「富士に棲む魔物」をうp

旧「セットポジション」のコンテンツから「富士に棲む魔物」をうpしました。旧「セットポジション」からは月1本ぐらいのペースで復活させようと考えています。

「モータープールMAP」の展開が想像以上に面白いことから、「今まで行った球場リスト」のMAP化は当面は見送ります。モータープールの次という順番は変えません。

富士北麓球場の帰り、私は結果的に球場の周囲を一周しました。ネット裏の三塁側から出た私は南道路の県道716号線に入りたかったのです。西側の赤いマーカーのところに門がありましたが、ここは閉ざされていました。

南側に裏門はありませんでした。結局、青のマーカーのところから西道路に出て、南道路に回る羽目に陥りました。駅は北側にあり、南道路の需要は少ないわけで、この構造は致し方ありません。

この球場、ネット裏に座ると、まるまる富士山に抱え込まれます。陸上競技場のメインスタンドは西側にありますので、陸上競技場のメインスタンドではこの感覚は味わえないわけです。

私が行ったのは7月下旬でしたので、残雪はほぼ見えませんでした。5月の連休あたりなら農鳥も見られるようです。また、「標高は1,000mくらいだと思われます」と記述してきましたが、公式サイトによれば1,035mということです。

この日の帰りに私が歩いた距離は、球場一周を含めて7.5kmほどになるようです。帰りに歩いたということは富士山に背を向けていることになります。この場所から振り向いたとき、衝撃的な大きさだったことを覚えています。

ウラ優勝校まとめ

「高校野球ウラ優勝校MAP」が完成しましたので、集約しておきます。今年の夏は第99回大会でした。大会自体が中止になったのが2大会あります。ウラ優勝校が海外のチームとなるケースが5大会です。

正統なウラ優勝校は延べ78校で、巡ウラが15校(巡ウラの准ウラは除く)です。2+5+78+15=100となりますが、第5回大会ではウラ優勝校を2校認定しましたので、計算は合います。

このほか、准ウラが30校、巡ウラの准ウラが2校でしたので、100-(2+5)+(30+2)で延べ125校を「ウラ優勝校」としてMAPに反映させました。重複が次のように3例ありますので、実数としては122校になります。

  1. 1932年第18回大会の旧制・水口中は巡ウラであり、准ウラでもあります。MAP上では准ウラに含めています。
  2. 宮城の東北学院は1922年第8回大会でウラ、1935年の第21回大会では巡ウラです。複数回制覇ということで、MAP上では赤マーカーを用いました。
  3. 鳥取県の青谷高校は1980年の第62回大会と2000年の第82回大会で正統なV2を果たしています。もちろん赤マーカーとしました。

地域別では四国がもっとも少なく、ウラ優勝校空白県は和歌山と高知です。隣接する奈良と徳島も1校だけです。MAP上でも四国の南東部から紀伊半島にかけての空白が目立ちます。

岩手と秋田の計4校が北部に集中したため、両県の中南部も空白地帯です。南四国や紀伊半島もそうですが、もともと人口の多い地域ではありませんので、総体としてはバランスよく分布していると言えそうです。

「准ウラ」の概念を持ち込んだため、「夏といえば」さんの「逆トーナメント」のページとは一線を画すことになりましたが、これは「セットポジション」時代から密かに気にしていたことです。

今回のウラ優勝校MAPで面白かったのは、やはり跡地探しでした。深入りしたくてウズウズしています。着手するとしても来年になるでしょうが、新制高校に限定して廃校MAPを作成することになるかもしれません。

限定したとしても全国では1000校超になるでしょうから、MAPは8分割ぐらいが妥当だと思われます。なお、今回のウラ優勝校MAPでは、高校野球の地区割りに従い、山梨は関東、三重は東海で処理しています。

正体不明・金沢市商のナゾ

1946年の第28回大会は太平洋戦争後最初の大会です。

  • 浪華商2-0京都二中5-3下関商2-0松江中11-8敦賀商
  • (北陸大会)敦賀商8-5富山商8-7金沢二中
  • (石川予選)《金沢三中21-7金沢二中》21-6石川工16-9金沢市商

現・金沢商は1900年に「金沢市立商業学校」として開校していますが、1907年には県立に移管しており、1923年第9回大会で甲子園初出場を果たしたときは「石川県立金沢商業学校」の名称です。

