順天堂大と順天高校
順天堂大は箱根駅伝で優勝11回の名門です(2007年が最後)。順天高の女子陸上部は2018年で第30回となる高校駅伝に16回目の出場を決めています(2023年現在で17回出場)。大学の運営主体は「学校法人順天堂」であり、高校は「学校法人順天学園」です。系列ではありません。
順天堂大の歴史は1838年(天保9年)の蘭方医学塾「和田塾」に遡るそうです。千葉県佐倉に移った1843年に医学塾「順天堂」を名乗っています。
順天堂医院の本郷移転は1875年(明治8年)で、順天堂医事研究会の発足が1885年(明治18年)です。順天堂医学専門学校の開設が1943年(昭和18年)、大学に昇格するのは戦後の1946年です。学校法人順天堂は短大を持っていた時期はありますが、高校以下には手をつけていません。
大阪の順天堂塾が東京に移転
一方、大阪では1834年(天保5年)に和算塾「順天堂塾」が開設されます。開設者とされる福田理軒は1815年生まれですので、開塾に際して実際のところは9歳年上の兄が主導していたのでしょう。
明治維新は1868年です。明治政府による太陽暦の採用は明治5年ですが、福田理軒は改暦にも携わっていたようです。上京した理軒とともに大阪の順天堂塾は1871年に東京に移転し、その名を「順天求合社」に改めます。
その移転先は東京市神田区中猿楽町4番地でした。神保町交差点から西に200mほどです。ほぼ同時期に私塾として開設された東と西の順天堂は、神田川を挟んで直線距離1km圏内でニアミスすることになったわけです。
西の順天は1894年(明治27年)に「尋常中学順天求合社」を設立、1900年には「順天中学校」に改称されますが、1913年の神田大火と1923年の関東大震災で校舎が2度全焼したということです。
震災後の区画整理で、順天中の換地先は神田区表猿楽町7番地(西神田一丁目8番地)に決まります。1933年には「順天商業学校」が併設されたのもつかの間、太平洋戦争の空襲で校舎はまた焼けてしまいます。
神田三崎町?に移転
順天中は順天商とともに葛飾区青戸に移転し学制改革を迎えます。順天高は1958年には北区王子の現在地に移転します。同時に中学は閉校となり(1995年再設置)、順天商は別法人に譲渡されています。
切り離された順天商は弥久茂高から高田高へと名前を変え、1969年に休校となります。今回の私のミッションは商業高校の最終所在地をMAP化することです。青戸の所在さえわかればそれでいいのです。
ただ、些細な疑問があります。末尾外部リンクの「順天高校青戸校舎跡」には、順天高校のWebサイトからその「沿革」が引用されています。2009年の投稿ですが、当時と今と「沿革」の文言は一字一句変わっていません。
私が引っかかるのは「1928(昭和3)神田三崎町に移転し、校舎を新設 」のくだりです。末尾リンク先の「180年史」によれば、関東大震災後の区画整理による移転先は古地図上の「高等女子仏英和学校」(→白百合学園)跡地のはずです。
古地図上の「天主公教会」とは現在のカトリック神田教会であり、道路を隔ててその東側の猿楽町二丁目2番の敷地は神田女学園と思われます。移転先は現在の「西神田一丁目」のはずなのです。
そもそも1928年には「三崎町」はあっても「神田三崎町」の町域名が存在しません。「神田三崎町」と称されるのは神田区が麹町区と合区される戦後のことです。「神田三崎町」の町域名が出現したときはもう青戸に移転しているのです。
「西神田」が町域名になるのは1933年か1934年のようです。「沿革」の文言は、なぜ西神田や移転時の表猿楽町ではなく神田三崎町なのか、このどうでもいい疑問に私はとらわれてしまったのでした。
震災後に急拵えで建てた校舎が中猿楽町にあり、区画整理で指定された換地先が表猿楽町だったために、主に建築中は学内では新校舎を「三崎町」として呼んでいたのかもしれません。すっきりした推理ではありませんが…。
【外部リンク】
■おやじのつぶやき>51 順天高校青戸校舎跡
■学校法人順天学園>順天180年史
■落ちこぼれ高校生の3年間>第十五章《雑記》(2023/10/01時点でデッドリンク)
■goo地図>三崎町・西神田付近の古地図(2023/10/01時点でデッドリンク)
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