗者復活から優勝したのは同年8月です。「病める者は医者へ行け。弱き者は歩け。健康なる者は走れ。強壮な者は競争せよ」の精神は、そうした形で息づいたわけです。

金城商業

愛知一中校長在任中の1908年に日比野氏は夜間の「育英学校」を立ち上げています。1920年に昼間課程の「商業育英学校」が設立され、日比野氏は1922年から「名古屋育英商業学校」の校長に就任します。代議士は1期限りでした。

やがて「育英商業学校」は東邦学園の傘下に入り、1935年には「金城商業学校」と改称します。この「金城商業学校」は1945年3月の空襲で校舎(青)を失い、東に1.2km離れた兄弟校(赤)に同居することになります。学制改革を経て1952年には正式に東邦高に合併吸収されます。

金城商
金城商(地理院タイルを加工)

名古屋市北区には「金城(きんじょう)」という町域名があります(ピンク)。名古屋城の北側です。「金城商業学校」は今の東区東桜であり、名古屋城の南東です。どうして「金城」なのか気になりますが、地名ではなく人名なのかもしれません。

ただ、名古屋城は「名城」や「金鯱城」や「柳城」のほかに「金城」と呼ばれることもあります。名古屋城から「金城」の地名と「金城商」が別々に派生したと考えるほうが妥当なのかもしれません。

それはさておき、「金城商業学校」の最終所在地は東邦高ということになるわけです。東邦高は千種駅周辺の再開発で1971年に郊外の東山キャンパス(茶色)に移転します。

なお、東邦商は戦時転換で系列の大同工業学校北校舎となり、商業校としては戦前で終わっているようです。

【外部リンク】
学校法人東邦学園>第41回「金城商業」最後の卒業アルバム
橦木倶楽部通信第4輯>50 育英商業学校-日比野寛-

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