その後も名称変更はありますが、県立校であることに変わりはありません。したがって、1946年の巡ウラ優勝校「金沢市商」は現在の金沢商ではありません。

現・金沢市工は1944年に「金沢市立工業学校」から「金沢市立第一工業学校」に名称変更しています。学制改革の1948年、「金沢市立第一工業学校」は「金沢市立第二工業学校」を吸収して「金沢市立工業高等学校」になっています。

おそらく「市立第二工業」は1944年にできたのでしょう。終戦を挟んで4年間だけ存在した「市立第二工業」こそ1946年の巡ウラ優勝校「金沢市商」ではないか、と踏んで検索してみました。

金沢市図書館のWebサイトに「市史年表 金沢の百年 大正編」と題する壮大なページが見つかりました。関係しそうな項目だけピックアップします。

1927年12月26日 明春4月開校する金沢市立工業学校の設立認可指令が文部省から出た。仮校舎は新竪町小学校の不要校舎(49坪)を小将町小学校庭に移転して使用する。学科は土木建築科と機械電気科とし、5年後の生徒定員は全学年10学級400人と専修科2学級60人。

1930年9月1日 金沢市立工業学校は小将町の仮校舎から泉野の新校舎に移転、授業を開始した。

1933年2月28日 2年制の金沢市立商業高校の創立が市会で可決された。校舎に長田町小学校の一部をあて、募集人員は200人。

1934年7月29日 金沢野球協会が市立工業学校野球場に建設中のスタンドが完成、記念野球大会がおこなわれた。スタンド観覧席の収容人員は2,000人で北陸最大のもの。

1935年5月25日 泉野町の金沢市立工業学校は、全校舎が完成したので校舎落成式を盛大に挙行した。

1937年4月1日 金沢市立商業学校は新学年から修業年限2年制を3年制に改めた。

1943年12月3日 明年4月実施する県下商業学校の戦時転換が県で決定した。県立金沢商業は存置、金沢市立商業は金沢市立第二工業学校として機械、金属工業の2科を設置、小松商業は農業学校に、七尾商業は七尾工業学校に転換する。また県立工業は図案科を廃止し科名を改称する。

1948年4月1日 新制高等学校が開校した。金沢市内の県、市立高校は6校。県立金沢一高(校舎は一中)、県立金沢二高(校舎は県一女と三中校舎の一部)、県立金沢三高(校舎は県二女)、県立工芸高校(校舎は県工)、県立金沢商業高校(校舎は金商)、市立金沢工業高校(校舎は市一工)。

1948年4月25日 金沢ではじめての職業野球公式試合・太陽ロビンス対急映フライヤーズ戦が、兼六園球場で開催された。

1933年創立の金沢市商が1944年に金沢二工となり、1948年に現・金沢市工と統合されたという流れのようです。1946年当時は「金沢市立第二工業学校」が正しいのでしょう。

この年表では、創立時の名称が「~高校」になっています。本当に旧制中等学校(実業学校)ではなく旧制高等学校に相当するのか、それとも単なる誤記なのかはわかりません。

また、1946年時点の所在地も判然としません。MAPでは暫定措置(永遠の暫定?)で現・長田町小学校にマーカーを置きました。

埋め込んだのは2015年6月撮影のストリートビューです。小学校の裏門を出ると、すぐに歩道橋です。さすがに校内直結にはできないでしょうが、狭い道ですから門柱が邪魔かもしれません。

15年連続初戦敗退で廃部?

1953年第35回大会の「巡」ウラ優勝校は長野県佐久市の望月高校です。

  • 松山商3-2土佐6-0中京商2-0宇都宮工6-4鳥取西4-1松商学園
  • (信越大会)松商学園3-0新潟南1-0小諸実
  • (長野予選)《松本市立5-3小諸実》5-2屋代東1-0赤穂2-0上田松尾
  • (東信地区)上田松尾10-3望月

望月高校は1996年に1勝したのを最後に15年連続初戦敗退しています。しかも、この15年連続初戦敗退は2003年を唯一の例外として、すべてコールド点差という徹底ぶりです。2012年からは予選に参加していません。最後の5年間では115失点です。

  • 1997年 望月0-8富士見
  • 1998年 望月0-14下諏訪向陽
  • 1999年 望月2-15塚原青雲
  • 2000年 望月2-17中野
  • 2001年 望月3-13阿智
  • 2002年 望月0-18松川
  • 2003年 望月2-6須坂商
  • 2004年 望月2-12須坂東
  • 2005年 望月2-12飯田長姫
  • 2006年 望月4-12北部
  • 2007年 望月0-19松本深志
  • 2008年 望月0-47長野西
  • 2009年 望月2-36辰野
  • 2010年 望月0-13赤穂
  • 2011年 望月0-10須坂園芸

