出場1回、無安打無得点
青森県立木造(きづくり)高校の名前を特定の年代のある層はしっかりと覚えているはずです。1982年の夏の甲子園に初出場した木造は9回二死まで1人の走者も出せずに完全試合がもう目前でした。
佐賀商の新谷は27人目の打者(代打)に死球を与えて大会史上初となる完全試合を逃します。大塚範一アナが実況を担当していた試合です。
夏の甲子園は1978年から1県1代表となりました。1974年から1982年の代表決定戦となる予選決勝はこんな感じです。
代表 | 決勝敗退 | 木造高校 | ||
1974 | 奥羽 | 秋田市立 | 弘前実 | 県3回戦敗退(青森) |
1975 | 奥羽 | 秋田商 | 大曲農 | 県2回戦敗退(野辺地工) |
1976 | 奥羽 | 秋田商 | 秋田 | 県2回戦敗退(光星学院) |
1977 | 奥羽 | 能代 | 秋田商 | 県2回戦敗退(八戸西) |
1978 | 青森 | 青森北 | 八戸西 | 県2回戦敗退(三沢) |
1979 | 青森 | 弘前実 | 八戸西 | 県3回戦敗退(弘前実) |
1980 | 青森 | 弘前工 | 青森山田 | 県3回戦敗退(青森商) |
1981 | 青森 | 東奥義塾 | 八戸 | 準々決勝敗退(八戸) |
1982 | 青森 | 木造 | 青森山田 | 代表 |
この当時の奥羽大会は青森と秋田から2校ずつ出場します。1回戦は必ず青森対秋田の対戦です。1974年から1977年の4年間、青森対秋田の対戦は青森の1勝8敗でした。1県1代表制となったことで、格段に甲子園が身近になったわけです。
当時、青森の高校サッカーは五戸高校がリードしていた時代です。1993年に青森山田がサッカーと野球で初出場しています。光星学院はサッカーが1987年、野球は1997年が初出場となります。
女子マラソン・小島和恵は高2
女子マラソンの日本記録が2時間30分を切ったのは1988年です。それ以降の日本最高記録は次のように更新されています。
1988年1月 | 2時間29分37秒 | 宮原美佐子 | 大阪 |
1989年4月 | 2時間29分23秒 | 小島和恵 | パリ |
1991年1月 | 2時間28分01秒 | 有森裕子 | 大阪 |
1992年1月 | 2時間26分26秒 | 小鴨由水 | 大阪 |
1994年1月 | 2時間26分09秒 | 安部友恵 | 大阪 |
1994年4月 | 2時間25分52秒 | 朝比奈三代子 | ロッテルダム |
1998年3月 | 2時間25分48秒 | 高橋尚子 | 名古屋 |
1998年12月 | 2時間21分47秒 | 高橋尚子 | バンコク |
2001年9月 | 2時間19分46秒 | 高橋尚子 | ベルリン |
2004年9月 | 2時間19分41秒 | 渋井陽子 | ベルリン |
2005年9月 | 2時間19分12秒 | 野口みずき | ベルリン |
小島和恵が木造高校から川鉄千葉に入ったのは1984年です。つまり、1982年8月は高校2年生だったことになります。
舞の海は中3だった
1991年の大相撲秋場所で入幕を果たした舞の海は8勝7敗で勝ち越し、いきなり技能賞を受賞しています。舞の海が木造高校から日大に進学したのは1986年です。ということは、1982年8月の舞の海は中学3年生だったわけです。
1960.7生 | 旭富士 | 木造中 | 五所川原商高 |
1968.2生 | 舞の海 | 鰺ヶ沢一中 | 木造高 |
1973.4生 | 海鵬 | 大戸瀬中 | 鰺ヶ沢高 |
1978.10生 | 安美錦 | 大戸瀬中 | 鰺ヶ沢高 |
鰺ヶ沢町舞戸町出身で鰺ヶ沢一中に在籍していた舞の海が五能線で通うことになる木造高校を選んだのは、顧問の先生の勧誘によるものだそうです。
なお、あの深浦高校は2007年に木造高校の分校になっています。なぜ鰺ヶ沢高校ではなく木造高校の分校なのかはわかりませんでした。
コメント