仏壇、祭壇、演壇、教壇の「だん」は「つちへん」で、檀家の「だん」は「きへん」です。壇蜜は「つちへん」で、檀一雄・檀ふみ親子は「きへん」です。壇蜜はさておき、仏壇も祭壇も演壇も教壇も多くは木製であり、「きへん」のほうがしっくり来るような気がしなくもありません。
花壇は「つちへん」で妥当ですが、古代の屋外の祭壇はただの土盛りだったはずです。その流れで「つちへん」の壇が仏壇や演壇や教壇に転用されたということのようです。
和歌山・奈良県境の護摩壇山(ごまだんざん)
アメダス護摩壇山は2020年の年間降水量が1300近いアメダス観測所のうち年間5位でした。
アメダス護摩壇山は標高1130mで現存する観測所では全国18位タイ、近畿地方ではもっとも標高の高い観測地点です。雨量のみの観測所です。さすがに周囲に集落はありませんが、観光施設は点在しています。
山としての護摩壇山は和歌山県田辺市(合併前は龍神村)と奈良県十津川村にまたがり、その標高は1372mです。ながらく和歌山県最高峰とされていましたが、2000年に当時は名前のなかった山が1382mだと確認されました。この山も和歌山と奈良の境界です。
2005年に龍神村は田辺市と合併します。2008年に田辺市が山の名称を全国に公募して「龍神岳」と名付けられました。奈良県や十津川村の立場はどうなるのか気になりますが、奈良県の最高峰は1915mの八経ヶ岳(はっきょうがたけ)で、十津川村には1800mの釈迦ヶ岳があります。1300m台で騒ぐ和歌山を冷ややかに見ていたのかもしれません。
護摩壇山の名称については、敗走した平維盛(これもり)が山頂で護摩を炊いて行く末を占ったという伝承に由来するという説が広く流布しています。平家の落人が潜んだことまで否定するつもりはありませんが、ちょっと眉唾です。高野山にも近く、一帯が古来からの修験道場であっただろうということは容易に推測できます。
地理院地図で「護摩」を検索すると、護摩壇山を含めて次の7か所がヒットします。やはり、いずれも山中です。
地理院地図には非掲載ですが、岩手県遠野市にも護摩堂山があります。
福島県伊達市の霊山(りょうぜん)の岩場
標高825メートルの霊山は伊達市と相馬市を隔てる山です。中通りと浜通りの境でもあります。山頂付近の霊山城は南北朝時代に国府が多賀城から移され、東北における南朝の拠点だったということです。霊山は紅葉と奇岩の名所として有名です。
霊山の登下山ルートには天狗の相撲場、親不知子不知、弘法の突貫岩、弁天岩などと名付けられた奇岩がありますが、護摩壇は霊山屈指の絶景ポイントです。初心者向けとされているわりにはスリリングなコースです。霊山は最澄や空海とともに入唐八家に数えられる慈覚大師円仁が開山したと伝えられていますので、天台宗系ということになります。実際に護摩が焚かれていたのかもしれません。
新潟県五泉市と田上町の市町境にある護摩堂山
標高274mの護摩堂山には山頂付近にあじさい園があります。湯田上温泉街から山頂まで1時間足らずで、山頂広場から佐渡ヶ島が臨めるはずです。今でも山開きの日には護摩壇が炊かれています(2020年は中止)。
山頂にあった護摩堂城の築城時期は、田上町観光協会の看板では応徳年間(1084-1087年)の築城とされています。
護摩堂の名は山麓周辺には真言宗の寺院が多くあったことからが付いたとされる。
産経新聞>【甲信越ある記】護摩堂山(新潟県五泉市・田上町)
田上町には真言宗の寺院は見つかりませんでした。五泉市には今でも真言宗の寺院が結構あります。
秦野市の護摩屋敷の水
護摩屋敷と護摩堂は呼び名の違いかと思われます。秦野市街地から県道70号線を宮ヶ瀬ダム方面に向かう途中のヤビツ峠の先に「護摩屋敷の水」と称される湧水があります。修行僧が身を清めたという謂れのようです。
秦野盆地湧水群は環境省の名水百選の1つです。秦野市街地の「弘法の清水」には次のような伝説があるようです。どこかで聞いたストーリーですが…。
ある夏の日のこと、一人の旅の僧が水を恵んでもらおうと、ある農家を訪れましたが、その家には水がありませんでした。