こういうチームは部員不足というのが相場です。同校Webサイトによれば2017年度の新入生は50人だったようです。共学校で1学年50人では野球どころの話ではないでしょう。

同校の募集定員は1993年に180名から160名に、1996年には120名に、2005年には80名に減少しています。尋常な減り方ではありません。長野県教育委員会のWebサイトで今春の受検者数を調べてみました。

前期試験↑は40名の募集定員に対して受検者が18人、後期試験↓は67名の定員に対して34人しか受検していません。

一般的に公立高校は1学年3学級なら統合対象になるはずです。望月の場合は2学級分の定員しかなく、その定員を6割しか埋められていないのが現状のようです。Wikipediaの「長野県望月高等学校」のページには次のような記述があります。

2006年9月15日 – 長野県蓼科高等学校との統合案を県議会が否決。

田中康夫知事の退任は2006年8月ですから、政争に巻き込まれたというわけではないようです。赤のマーカーが望月高校、青のマーカーが蓼科高校です。直線距離では5kmであり、いたって妥当な統合案のように思えます。

望月宿は旧・中山道六十九次の25番目の宿場です。2012年6月のストリートビューを埋め込みました。

「巡ウラ」の「准ウラ」

新制高校スタートの1948年第30回大会と翌1949年第31回大会では、ともに巡ウラ優勝校が西九州であり、しかも「巡ウラ」の「准ウラ」が成立しています。一般的にはウラのウラはオモテですが、「巡ウラ」の「准ウラ」はウラです。

1948年の「巡ウラ」は北松高校です。北松高校は1955年に北松農業高校に改称しています。

  • 小倉1-0桐蔭1-0西京商5-0享栄商11-0鹿島一
  • (西九州大会)鹿島一11-5佐賀一7-2武雄7-0海星
  • (長崎予選)《諫早4-2海星》4-1長崎工
  • (大村地区)長崎工-大村-北松

この年の長崎予選は6校のトーナメントです。長崎工は1回戦不戦勝であり、海星は1回戦で島原に勝っています。したがって、「准ウラ」の成立要件を満たします。

  • 小倉1-0桐蔭1-0西京商5-0享栄商11-0鹿島一
  • (西九州大会)鹿島一11-5佐賀一7-2武雄7-0海星
  • (長崎予選)《諫早4-2海星》13-0島原
  • (島原地区)島原7-4島原商、島原6-1島原商

地区代表決定戦では島原と島原商が2試合戦っており、島原の連勝でした。島原商が予選に参加したのはこの年だけで、サッカーの強豪校として台頭するのは1970年代のことです。

1949年の「巡ウラ」は有田工です。

  • 湘南5-3岐阜5-2倉敷工7-6小倉北15-4長崎東
  • (西九州大会)長崎東5-1鹿本3-1佐世保北5-1佐賀
  • (佐賀予選)《龍谷5-0佐賀》佐賀8-0鹿島5-0有田工

有田工は1956年に現在の校地に移転しています。同校Webサイト「学校沿革」には次のように記載されています。

1902年(明治35) 5月 有田町泉山に、同町白川より新校舎移転
1956年(昭和31) 4月 有田町中部桑古場に泉山より新校舎移転完了

所在地の詳細はわかりませんが、移転が1950年代なら形跡が残っていても不思議ではありません。Google Mapを航空写真に切り替えてみると、おそらくここだったのだろうという場所があります。

赤いラインの北側が「泉山」です。右上の県道233号線沿いの区画は学校用地の雰囲気が漂います。小規模な高校ならこんなものです。決めつけても大怪我はしないと思われます。

有田工は佐賀予選1回戦が不戦勝でした。有田工を退けた鹿島は1回戦で佐賀工に勝っています。つまり、佐賀工は「准ウラ」優勝校となります。

  • 湘南5-3岐阜5-2倉敷工7-6小倉北15-4長崎東
  • (西九州大会)長崎東5-1鹿本3-1佐世保北5-1佐賀
  • (佐賀予選)《龍谷5-0佐賀》佐賀8-0鹿島11-8佐賀工

有田工と佐賀工はいわば兄弟校の関係にあります。1900年、金工科と木工科の佐賀県工業学校に窯業科の有田分校が設置されます。有田分校は1903年に佐賀県立有田工業学校として分離独立しています。

