2敗したのに甲子園に出場した1950年の松商学園

東信予選

夏の高校野球は1度負けたら終わりのトーナメントです。ということは、参加チームの約半数は1試合で夏が終わってしまうことになります。そこにある種の美しさを感じる向きもあるのでしょうが、最大3回負けても甲子園へのチャンスが与えられていたことがあります。

1950年第32回大会の長野県大会は、北信、中信、南信、東信の各地区を勝ち抜いた23チームで戦われています。11校参加の東信地区予選は5代表です。

(1)第1次代表2チームは6校トーナメントと5校トーナメントの勝者です。

第1代表

(2)第2次代表の2チームは負け残り9校を5校トーナメントと4校トーナメントに分けて2代表です。

第2代表

(3)第3次代表は最後の1枠です。2度負けた7校によるトーナメントの勝者が滑り込みます。

第3代表

松商学園は2敗で

まるで都市対抗予選のようなシステムはこの年限りで、翌1951年は「AB、CD、EF、GH、IJK」のトーナメントで5代表が決まっています。考えようによっては芸のない話かもしれません。

1950年東信地区予選における各校の成績は次のとおりです。

1次2次3次勝率代表
小諸実3-0301.001次
岩村田2-0201.001次
野沢北1-13-041.8002次
上田松尾0-12-021.6672次
丸子実1-10-13-042.6673次
上田千曲1-11-11-133.500敗退
軽井沢1-10-11-123.400敗退
蓼科0-11-11-123.400敗退
小県東部0-10-10-103.000敗退
望月0-10-10-103.000敗退
小県蚕0-10-10-103.000敗退
▲1950年長野県・東信予選

第3次代表の丸子実は2敗して県大会に出場しています。中信と南信も第3次代表決定戦まで実施していますので、中信では松本深志松商学園、南信では諏訪実辰野が第3次代表でした。

16チーム参加の北信地区では第1次トーナメントで代表4校、第2次トーナメントで代表2校を決めていますが、第1次の初戦敗退8チームに敗者復活の権利が与えられています。このため、1次2敗で2次代表になることは可能でした。実際には2次代表は2校とも1敗通過です。

3度負けても甲子園のチャンスがあった

長野県大会ベスト8進出チームはその後の信越大会に臨んでいます。つまり、県大会の決勝から準々決勝で負けた7チームが地区予選の第3次代表だった場合、最大で3回負けてもまだ甲子園出場のチャンスがあったわけです。

長野県大会を制したのは中信地区第3次代表の松商学園でした。10年ぶり9回目の全国大会です。もし、赤字の3試合のうちどれかで負けていたら、3回負けて甲子園出場だったもとになります。今となっては返す返すも残念?です。

中信1次14●5松本深志
中信2次14◯0木曽西
中信2次22●3松本県ヶ丘
中信3次112◯0木曽山林
中信3次26◯0桔梗ヶ原
中信3次7◯1松本県ヶ丘
長野県110◯1丸子実
長野県26◯4飯田長姫
長野県Q13◯5穂高
長野県S6◯1長野北
長野県F9◯2松本市立
信越113◯0長岡
信越S6◯4松本市立
信越F3◯1長野北
▲1950年の松商学園

このような予選スタイルはあっていいと私は考えていますし、むしろ本来は望ましいことだとさえ思いますが、もちろん最終的には当事者次第です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました