「愛は平和ではない、愛は戦いである」は誰の言葉?

始皇帝の名言なのか?

タイトルそのままの言い回しではありませんが、「愛は平和ではない、愛は戦いである」を始皇帝による名言として紹介しているサイトを複数みかけました。もし始皇帝の言葉だとすれば、「史記」の「秦始皇本紀」あたりが出典となるはずですが、その種の記載は一切ありません。

私の世代がこの言葉に初めて接したのは「愛と誠」です。「週刊少年マガジン」で1973年から連載された劇画は、翌1974年夏に映画化され、同年秋には当時の東京12ch系で連ドラ化されました。TVドラマでは池上季実子が主演でした。誠役は夏夕介でした。

TVドラマは北村総一朗のナレーションで始まります。毎回必ず繰り返されるのですから、記憶に刻み込まれます。

愛は平和ではない
愛は戦いである
武器のかわりが
誠実(まこと)であるだけで
それは地上における
もっともはげしい きびしい
みずからをすてて
かからねばならない
戦いである――

わが子よ
このことを
覚えておきなさい
 (ネール元インド首相の
   娘への手紙)

「純愛山河 愛と誠」冒頭のナレーション

1970年代にはインド初代首相は今の「ネルー」ではなく、「ネール」という表記でした。PC普及率が3割を超えた2000年当時のネット上では、本当にジャワハルラール・ネルーがこの手紙を書いたのかどうか疑問が呈されていました。

水面下の努力を否定するわけではないけれど

梶原一騎には史実や科学的事実とは異なる「創作」が数多く指摘されています。その代表格は、花形満の「青い水面に美しく優雅に浮かぶ白鳥は、しかしその水中にかくれた足で絶え間なく水をかいている」です。

水鳥は羽を防水加工して羽毛と羽毛の間に空気を取り込んでいます。足を動かすことなく浮力を得られます。人間の場合も、ただ浮いているだけなら手足を動かす必要などありません。温泉やサウナで1人きりになると私はよくやります。

白鳥が水中で絶え間なく足をバタつかせているというのは想像の産物です。次の動画で水面付近に黒く伸びているのが白鳥の足です。

そうは言っても、「鴨の水掻き」という慣用句があるように水面下の苦労や努力を察するのも美徳には違いありません。その意味では花形が語っている話の主旨自体は否定されるべきことではないわけです。鴨はたしかにバタバタさせています。

たとえドブの中でも前のめりに

坂本龍馬の言葉とされる「死ぬときはたとえどぶの中でも前のめりに死にたい」は星一徹が語ったものです。史実にはないはずですが、フィクションの作中人物に語らせるだけなら許容範囲内だろうと私は理解しています。少なくとも捏造ではありません。花形や一徹が誤解していただけです。

ただ、番組冒頭のナレーションで歴史上の人物の名を借りると「でっち上げ」の批判は避けられません。ネルーは本当に自分の一人娘にこのような手紙を書いたのでしょうか。私は疑問に思っていますが、意外にもそれなりに受け入れられているようです。

「愛と誠」は2012年に妻夫木聡と武井咲の主演で再映画化されており、この映画でも「愛は平和ではない、愛は戦いである」が使われたそうです。

邦訳されているネルーの書簡集は、みすず書房の「父が子に語る世界歴史」全8巻を含めて10冊ほどあるということです。末尾外部リンク先のブログ主さんは、これを全部読んだうえで「愛は平和ではない…」の文言を確認していません。

独立運動に参加したネルーは投獄され、獄中から娘に手紙を出します。その娘とは、ネルーの死後に第5代首相となるインディラ・ガンジーです。 「…愛は戦いである」がもしネルーの言葉だとすれば、どんな文脈で語られたものなのかという興味があります。

仮にネルーでないとしたら、梶原一騎の完全な創作なのでしょうか。私は何かモデルになるものがあるはずだと疑っています。その意味において、始皇帝説はきわめて魅力的なものです。私はネルーでも始皇帝でもない確率が99%だと思っていますけど…。

【外部リンク】
漫棚通信ブログ版>梶原一騎とネルー(その2)

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