埋め込んだストリートビューは陶器製の鳥居で有名な陶山(すえやま)神社です。す。もちろん有田町にあります。

ローカルガイドさんによる2017年4月撮影のものです。360度パノラマカメラは今では2~3万で購入できますが、三脚が必要なうえに自分が写り込まないようにしなければならず、素人にはハードルが高そうです。

長虹の如く対岸藤原に架せり

1939年第25回大会の「巡」ウラ優勝校は宮古水産です。

  • 海草中5-0下関商3-2長野商3-2早稲田実10-5青森中
  • (奥羽大会)青森中8-7盛岡中7-2青森師範3-1花巻中
  • (岩手予選)《盛岡中8-7花巻中》11-9宮古水産

この年の奥羽大会は岩手開催だったようです。岩手4校、青森・秋田各2校でトーナメントが行われています。もし宮古水産が花巻中に勝っていれば、岩手ベスト4で奥羽大会進出でした。

宮古水産高校のWebサイト「学校の歴史」のページには次のように記載されています。

明治34年4月1日 県立水産学校開設、甲種実業学校として発足。
昭和18年9月 宮古市大字磯鶏第12地割仏沢163番地に校舎新築移転。

昭和18年は1943年です。移転前の所在地は記されていません。「宮古水産 大正」で検索してみたところ、国立国会図書館のデジタルコレクションのページがヒットしました。大正2年出版の「岩手県案内」です(原文は旧字で漢数字)。

向町埠頭より左折して閉伊川の岸に出づれば、長さ573尺の新晴橋、長虹の如く対岸藤原に架せり。藤原には県立水産学校及び水産試験場ありて

向町は宮古市役所近くの町域名です。閉伊川(へいがわ)の対岸には、たしかに藤原という町域があります。さらに検索を続けてみると、「宮古大年表」という心強いページが見つかりました。

■1895年(明治28)
4月17日、日清講和条約が締結され、日清戦争終わる
10月15日、水産補習学校が愛宕の宮古・鍬ヶ崎両組合立高等小学校内に附設・創設される。 *岩手県立水産学校・県立宮古水産高等学校の前身。のち藤原上に移転。藤原上は、いまの藤原1丁目。2丁目は藤原中、3丁目は藤原下にあたる。1943年(昭和18)磯鶏に移転。

痒いところに手が届くとはこのことです。「宮古onWeb」という個人サイトでした。公式サイトが切り捨てたことをフォローしてこその個人サイトです。1939年当時の「県立水産学校」は今の宮古市藤原1丁目にあったわけです。

これ以上は絞り込めませんでしたが、まあ上出来です。埋め込んだのは2015年7月撮影のストリートビューです。外見的には普通の民家ですが、ここは「宮古市公害試験室」だそうです。藤原1丁目です。

津波の浸水ラインを示す看板が取り付けられています。宮古市役所Webサイトには「宮古市の被害状況」がまとめられています。藤原地区は河南地域に属しますが、浸水深を示すメッシュは5m未満の水色です。

沿岸部ながら壊滅的な事態だけは避けられたようです。震災半年後の2011年10月のストビューでも比較的穏やかな風景です。月山の半島が天然の防潮堤となり、宮古市北部の田老(たろう)地区のような直撃を受けずに済んでいます。

宮古湾の奥でも10m超の浸水が記録されていますが、閉伊川を遡上した津波はそれほどでもなかったようです。誰もが目にしたことがあるはずの宮古市役所5階から撮影した映像です。

川の対岸が藤原地区、正面に見える山が月山(がっさん、別称は御殿山)になります。市役所付近の浸水深も5m未満です。黒い濁流とともに流された白のワンボックスが堤防を越えてくるこの映像は、この日の津波としてはヌルい部類だったことになります。

オモテのVから8年後のウラ制覇

1928年第14回大会のオモテの優勝は松本商(現・松商学園)です。主戦投手は中島治康だったようです。松本商は1936年第22回大会では、一転して「巡」ウラ優勝校になっています。

  • 岐阜商9-1平安中6-5桐生中3-1京阪商5-4静岡商27-4長野商
  • (信越大会)長野商4-0新潟商4-3丸子農商
  • (長野予選)《長野商10-7丸子農商》6-1上田中10-4飯田商10-7松本商

