15歳の文鮮明氏とヘブライ語なまり?のキリスト

文鮮明氏の生家

文鮮明氏は1920年2月25日に北朝鮮の平安北道・定州で文慶裕(ムンキョンユ)・金慶継(キムキョンゲ)夫妻の次男として生まれています。画像中央の道が4本集まっているところが生家だそうです。

文鮮明師の生家

北緯39度41分ですので、日本列島では秋田や盛岡に相当します。それほど雪が深いわけではなさそうです。

文鮮明氏の生家

画像処理の問題なのかもしれませんが、肥沃な土地というわけではないようです。生家から2~3キロ離れたところに猫頭山(ミョドウサン)という山があります。標高は310mということです。

猫頭山

Wikiには次のような記述があります。1935年ですので、文鮮明氏は15歳です。

4月17日 – 文鮮明は、現在の北朝鮮定州の「猫頭山」においてイエス・キリストと出会った。文によれば、キリストはヘブライ語なまりの韓国語で「メシアとして果たせなかった使命を果たしてほしい」と頼んだという。

Wikipedia>世界基督教統一神霊協会の年表(2023/10/09閲覧)

あいにく私はヘブライ語を認識できませんが、15歳の文鮮明少年は鋭い観察力を発揮してヘブライ語なまりがあることに気づいたようです。

祈りでずっと夜を過ごした後、明け方になって、イエス様が私の前に現れました。風のように忽然と現れたイエス様は、「苦しんでいる人類のゆえに、神様はあまりにも悲しんでおられます。地上で天の御旨に対する特別な使命を果たしなさい」と語られたのです。

浜松家庭教会>文鮮明先生自叙伝 第二章 神の召命と艱難

文鮮明少年はなぜ「忽然と現れた」人物がイエス・キリストだとわかったのでしょうか。その人物は自らヘブライ語なまりで名乗ったのかもしれません。免許証もマイナカードも持っていないものと思われます。

幼い時体験したこの経験を、言葉で皆さんにみな表現するというのは、大変難しいことです。一言で言って、霊的な世界が突然本人の前に広がり、先生は自由に、その霊的な世界にいる聖者たちと思う存分通信できるようになりました。北朝鮮の地、静かな山中で、先生は何度もイエス・キリストと直接対話をしました。

真の御父母様の生涯路程 1>第三節 神様の召命とみ旨の道出発

「体験」ではなく、夢を見ていたのか、もしくはただの妄想ではないかと思われます。誰かが見ていたわけでもないのでしょうし、「言ったもの勝ち」の世界なのかもしれません。このストーリーを受け入れられる人たちは、間違いなく「いい人」です。

南北を行き来

文鮮明と北朝鮮

北朝鮮生まれの文鮮明氏は定州公立普通学校を卒業後、ソウルの京城商工実務学校電気科に進学します。Wiki「世界基督教統一神霊協会の年表」をベースに、南北分断が固定化する1950年までの北朝鮮での足取りをまとめてみました。

1920年2/25平安北道・定州郡徳彦面上思里で出生
1924年最初の妻・崔先吉が定州で出生
1935年4/17猫頭山でイエス・キリストと出会うw
1943年2/10平安南道・安州郡信里で韓鶴子が出生
1945年10月平安北道・郭山の警察に拘束
1946年6/06妻子を残してソ連占領下の平壌へ
1946年8/11大同保安署に拘束
1946年11/21釈放
1948年2/22平壌内務署により逮捕
1948年4/07平壌刑務所に収監
1948年5/20咸鏡南道・興南収容所に移送
1948年8/13(李承晩が大韓民国政府樹立を宣言)
1948年9/09(朝鮮民主主義人民共和国が建国)
1950年6/25(朝鮮戦争が始まる)
1950年10/14未明、国連軍の攻撃で収容所が解放
1950年10/19(国連軍が平壌に入城)
1950年10/24平壌に戻る
1950年12/21封鎖直前のイムジン川を渡る
▲文鮮明と北朝鮮(朝鮮戦争まで)

日本留学から帰国した文鮮明氏は、ソウルで崔先吉氏と結婚(挙式1944年5月、入籍1945年4月)しますが、京畿道警察部が新婚家庭を訪れて文鮮明氏を連行するのは1944年11月です。まだ朝鮮半島は日本の軍政下にあります。1945年2月に釈放されます。

北朝鮮で3度の拘束

終戦は(解放=光復)はソウルで迎えているようですが、年表上では1945年10月に郭山で拘束されています。何の容疑だったのかわかりません。郭山は定州の西になります。

いったんソウルに戻った文鮮明氏ですが、1946年6月には生まれて間もない長男・文聖進氏を残して平壌に向かい、平壌に開拓教会を建てています。8月から3か月拘束された大同保安署は今の凱旋門付近のようです。

1948年2月の4回目の逮捕は長期刑となります。

4月7日 – 文鮮明は、「社会秩序を乱した」という社会紊乱罪で、重労働5年の実刑を受ける。

Wikipedia>世界基督教統一神霊協会の年表 (2023/10/08閲覧)

文鮮明氏が日本海側の興南収容所に移されてから朝鮮戦争が始まります。国連軍の進軍で収容されていた監獄は解放され、文鮮明氏は平壌に戻ります。

爆撃が激しくなると、看守は囚人を処刑し始めました。囚人の番号を呼んで、四日分の食料とシャベルを持たせて、外に連れ出しました。他の監獄に移送されるものと思って呼ばれて出て行った彼らは、山に連れていかれ、自分の墓穴を掘らされた後、そのまま殺されてしまいました。量刑の重い囚人が先に呼ばれていました。じっと数えてみると、次の日は私の番でした。

FFWPU, USA>平和を愛する世界人として 第21話 国連軍が開けてくれた監獄の門

もともと有期刑でしたがタッチの差で処刑を免れたのだそうです。爆撃も避けられたのも、封鎖直前のイムジン河を渡るのもタッチの差というサスペンス仕立てです。戦時下ですからきわどいシーンはあったに違いありませんが、あまり重ねられるとフィクションを疑いたくなります。

文鮮明氏6回の「投獄」歴のうち、3回はソ連軍支配下の北朝鮮です。反共にならなかったら逆に不思議とも言えそうです。平壌まで北進した国連軍ですが、中国人民志願軍が参戦して38度線に押し戻されます。停戦協定は1953年7月です。

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