東経大の国分寺移転時期

東京経済大Webサイトのメニューボタンで「概要・歴史」をクリックして「東経大の歴史」のページを開くと、次のような年表が示されます。

1900(明治33)年
 大倉商業学校開校
 9月1日、東京・赤坂葵町に開校。翌年1月、夜学専修科を開校。
1919(大正8)年
 高等商業学校への昇格、認可される。
 大倉高等商業学校となり、名門高商として全国にその名を馳せる。
1944(昭和19)年
 大倉経済専門学校と改称
1946(昭和21)年
 赤坂葵町から国分寺へ移転

東京経済大学>概要・歴史>東経大の歴史

旧制の高等商業学校なら、今の私にとっては関心の対象外ということになりますが、大倉高等商業学校には中等科が設置されていたようです。この中等科が戦争と学制改革を経てどうなったのか、これだけではわかりません。

実はサイト内検索で見つけましたが、下のスライドメニューで「東経大の歴史が分かる博物館」から「東京経済大学118年の歴史」に入り、1946年の「戦時下校名変更と国分寺への移動」をクリックすると、次のポップアップが出てきます。

戦時下にあった1943年1月、文部省が中学校令・高等女学校令・実業学校令を廃止し中学校令を公布したことに伴い、大倉高等商業学校中等科は東京大倉商業学校に改称。1944年4月には、大倉高等商業学校が大倉経済専門学校へと改称する。1945年5月25日、夜半からの空襲により、別館・書庫・職員集会所・物置を残し、校舎の大半が焼失。教職員と学生は、終戦の8月15日を疎開先で迎えた。
空襲による校舎消失により、1946年1月20日、戦災を受けた赤坂葵町の校地・現存建物と引き換えに、大倉財閥系の兵器会社であった中央工業所有の土地・青年学校宿舎・工員宿舎などの建物の取得を決定し、国分寺に校舎を移転する。

東経大の歴史が分かる博物館>戦時下校名変更と国分寺への移動

1943年1月に公布された「中学校令」とは「中等学校令」の誤記と思われますが、中等科は「東京大倉商業学校」に改称しています。文脈からして、改称されたのは1943年のことでしょう。

1943年に改称されたのなら、今回の「商業高校MAP」の対象となります。肝心なのは後段です。本体の大倉経済専門学校が移転したのはわかりますが、東京大倉商業学校が移転したとは記載されていません。

また、1946年1月20日は「建物の取得を決定し」た日かもしれません。Wikipediaの「東京経済大学」のページでは、この日を国分寺移転の日としていますし(2018/12/20現在)、そのように読めなくもありません。

ただし、港区教育委員会の「デジタル港区教育史」は、大倉経済専門学校の国分寺移転を1946年5月としています。1944年4月のNo772に次のような記載があります。

私立大倉高等商業学校 大倉経済専門学校と改称(昭二〇・五戦災により焼失、昭二一・五国分寺市南町一の七に移転)

デジタル港区教育史> 港区教育史 上/下 39

いずれにせよ高等商業学校の中等科だった「東京大倉商業学校」に関する記述はなく、ここで足取りが途絶えてしまいます。最終所在地が校舎焼失時のホテルオークラ隣接地なのか、移転後の国分寺なのか判断できません。

移転しなかった可能性のほうが高いと思われますので、MAPでは虎ノ門ツインビルにマーカーを置きました。なお、札幌と神戸の大倉山は大倉財閥ゆかりですが、横浜の大倉山は同姓の別筋ということです。

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