飯田商(現・飯田長姫)は前年の代表校ですから、番狂わせということでもないようです。たまたま予選1回戦がゴールデンカードになっただけなのかもしれません。

2年後の1938年にも両者は1回戦で対戦して松本商が代表になっています。松本商が夏の予選で飯田商に負けたのは1936年の1回だけです。

  • 1934年長野予選2回戦 松本商15-4飯田商
  • 1936年長野予選1回戦 飯田商10-7松本商
  • 1938年長野予選1回戦 松本商19-3飯田商
  • 1939年長野予選2回戦 松本商8-4飯田商
  • 1950年長野予選2回戦 松商学園6-4飯田長姫
  • 1951年信越大会決勝 松商学園1-0飯田長姫
  • 1958年長野大会2回戦 松商学園4-0飯田長姫
  • 1981年地区代表決定戦 松商学園14-0飯田長姫
  • 2000年長野大会3回戦 松商学園10-3飯田長姫

さて、松商学園高校のWebサイトには「昭和11年 松本市大字筑摩県町に校舎新築、11月移転式挙行」との記述があります。昭和11年とはまさしく1936年です。MAPに反映させるためには、移転の時期が問題になります。

Wikipedia「松商学園高等学校」のページの記載(2017/09/22現在)も微妙です。

1913年6月 – 埋橋に校舎を新築し移転。
1936年2月 – 松本市大字筑摩県町(県3丁目)に校舎を新築。

この「新築」が竣工の意味なら、4月から移転しているものと思われます。そう考えるのが自然です。11月は式典だけだったのでしょう。4月の新年度で移転して、式典が半年後というのはこの業界ではありがちなことのようです。

というわけで、MAPには現在の校地で反映させました。旧・松本商の所在地だった町域名としての「埋橋(うずはし)」は、松本城の南東になります。

ストリートビューは2010年11月撮影の松本城西側の内堀に架かる「埋橋」です。

校門の先はクスノキの並木

1930年第16回の「巡ウラ」優勝校は千葉の茂原農です。

  • 広島商8-2諏訪蚕糸3-0平安中15-0東北中3-2水戸中
  • (東関東大会)水戸中7-4茨城工22-8千葉師範
  • (千葉予選)《千葉中13-6千葉師範》15-1成東中21-3茂原農

2006年4月、茂原農は茂原工との統合で茂原樟陽(もばらしょうよう)高校になっています。旧・茂原農の校地と校舎が統合後の茂原樟陽に引き継がれているようです。

Wikipediaの「茂原樟陽」のページには、旧・茂原工の校地は工業校舎として使用されているかのような記載もあります(2017/09/19現在)。公式サイトを覗いてみた限り、旧・茂原工の校舎が今も使われている形跡はありません。

統合当初の数年間は旧・茂原農が本校舎、旧・茂原工は工業校舎という形で運用されていたのかもしれません。新校名「樟陽」のうち「樟」は、校門を入ったところにあるクスノキの並木に由来するものと思われます。

「姓名分布&ランキング 写録宝夢巣」さんによれば、「楠」姓は全国で864位、「楠木」姓は2734位だそうです。一般的にはクスノキは「楠」と書きますが、どうやらクスノキに「樟」、タブノキに「楠」を当てるのが正解のようです。

クスノキは西日本に多く分布しており、兵庫、佐賀、熊本、鹿児島の4県で「県の木」とされています。上記姓名ランキングでも、「楠木」姓や「楠」姓はやはり西日本に多い苗字です。

京都大学の正門から入った真正面の木がクスノキです。ストリートビューには雪景色の時計台前クスノキがありました。2015年1月撮影のものです。

もう1つ、ストビュー(2013年3月撮影)を埋め込んでおきます。鹿児島県姶良市の蒲生八幡神社境内にある「蒲生のクス」です。根元に木製の格子扉が見えますが、中には8畳分の空洞があるそうです。

樹齢1500年と言われるのは、1123年の神社創建時にすでに存在していたとされているからでしょうが、日本では自生しない(異説あり)というクスノキですから、誰かが植林したことになるわけです。

福岡農跡地は沖学園が継承

敗者復活戦が行なわれた1916年第2回大会の「巡ウラ」優勝校を辿ってみます。予選は九州大会の名称になっていたようですが、参加した10校はすべて福岡勢です。

  • 慶応普通部6-2市岡中5-4鳥取中9-6中学明善《広島商19-4中学明善》
  • (九州大会)中学明善9-2福岡工13-1福岡商25-0福岡農

福岡県立福岡農業高校のWebサイト「学校沿革」によれば、1916年当時の福岡県立福岡農学校は福岡市博多区竹下(当時の筑紫郡那珂村)に校舎があったようです。博多区竹下をGoogle Mapで開いてみました。

