メガネには見えない小田原城の「めがね橋」

1948年第30回大会の准ウラ優勝校

1948年第30回大会は学制改後の新制高校による最初の大会です。優勝は小倉ですが、ウラ優勝校を辿ると鹿島一が2回戦で享栄商に負けています。鹿島一は2回戦が初戦でしたが、享栄商は1回戦で浅野高校にサヨナラ勝ちしています。

鹿島一ルートが本線なら、浅野ルートは支線です。このサイトでは浅野ルートの辿り着く先を准ウラ優勝校と呼んでいます。小田原商は1948年第30回大会の准ウラ優勝校です。

全国・F小倉1-0桐蔭
全国・S桐蔭1-0西京商
全国・Q西京商5-0享栄商
全国・2享栄商11-0鹿島一
全国・1享栄商2-1浅野
神奈川・F浅野3-1逗子開成
神奈川・S逗子開成6-4県川崎
神奈川・Q県川崎2-0横浜商
神奈川・4横浜商10-2横須賀工
神奈川・3横須賀工9-3横浜一
神奈川・2横浜一18-8小田原商
▲1948年第30回の准ウラ優勝が小田原商

私のミッションは、准ウラ優勝校がどこかを調べるだけでなく、それをMAPに反映することです。1948年当時の小田原商はどこにあったのでしょうか。Wikipedia「神奈川県立小田原城東高等学校」などを頼りに関連年表を作ってみました。

1927/5/25私立小田原商業学校(夜間)として小田原市幸町1に創立
1946/8/31小田原市立商業学校と改称
1948/7/18校舎を小田原市東町4-12-1に移転
1951/3/10神奈川県立小田原商業高等学校と改称
1951/4/01県立小田原商と県立小田原女子高が統合され、県立小田原城東高校に
2008/4/01県立小田原城東と県立湯河原高が統合され、県立小田原総合ビジネス高に
2017/4/01県立小田原総合ビジネス高が県立小田原東高に改称
▲小田原商関連年表

1948年当時の小田原商は市立だったようです。夏休み前に校舎移転していますので、予選を戦ったときは幸町の校舎だった可能性が高そうです。

とても眼鏡には見えない「めがね橋」

小田原市幸町は消滅地名ですが、バス停などにその痕跡を残しています。ネット上で公開されている古地図に「商業高校」の名前がありました。旧校地は小田原城馬出門から「めがね橋」を渡ったところ(横浜地検小田原支部の南側にある駐車場)です。

小田原城の正規登城ルート
小田原城(地理院タイルを加工)

青マーカーが「めがね橋」、ピンクの線は正規の登城ルートです。どうしても不思議なのは、なぜアーチが1つのこの形状で「めがね橋」の名前になったのかということです。2022年12月撮影のストビューです。

「めがね橋」と言うけれど

小田原城の「めがね橋」に関して、メガネをイメージできる画像を私は見たことがありません。アルセーヌ・ルパンがつけているような片眼鏡を想像すればいいのでしょうか。モノクルとも呼ばれる片眼鏡は視力矯正器具というより装飾品です。日本で流行した時期があったという話を私は知りません。

小田原城の「めがね橋」はあくまでも俗称であり、小田原城址公園のマップでは「馬出門橋」です。

2連アーチでなくてもいいらしい

4連アーチの碓氷第三橋梁にも「めがね橋」の俗称があるようです。1963年まで鉄道橋として使われた煉瓦橋です。

碓氷第三橋梁

単アーチの小田原城より「めがね橋」を受け入れる余地はあるのかもしれませんが、川面のシルエットとワンセットで眼鏡のように見えるものが「眼鏡橋」だというのが私の理解です。碓氷第三橋梁は川底からの高さが31mあるため、メガネ要素は薄そうです。

眼鏡橋(めがねばし)は、橋の種類のひとつ。本来はアーチが2つ連なった石造2連アーチ橋を指す。2連アーチ橋自体と水面に映る橋とが合わさった姿が眼鏡のように見えることが、その名の由来といわれている。広義では、単アーチ橋や3連以上のアーチ橋も含めた石造アーチ橋全般を眼鏡橋と呼ぶ。

Wikipedia>眼鏡橋(2023/03/13閲覧)

文末の「呼ぶ」を「呼ばれることもある」と編集したい誘惑に駆られます。

さて、予選の日取りまで確認するつもりはありませんので、全国大会開催時の校地ということで、MAP上では小田原東高校にマーカーを置いてあります。

小田原東高校(地理院タイルを加工)

東京方面から見れば国道1号線の酒匂川を渡ったところですので、箱根駅伝コースの沿道ということになります。

【外部リンク】
ぼくの近代建築コレクション

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