近くの武内神社か少し遠い天神社か、二戸市の天神橋

二戸市堀野と二戸市米沢に架かる天神橋

岩手県二戸市(にのへし)の天神橋は、いわて銀河鉄道・斗米駅(とまいえき)の東360mを流れる馬淵川(まべちがわ)に架かる県道264号線の橋です。一級河川・馬淵川の源流は葛巻町の北上山地であり、一戸町から二戸市、さらに県境を越えて三戸町と南部町を経て八戸市で太平洋に注ぎます。マイ読みの「米」からしても、「縁」はやはり「別」の系統であろうと思われます。

二戸市の天神橋
二戸の天神橋(地理院タイルを加工)

天神橋(紫▲)にもっとも近い神社は、馬淵川右岸の二戸市堀野にある武内神社(青囲み)です。

仁徳天皇の時代の創建と伝えられ、蝦夷を鎮圧するため武内宿弥を祀った。武内宿弥は朝廷の三韓討伐で神功皇后の共をした軍人。その後、坂上田村麻呂が社殿を修繕。時代が下っては南部藩が修築した。昭和八年(1933)までの社殿は宝暦十三年(1763)の建立だが、境内の老ケヤキが折れて社殿を大破。二十八年に修復された。丸柱は宝暦(1751)時代のものである。

岩手県内 神社検索>武内神社(二戸市堀野)

祭神が武内宿弥だとすれば八幡系になるはずです。馬淵川左岸の米沢(まいざわ)には天満宮(赤囲み)がありますが、天神橋からの距離は630mほどです。創建時期や規模で武内神社に劣ります。この天満宮にちなんで天神橋の名称になったのだとすれば、位置関係としてやや違和感が残ります。

あれこれ調べてみると、武内神社の御朱印には梅の紋が使われているようです。梅と牛は道真系の二大アイテムですが、牛は確認できません。また、武内神社の例祭日は9月13日とされており、25日ではありません。武内神社の境内には稲荷神社の祠や江戸時代建立の「金毘羅大権現供養塔」もあるようです。

武内宿弥と菅原道真は明治期の1円札と5円札コンビです。両者は相容れないわけではありません。いろいろ混ざっていることは間違いないようですので天満社が入っていても不思議ではありませんが、「天神」と呼ばれるほどの要素は梅の紋以外には確認できませんでした。

というわけで、現段階では左岸の天満宮由来の天神橋という解釈をするしかなさそうです。

埋め込んだストビューは2014年5月撮影のものです。奥に見える橋は天神橋ではなく、1本下流の斗米橋です。二戸はたしかに雨の少ない地方ではありますが、宅地化してはいけない区域のように思えてなりません。

二戸市にある九戸城跡と四戸城跡

糠部(ぬかのぶ)の九ヵ部(くかのぶ)は、一戸から九戸までほぼ時計回りの並び順です。下の地図の赤マーカーは各市町村役場です。唯一現存しない四戸については、苫米地(とまべち)の南部町役場に紫のマーカーを置きました。四戸は五戸町浅水から南部町苫米地を経て八戸市櫛引の辺りに該当するとされています。

一戸~九戸
一戸~九戸(地理院タイルを加工)

ところが、二戸市内には二戸市役所近くに九戸城跡があり、斗米駅の1つ北の金田一駅付近に四戸城跡(緑のマーカー)があります。天神橋はこの両者の中間付近です。

ちなみに、一戸城は一戸町に、三戸城は三戸町に、七戸城は七戸町に、八戸城は八戸市にあります。二戸市は九戸町や南部町と隣接してはいますが、二戸に「9」と「4」があると順番がめちゃくちゃです。いったい二戸城はどこにあったのかという話にも発展します。

どうやら二戸市内にある九戸城や四戸城は、熊本城や姫路城のように地域名を冠したものではなく、九戸氏や四戸氏という人名由来の名称のようです。レギュラーに地域名をかぶせて九戸城は福岡城、四戸城は金田一城とも呼ばれているようです。

金田一にあった四戸城の裏山に当たる舟越山は天神山という呼び方もあるようです。この天神山と天神橋は約3キロ離れています。四戸城跡には八坂神社があり、祭神は須佐之男命や天照大御神ですので、元来の天神(地祇)系ということになります。

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