沖学園が怪しそうです。沖学園は1958年に博多商業高校として開校しています。福岡農が福岡市南区塩原に移転したのも1958年です。福岡農の校地は沖学園に払い下げられたものと思われます。

福岡県立博物館のWebサイトで公開されている1934年発行の「最新福岡市街及郊外地図」にアサヒビールの工場に隣接して「農学校」があります。確定です。

埋め込んだストリートビューは2014年1月撮影の沖学園です。脇の道路は「竹下通り」という通称のようです。

さて、福岡農は初参戦の1916年第2回から1954年第36回まで7回挑んで7連敗、1976年第58回以降は連続出場しており、初勝利は1977年第59回です。

1979年から1995年まで17年連続初戦敗退ですが、この間に沖学園と2度対戦しています。1987年は1対21、1993年は1対25という派手な最終スコアです。

野球部は弱小チームでも、福岡農は1948年2月の全国中等学校対抗駅伝で優勝しており、学制改革を経た翌1949年の高校対抗駅伝でもV2を果たしています。

今の「全国高等学校駅伝競走大会」は1950年が第1回です。1953年と翌1954年の第4回と第5回の優勝チームは、当時「福岡県立筑紫野高校」と称していた福岡農です。ただし、今の福岡農には陸上部あるいは駅伝部はないものと思われます。

純粋な農業科は全国規模でもすでに絶滅危惧種であり、今の福岡農に設置されているのは都市園芸科、環境活用科、食品科学科、生活デザイン科です。「土を耕し 心を耕し 未来を耕す」の校訓が色褪せないことを希望します。

南海学園とは

高校野球の選手権大会は今年が第99回でしたが、大会そのものが中止になったのが2大会あります。戦前の5大会は海外のチームにウラ優勝校の権利が発生していますが、私はこれを深追いするつもりはありません。

日本の占領下で日本語による日本式の教育が施されていたわけです。不用意に触れると、外国語のリアクションを頂く可能性があります。私にはそれに対処する能力がありません。

これらの教育機関がどう引き継がれたのか、現在の所在地がわかっても当時の所在地と一致するかどうか確認できません。台湾と韓国はまだしも、中国と北朝鮮に関してはストリートビューもごく限られています。

というわけで、外地を辿るしかない1925年第11回大会、1927年第13回大会、1929年第15回大会、1931年第17回大会、1937年第23回大会の計5大会はスルーするものとします。

また、私の基準でウラ優勝校「不成立」としたのが計15大会あります。この15大会については、ウラ優勝校を辿れないわけではありません。私はイミテーションだと思っていますが、もともとがウラ優勝校を決めるための大会ではないわけです。

一定のルール下で混在してしまう不純物は受け入れざるを得ないのではないかという思いに今は傾いています。そこで、これらの15大会については、「巡」ウラ優勝校として、次回以降ピックアップしていきます。

さて、台北一中は現在の「台北市立建国高級中学」に継承されているようです。「台北市立建国高級中学」の校舎は1908年築とされています。1920年代の台北一中とイコールと考えてよさそうです。

「台北市立建国高級中学」をストリートビューで訪ねてみました。埋め込んだストビューは2017年4月撮影のもので、「台北市立建国高級中学」の向かい側にある「南海学園」です。

これも学校なのかと思いきや、どうやら植物園や博物館や劇場といった付近一帯の文教施設の総称のようです。なるほど、植物園は文字どおりの「学園」です。「学園」で学校を想像してしまうのは日本人だけなのかもしれません。

高野連公式サイトの出場校一覧のページで、「学園」を含む学校名が初めて登場するのは1948年の浅野学園です。現在では単に「浅野高等学校」ですが、当時は「浅野学園高等学校」だったようです。

今年で100周年を迎えたらしい成城学園Webサイト「学園の歴史」のページには次のような記述があります。

1926(大正15)年には旧制7年制の成城高等学校が創られ、第二中学校はその尋常科(4年制)に組み込まれました。翌1927(昭和2)年には5年制の成城高等女学校を開設し、総合学園としての形が整います。この年、財団法人成城学園の設立が許可されました

戦前は学校法人の制度がありませんので財団法人としたのでしょう。成城が「学園」の草分けかどうかはまだわかりませんが、1927年ならかなり古い部類に入るはずです。