長虹(ちょうこう)の如く対岸藤原に架せり

1939年の「巡」ウラ優勝校・宮古水産

1939年第25回大会の「巡」ウラ優勝校が宮古水産です。

全国・F海草中5-0下関商
全国・S下関商3-2長野商
全国・Q長野商3-2早稲田実
全国・2早稲田実3-4青森中
奥羽・F青森中8-7盛岡中
奥羽・S盛岡中7-2青森師範
奥羽・Q青森師範3-1花巻中
青森・S盛岡中8-7花巻中
青森・Q花巻中11-9宮古水産
▲1939年第25回大会

この年の奥羽大会は岩手開催だったようです。岩手4校、青森・秋田各2校でトーナメントが行われています。このため、きれいな形では繋がりませんが、もし宮古水産が花巻中に勝っていれば岩手ベスト4で奥羽大会進出でした。

宮古水産高校のWebサイト「学校の歴史」のページには次のように記載されています。

明治34年4月1日 県立水産学校開設、甲種実業学校として発足。
昭和18年9月 宮古市大字磯鶏第12地割仏沢163番地に校舎新築移転。

宮古水産高等学校>学校の歴史

昭和18年は1943年です。移転前の所在地は記されていません。私が知りたいのは1939年当時の所在地なのです。

移転前の所在地は?

「宮古水産 大正」で検索してみたところ、国立国会図書館のデジタルコレクションのページがヒットしました。大正2年出版の「岩手県案内」です(原文は旧字で漢数字)。

向町埠頭より左折して閉伊川の岸に出づれば、長さ573尺の新晴橋、長虹の如く対岸藤原に架せり。藤原には県立水産学校及び水産試験場ありて

国立国会図書館デジタルコレクション>岩手県案内

向町は宮古市役所近くの町域名です。閉伊川(へいがわ)の対岸には、たしかに藤原という町域があります。さらに検索を続けてみると、「宮古大年表」という心強いページが見つかりました。

■1895年(明治28)
4月17日、日清講和条約が締結され、日清戦争終わる
10月15日、水産補習学校が愛宕の宮古・鍬ヶ崎両組合立高等小学校内に附設・創設される。 *岩手県立水産学校・県立宮古水産高等学校の前身。のち藤原上に移転。藤原上は、いまの藤原1丁目。2丁目は藤原中、3丁目は藤原下にあたる。1943年(昭和18)磯鶏に移転。

宮古onWeb>宮古大年表

痒いところに手が届くとはこのことです。「宮古onWeb」という個人サイトでした。公式サイトが切り捨てたことをフォローしてこその個人サイトです。1939年当時の「県立水産学校」は今の宮古市藤原1丁目にあったわけです。

明治期の地形図で「水産学校」が見つかりました。2020年で閉校となった宮古市立藤原小学校がかつての水産学校の校地です。

水産学校跡(地理院タイルを加工)

ただ、藤原小学校は1954年の開校ですので、1943年から1954年までの約10年間のブランクがあります。

宮古の津波

埋め込んだのは2015年7月撮影のストリートビューです。外見的には普通の民家ですが、ここは「宮古市公害試験室」だそうです。藤原1丁目です。

津波の浸水ラインを示す看板が取り付けられています。宮古市役所Webサイトには「宮古市の被害状況」がまとめられています。藤原地区は河南地域に属しますが、浸水深を示すメッシュは5m未満の水色です。

沿岸部ながら壊滅的な事態だけは避けられたようです。震災半年後の2011年10月のストビューでも比較的穏やかな風景です。月山の半島が天然の防潮堤となり、宮古市北部の田老(たろう)地区のような直撃を受けずに済んでいます。

宮古湾の奥でも10m超の浸水が記録されていますが、閉伊川を遡上した津波はそれほどでもなかったようです。誰もが一度は目にしたことがあるはずの宮古市役所5階から撮影した映像です。

川の対岸が藤原地区、正面に見える山が月山(がっさん、別称は御殿山)になります。市役所付近の浸水深も5m未満です。黒い濁流とともに流された白のワンボックスが堤防を越えてくるこの映像は、この日の津波としてはヌルい部類だったことになります。

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