中央大と中央学院大、先に「中央」を名乗ったのは?

1902年開校の中央商業学校

中央学院大Webサイトの「歴史」のページは明治33年から始まります。

明治33年(1900年)「日本橋簡易商業夜学校」設立
 高楠順次郎らにより、「日本橋簡易商業夜学校」が日本橋(現、東京都中央区日本橋)に設立されました。

中央学院大学>大学案内>歴史(2018/12/19閲覧)

その次は明治35年です。「中央商業学校」の開校は1902年ということです。

明治35年(1902年)「中央商業学校」開校
 「日本橋簡易商業夜学校」から甲種実業学校として「中央商業学校」が京橋(現、東京都中央区新川)で新たなスタートをきりました。「中央商業学校」という校名は、高楠の提案で決定しました。ヨーロッパ帰りの高楠には、“centre”“central”という言葉が常に胸中にあり、「社会、文化、教育の中心をめざす」という気概が”中央”の2文字にこめられていました。

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一方で、1885年に創設された「英吉利法律学校」は、1889年に「東京法学院」、1903年に「東京法学院大学」、1905年に「中央大学」に改称しています。大学としては中大が先ですが、先に「中央」を名乗ったのは今の中央学院大です。なお、青森中央学院大は1998年です。

1998年に中央学院中央高

ほかの「中央」も調べてみました。北見峠から網走の「中央道路」は1891年の着工です。

1891旭川 – 網走間の中央道路が開通
1899中央公論(中央公論社は1914)
1902中央商業学校
1905中央大学
1909国鉄・中央東線、中央西線
▲中央の命名

中央商関係の沿革を私なりにまとめてみました。今日のテーマは中央商の最終所在地です。

1900東京市日本橋区に「日本橋簡易商業夜学校」設立
1902東京市京橋区新川に移転し「中央商業学校」開校
1948学制改革により「中央高等学校」設置(普通科、商業科)
1955商業科が分離して「中央商業高等学校」設置
1966我孫子市に「中央学院大学」設置
1970「中央高等学校」休校(1985年廃校)
1970我孫子市に「中央学院高等学校」設置(普通科)
1998「中央商業高等学校」を「中央学院大学中央高等学校」と改称
2001江東区亀戸に「中央学院大学中央高等学校」を移転
2004「中央学院大学中央高等学校」に普通科設置
▲中央商

疑問点が2つあります。1944年の戦時転換で「中央商業学校」は「中央工業学校」になっているようですが、「商業」に復したのが何年かわかりません。また、1948年には新制中学も設立されたはずですが、この廃止時期がわかりません。

1955年に中央商から中央高が分離したときには短大を含めて少なくとも3校、もし中央中が廃止前なら計4校が中央区新川に同居していたわけです。3校ないしは4校同居の状態から1970年に1校減となります。

中央区新川

高校を卒業して上京した私は、主に茅場町駅から大学に通っていました。村田女子商と同様、校名は覚えていませんが、1km圏内に住んでいましたのでどこに学校があったか知っています。

新川2丁目28番街区
新川2丁目28番(地理院タイルを加工)

私の記憶では新川一丁目28番4号の越前堀永谷マンション(1974年竣工)の東側駐車場に学校がありました。1980年代前半のことです。1960年代以前の地図では角地の新川一丁目28番44号の新川K・Tビル(1987年竣工)の左に中央商や中央高が記されています。

矛盾するものではありません。1960年代の空中写真ではグラウンドがあります。

1960年代の新川2丁目28番街区
1960年代(地理院タイルを加工)

1970年に中央高が休校しているわけです。これに伴ってグラウンドを売却したものと推測されます。学校用地としては大通り沿いは好ましくありません。それに大通り沿いのほうが高く売れるはずです。

発祥の地の石碑

河畔の新川公園には「中央商業学校発祥の地」の石碑が2002年に建立されています。

「中央商業学校発祥の地」の石碑

校舎は隅田川沿いに建っていたわけではありませんが、そこまで厳密さを求めるのは現実的ではありません。100mぐらいは大目に見るのが一般的です。

【外部リンク】
北見市>歴史民俗資料館:中央道路と鎖塚

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