秦野市観光協会>弘法の清水
「ちょっと待って下さい。」と外に出た娘はなかなか帰ってきません。水を求めて遠くまで行ったのでした。
僧は大変感謝し、持っていた杖を地面につくと、そこから水が湧き出てきました。後になって、旅の僧が、弘法大師とわかり、この井戸を弘法の清水と呼ぶようになりました
伝説の弘法大師は杖をついて水を出す能力があるのに、わざわざ他人の好意にすがろうとします。「なぜウルトラマンは最初からスペシウム光線を使わないのか」という永遠のテーマと同じ性質のものかもしれません。
「護摩屋敷の水」の西1キロの山中には「日本武尊の足跡」があります。足形の窪みから水が湧いているだけですが、足跡が1つ(片足)しかないのは、きっと日本武尊が跳躍力に優れていたからに違いありません。
富山県上市町護摩堂
富山県上市町には護摩堂という字があります。滑川市との境界になります。護摩堂の建物も実在しますが、その近くの飲食店がどうやら「ポツンと一軒家」で紹介されたようです。
鳥居マークは護摩堂八幡社です。その南側に「八十八(やとはち)」さんがあり、その奥に護摩堂があります。護摩堂の横には「弘法大師の清水」があります。2019年6月撮影のストビューです。
看板の説明文を起こしてみました。
護摩堂部落は、今から千三百余年前から人が住んでいたと言われていて、その当時、付近の山野は猛獣毒蛇の巣にて人々が被害を蒙り困り果てていたのであるが、たまたま弘法さまがこの地に来て、住民の苦しみを憐れみ、住民の安寧を企画し、胡麻をたいて野獣の放逐を神にお祈りになった。以来、この地を護摩堂と、称えるようになった。
弘法さまはこの地に来て、ある老婆に水を乞われると、老婆はいそいそと数町も隔てた峡谷を下って水を求めて来た。弘法大師はその遅かったわけを問いただされた。老婆は求水の困難なことを語ったところ、太師は深くこれを憐み、すぐさま穴を穿ったが、不思議にも湧水が流れ出た。
今の弘法堂背後の湧水はこれである。以来、千二百年の間、今日に至るまで住民の飲料水となっている。
弘法さまと護摩堂
▲「太師」は私のミスではありません。「憐れむ」の送り仮名も原文を尊重しています。
コピペとは歴史あるものなのかもしれません。
福井県勝山市と石川県白山市の加越県境にある護摩堂峠
福井県勝山市と石川県白山市の県境には護摩堂峠があります。Google Mapでは護摩堂峠は表示されませんが、標高1152mの三角点の山が護摩堂山と表示されます。
峠は廃道に近くなっているようですが、山スキーで有名な護摩堂山の山頂からは真正面に白山を臨めるということです。今は地蔵堂が残っているだけですが、白山信仰も加わった護摩堂がその付近にあったのでしょう。
香川県さぬき市の護摩山
さぬき市は2002年に志度町など5町が合併して発足しています。護摩山は徳島県境まで1キロに満たない旧・長尾町(その前は多和村)にある標高433mの山です。形状的にはかなり目立つ山です。88番大窪寺まで直線距離で3.3キロです。
護摩山にも弘法大師伝説があります。
唐から帰国して真言密教の道場の地を探して巡錫していたお大師さんが、当地においでになったとき、山が火を吹き、大鳴動して、人々が恐れおののいていたという。
一夜庵の案内板
お大師さんは、ここで、一夜の庵を結び、護摩を炊いて鎮められたと伝えられている。
護摩山の山頂にある巨岩は、大窪寺の寺地を決めたとき、紫雲がたなびいて、聖地の趣を感じて、密教修行の地とされたと言われる。
残念ながら弘法大師の時代に活動した火山は四国にはありません。中国地方の大山や蒜山もその時代の噴火歴はありません。「山が火を吹」いただけなら雷による火災とも考えられますが、雷なら雷だと伝えられるはずです。
ストビューで付近を徘徊してみましたが、麓の天体望遠鏡博物館が気になります。建物の造りが明らかに学校です。多和小学校は2012年に閉校したあと、産直物販施設として再活用されていましたが、2016年には博物館もオープンしたようです。
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