播磨坂にあった村田女子商

村田女子商業高校

村田女子高Webサイトには次のように記載されています。

昭和6年、本校の母体となる「村田女子計理学校」(現 村田女子高等学校)を神保町の「村田簿記学校」に併設しました。昭和14年には小石川区久堅町(現在の文京区小石川)に独立移転、60年の歴史を刻みましたが、平成11年、文京区の要請で現在の本駒込に新築移転し、今日に至ります。

村田女子高等学校>校訓・教育方針

小石川移転は1939年で、本駒込移転が1999年ということになります。村田女子商から村田女子高への校名変更は1996年ですので、私が調べている商業高校としての最終所在地は小石川です。

1995年の阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件のとき、私は小石川一丁目に住んでいました。通る機会は滅多にありませんでしたが1km圏内です。名前は知らなくても播磨坂に女子校があったことは覚えています。

「ゆびとま」には村田女子高のページはありませんが、村田女子商のページがあります。その住所は「文京区小石川五丁目40-18」になっています。今は播磨坂清掃事業所のビルが建っている場所が私の記憶にある女子校の位置(赤)です。

村田女子商・跡
旧・村田女子商(地理院タイルを加工)

別件で「昭和毎日」で公開されている1956年の地図(末尾外部リンク)を見ていたら、村田学園の文字が目に止まりました。そこは私の記憶とは異なる場所です。「文」のマークは四丁目の共同印刷本社と同じブロックにあります(青)。

国土地理院の空中写真では

1956年当時の村田学園中学校は吹上坂のほうにあったようです。ただ、どうしても拭えない疑問があります。昭和毎日の地図上で「文」のマークが付いている場所の現況は墓地です。

1956年に学校用地だったのに今では墓地になっているというのは、あまりにも解せない話であって、素直に受け入れることはできません。社寺が移転してきたとしても、墓地が絡むと相当に厄介なはずです。

国土地理院が公開している航空写真をチェックしてみました。1948年にはまだ播磨坂ができていません。播磨坂は西の言問通りと南の外苑東通りに接続するはずだった環状3号線です。

1956年の航空写真は画像が粗く、善仁寺付近はよくわかりません。1957年10月撮影の航空写真が次の画像です。

国土地理院 1957/10/10撮影 播磨坂付近

「>」型の建物が私の記憶にある女子校の位置です。この写真では播磨坂と吹上坂の間の区画にグラウンドのようなものが見えます。今は23階建てのタワーマンションが建っています。小石川パークタワーは1991年築です。

肝心の善仁寺付近は今とあまり変化はありません。何らかの学校施設が共同印刷の区画にも存在していた可能性は排除できませんが、昭和毎日の「文」マークは適切なものではないのかもしれないと私は判断しています。

地図ですから文字配置の問題はどうしても生じるはずです。文字のあるところに建物があるとは限りません。ただ、マークはずらせないものでしょう。

なお、播磨坂で検索してみたところ、江戸、明治、大正、昭和初期、昭和30年代、昭和末期の地図を掲載したページが見つかりました。村田女子商の校舎の形状は上の航空写真とは異なりますが、位置は一致しています。

【外部リンク】
昭和毎日>昭和の地図(小石川四、五丁目)=2020/01/16リンク切れ
東京坂道ゆるラン>文京さくらまつりの播磨坂と環三通り

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