湯浅町立湯浅小学校の「沿革」のページが、あまりそれらしくありません。興味深い項目がいくつもあります。
1873年 福蔵寺で学校を開く。(本校創立) 先生5人、児童355人
和歌山県湯浅町立湯浅小学校>学校案内
1906年 男子校、女子校に分離 ペスト流行
1911年 尋6、高12、裁縫科の生徒79人が、初めて和歌山市へ一泊の修学旅行
1912年 桜島噴火、火山灰が降ってきたので記念に採集し、珍しがる。
1916年 職員室と応接室へ電灯をつける。
1928年 講堂建築貯金開始
1936年 講堂落成 創立60周年記念式
1941年 国民学校と改称 運動場に、いも苗二万本植える。
1942年 空襲警報しきりとなる。
1944年 校内に防空壕をつくる。 大阪市玉出国民学校児童が本校に集団疎開
1945年 講堂は橘第57部隊の兵舎となる。 児童はフキ、イタドリ等を三日間採集し、湯浅食品会社へおさめる。
先生1人当たりの生徒数
学制発布は1972年(明治5年)8月です。当時の小学校は下等科と上等科がそれぞれ4年制の計8学年のはずですが、開校当時の先生は5人ということですので、複式学級になります。実際の就学率はせいぜい3割程度と思われます。
355÷5はちょうど割り切れます。71です。先生1人当たり71人もの児童を抱えていたわけです。文部科学統計によれば、2017年の本務教員1人当たりの児童数は15.4人です(1学級当たりで23.6人)。
ペスト
フィクションの中でしか見聞きすることがない伝染病というイメージしかありません。ジュリエットは一定時間だけ仮死状態に陥るというご都合主義丸出しの薬を飲みますが、その企みを打ち明けた手紙はロミオに届きませんでした。
手紙を託された使者がペスト患者とともに囚われの身になったからです。ロミジュリの悲劇はペストが一役買っています。日本では1899年から1926年の間に2,905人の患者(死者2,420人)を出しているようです。死亡率83%です。
修学旅行
「尋6、高12」とは尋常小学校6年生と高等小学校1・2年生の意味なのでしょう。湯浅駅からJR和歌山駅まで紀勢本線の営業キロ数は37kmです。今の紀勢本線が箕島駅まで開通したのは1924年、今の湯浅駅の開業は1927年です。
1911年当時、湯浅に鉄道はありません。日本バス協会のWebサイトによれば日本で最初の乗り合い自動車は1903年に京都で運行されていますので、バスの可能性もありますし、あるいは海路だったのかもしれません。
桜島の大正噴火
年表では1912年になっていますが、火口から流れ出た溶岩で桜島が大隅半島と陸続きとなったいわゆる「大正噴火」は1914年です。降灰は1200km離れた小笠原や石巻でも観測されています。
カムチャツカ半島でも降ったという説もあるようですが、さすがにこれは眉唾のような気もします。溶岩が埋めた海峡は「瀬戸海峡」で、現存しない集落の名は「瀬戸」と「脇」です。おかげさまで、「瀬戸MAP」に追加できます。
電灯と講堂
日本最初の電力会社である東京電灯の開業は1886年ですが、1897年には和歌山電灯、 1910年には日高電灯が設立されています。1916年なら湯浅にも電線が延びていたものと思われます。
講堂については、それまでなかったので「建築貯金」を始めたのか、それとも老朽化による再築だったのか判然としません。再築だとすれば、「新講堂落成」になるような気もします。いずれにせよ「貯金」から「落成」まで8年です。
芋畑に防空壕
太平洋戦争は1941年12月に始まっています。サツマイモは春から初夏の植え付けで収穫は秋です。「いも」が二毛作可能なジャガイモだとすると植え付けの時期を絞るのは難しくなりますが、開戦前にすでに食糧事情は悪化していたのでしょう。
日本本土の初空襲は1942年4月のドーリットル空襲です。太平洋上の航空母艦から出撃した16機が主に東京を空爆しています。最後に飛び立ったファロウ中尉が機長を務める16番機は名古屋空爆のあと、四日市や和歌山に機銃掃射しています。
これが湯浅における最初の空襲警報だったのかもしれません。警報は1937年の防空法で制度化されており、NHKのラジオ第一放送に割り込む形で流されていたようです。湯浅のお隣の有田市にある石油精製工場は1945年7月に空襲を受けています。
湯浅の伝統的建造物群保存地区の街並は戦災を経ていない証左です。湯浅に疎開してきた玉出小の大阪市西成区玉出地区は1945年3月の大阪大空襲でほぼ全焼しています。
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