表参道である1丁目商店街が南大門と筋違いの理由

天神橋一丁目商店街振興組合のアーケード部分は80mほどです。

天神橋1丁目
天神橋1丁目(地理院タイルを加工)

水色の枠線内が天神橋1丁目です。アーケードは赤線部分のみに過ぎません。ピンクの部分は道路がカラー舗装化されており歩行者専用道路にはなっていますが、アーケードはありません。ストビューは2016年11月撮影のストビューです(赤マーカー)。看板には「日本一長~い商店街 天神橋1丁目 表参道」とあります。

青マーカーには「天満宮」の鳥居が建っています。ストビューを拡大すると銘板に「平成七年」の文字が読み取れますので、比較的新しい鳥居です(建て替えられた可能性もあります)。腑に落ちないのは、なぜ黄マーカーの南大門に向かって参道が形成されず、1本西に寄ったのかということです。

この疑問は北野天満宮のWebサイトで私なりに解決しました。

参道の正面に本殿がそびえ立つ。というのが多くの神社で見られる光景ですが、当宮の楼門参道の正面には摂社の地主社が立っています。これは、もともとこの地には地主神社があり、のちに菅原道真公をおまつりする社殿を建てたという歴史的な理由から、本殿は地主社の正面を避けて建てられました。

北野天満宮>天神さんの七不思議>筋違いの本殿

大阪天満宮も同じような由来です。

奈良時代 白雉元年(650年)孝徳天皇様が難波長柄豊崎宮をお造りになりました頃、都の西北を守る神として大将軍社という神社をこの地にお祀りされました。
以来この地を大将軍の森と称し、又後には天神の森ともいわれ、現在も南森町北森町としてその名を残しております。
平安時代延喜元年(901年)当宮の御祭神である菅原道真公は太宰府へ向かう途中この大将軍社をお参りになり旅の無事を御祈願なされました。
その後道真公は、太宰府において、お亡くなりになり、その50年あまり後の天暦三年(949年)この大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたと申します。
これをお聞きになりました村上天皇様は、勅命によって、ここにお社をお建てになり、道真公のお御霊を厚くお祀りされました。

大阪天満宮>大阪天満宮について>大阪天満宮の創始(御鎮座)

大将軍社は大阪天満宮の摂社となり、天満宮境内の北西側に位置しています。大将軍社が北西に位置するように大阪天満宮が建てられたと言い換えるほうがおそらく適切なのでしょう。大将軍社の位置からすると、表参道は必ずしも黄色マーカーの表大門から南下する道である必要はなく、今の商店街でもいいわけです。

天神橋商店街が誇るべきなのは、長さではなくその歴史なのかもしれません。2015年3月撮影のストビューです。1丁目商店街のアーケードのないところですが、角にふくろうカフェがあり、その隣に軍鶏という屋号の焼き鳥店があり、その向かいには「若鶏の唐揚」と思われる幟がはためいています。

このふくろうカフェはコロナ禍の9月に閉店したようです。軍鶏さんも移転したのか別の店になっています。

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