1948年第30回大会
新制高校スタートの1948年第30回大会と翌1949年第31回大会では、ともに巡ウラ優勝校が西九州であり、しかも「巡ウラ」の「准ウラ」が成立しています。一般的にはウラのウラはオモテですが、「巡ウラ」の「准ウラ」はあくまでもウラです。
1948年の「巡ウラ」は北松高校です。北松高校は1955年に北松農業高校に改称しています。当時の西九州大会は熊本、長崎、佐賀の3県による8校トーナメント(開催県4校)です。
全国・F | 小倉 | 1-0 | 桐蔭 |
全国・S | 桐蔭 | 1-0 | 西京商 |
全国・Q | 西京商 | 5-0 | 享栄商 |
全国・1 | 享栄商 | 11-0 | 鹿島一 |
西九州・F | 鹿島一 | 11-5 | 佐賀一 |
西九州・S | 佐賀一 | 1-5 | 武雄 |
西九州・Q | 武雄 | 7-0 | 海星 |
長崎・F | 諫早 | 4-2 | 海星 |
長崎・S | 海星 | 4-1 | 長崎工 |
大村地区・F | 長崎工 | ? | 大村 |
大村地区・S | 大村 | ? | 北松 |
この年の長崎予選は6校のトーナメントです。長崎工は1回戦不戦勝であり、海星は1回戦で島原に勝っています。したがって、「准ウラ」の成立要件を満たします。
長崎・F | 諫早 | 4-2 | 海星 |
長崎・S | 海星 | 4-1 | 長崎工 |
長崎・1 | 海星 | 13-0 | 島原 |
島原地区 | 島原 | 7-4 | 島原商 |
島原地区 | 島原 | 6-1 | 島原商 |
地区代表決定戦では島原と島原商が2試合戦っており、島原の連勝でした。島原商が予選に参加したのはこの年だけで、サッカーの強豪校として台頭するのは1970年代のことです。
第30回は巡ウラが北松、巡ウラの准ウラが島原商、准ウラが小田原商です。
1949年第31回大会
1949年の「巡ウラ」は有田工です。
全国・F | 湘南 | 5-3 | 岐阜 |
全国・S | 岐阜 | 5-2 | 倉敷工 |
全国・Q | 倉敷工 | 7-6 | 小倉北 |
全国・1 | 小倉北 | 15-4 | 長崎東 |
西九州・F | 長崎東 | 5-1 | 鹿本 |
西九州・S | 鹿本 | 3-1 | 佐世保北 |
西九州・Q | 佐世保北 | 5-1 | 佐賀 |
佐賀・F | 龍谷 | 5-0 | 佐賀 |
佐賀・S | 佐賀 | 8-0 | 鹿島 |
佐賀・Q | 鹿島 | 5-0 | 有田工 |
佐賀・1 | 鹿島 | 11-8 | 佐賀工 |
有田工は1956年に現在の校地に移転しています。同校Webサイト「学校沿革」には次のように記載されています。
1902年(明治35) 5月 有田町泉山に、同町白川より新校舎移転
佐賀県立有田工業学校>学校沿革
1956年(昭和31) 4月 有田町中部桑古場に泉山より新校舎移転完了
所在地の詳細はわかりませんが、移転が1950年代なら形跡が残っていても不思議ではありません。Google Mapを航空写真に切り替えてみると、おそらくここだったのだろうという場所があります。
赤いラインの北側が「泉山」です。右上の県道233号線沿いの区画は学校用地の雰囲気が漂います。小規模な高校ならこんなものです。決めつけても大怪我はしないと思われます。
有田工は佐賀予選1回戦が不戦勝でした。有田工を退けた鹿島は1回戦で佐賀工に勝っています。つまり、佐賀工は「准ウラ」優勝校となります。
有田工と佐賀工はいわば兄弟校の関係にあります。1900年、金工科と木工科の佐賀県工業学校に窯業科の有田分校が設置されます。有田分校は1903年に佐賀県立有田工業学校として分離独立しています。
第31回は巡ウラが有田工、巡ウラの准ウラが佐賀工、准ウラが江戸川、准ウラの准ウラが昭和ニです。
コメント