54年後の初勝利

1924年第10回大会のウラ優勝校は旧制・対馬中学です。

  • 広島商3-0松本商9-3鳥取一中5-4宇都宮中10-7佐賀中
  • (九州大会)佐賀中10-3長崎商6-2長崎中11-6唐津中(棄権)対馬中

甲子園球場ができたのが1924年です。翌1925年に東京六大学野球が始まり、1926年秋に神宮球場が竣工しています。プロ野球の発足までまだ10年あります。この時点で、離島の対馬に野球が普及していたというのはいささか驚きです。

棄権ということですから、旅費が工面できなかったのか海が荒れたのか、理由としてはそんなところかもしれません。対馬中の実質的初参戦は5年後の1929年第15回大会です。修猷館に1対12で敗れています。

3度目の挑戦が1950年の第32回大会で、このときも棄権しています。初勝利は実質2戦目となる1978年第60回大会です。鹿町工に4対0で完封勝ちしています。最初に手を挙げてから50余年ですから、当時の選手たちは70歳に達してたことになるわけです。

Wikipediaの「長崎県立対馬高等学校」のページは「沿革」がかなり細かく、公式サイトをはるかにしのいでいます。1906年11月7日に「桟原33番地(現・対馬市立厳原中学校校地)に移転」との記述があります(2017/08/31現在)。

対馬高校の分校だった時代もある上対馬高校は1998年のウラ優勝校です。離島ですから行くなら空路か海路になりますが、空路は福岡空港と長崎空港から1日各4往復です。長崎はプロペラ機のようです。

海路は博多港から高速船とフェリーで計1日5往復ということです。高速船で使えそうなのは10:30発(12:45着)の便だけです。暗くなってから離島に着いても動きようがありません。

対馬観光物産協会さんが観光地マップを作成されていますので、埋め込んでおきます。

1922年の旧制・東北学院中学

1922年の第8回大会が実はやっかいです。ウラ優勝校はすんなり決まります。

  • 和歌山中8-4神戸商2-1松山商3-0広島商14-9秋田中
  • (東北大会)秋田中5-2築館中9-0東北中5-4福島師範7-3東北学院

東北学院高校のWebサイトには次のような記述があります。

1891(明治24)年 南町通りに建築中の仙台神学校々舎完成
<略>
1906(明治39)年 東二番町普通科校舎の落成式を挙行した。
<略>
1919(大正8)年 3月2日仙台市大火のため,中学部校舎が全焼した。
<略>
1922(大正11)年 中学部再築校舎が落成した。

現在の南町通は青葉通りの南側に並行して仙台駅から裁判所に至る東西の道路です。南町通沿いの仙建ビルには、「東北学院発祥の地」の碑が建立されています。埋め込んだのは2016年8月撮影のストリートビューです。

この付近も「東二番町」の範囲に入るはずですが、1906年に竣工したという普通科(→中学部)校舎は2005年に宮城野区小鶴へ移転する前の東北学院高校の敷地内だったのではないかと思われます。

いみじくもウラ優勝校となった1922年に再建された中学部校舎は、通称「赤レンガ校舎」と呼ばれた建築物で竣工が6月のようです。予選を戦ったときには新しい校舎ができていたことになるわけです。

東北学院高校が移転した跡地には、森ビルが2010年に37階建ての仙台トラストタワーを建てています。その高さは東北随一の180mです。

青のマーカーが「東北学院発祥の地」、赤のマーカーが仙台トラストタワーです。

《2017/09/29追記》東北学院中は1935年の第21回大会で巡ウラ優勝校としてV2を果たしています。

初代ウラ優勝校は伊丹

1915年の第1回大会は素直なトーナメント大会です。出場は10校で全10試合ですが、再試合1試合が含まれていますので。敗者に次の機会が与えられたわけではありません。

全国大会におけるウラ優勝校は神戸二中であり、兵庫大会は7校のトーナメント戦(6試合)です。

  • 京都二中2-1秋田中3-1早稲田実2-0神戸二中
  • (兵庫大会)神戸二中 3-2関西学院3-2神戸一中14-6伊丹中

よって、伊丹中(現・伊丹高)が初代ウラ優勝校です。なお、伊丹中が現在の校地に移転したのは1941年とのことです。1915年当時は、現在の伊丹北中の校地に校舎があったようです。

緑ヶ丘7丁目の青いマーカーが現在の伊丹高校です。地図の右端の川は猪名川で、川の東側が伊丹空港になります。もちろん、1915年当時に空港はまだありません。

1916年第2回大会は、12校が出場して1回戦6試合を行い、1回戦の敗者6校のうち2校が抽選で敗者復活戦に回っています。中学明善との敗者復活戦(2回戦相当)を制した鳥取中は準決勝で市岡中に敗れています。

市岡中は決勝で慶応普通部に敗れました。慶応普通部-市岡中-鳥取中-中学明善と辿ることは可能ですが、やはり釈然としない思いが残ります。私の基準では第2回のウラ優勝校は該当なしです。

1917年第3回大会も敗者復活戦が行われており、実は優勝した愛知一中は1回戦の敗者です。優勝チームを称えることはやぶさかではありませんが、そもそも決める必要のないウラ優勝校をあえて決める必要はないと考える次第です。(→「第2回と第3回の敗者復活戦を再検討」

1918年第4回大会は米騒動により本大会自体が中止になっており、オモテの優勝校が決まっていませんので、ウラも決まらないことになります。

1919年第5回大会は14校出場の13試合ですから、ノーマルなトーナメント戦です。全国大会におけるウラ優勝校は愛知一中です。

  • 神戸一中7-4長野師範1-0小倉中9-1鳥取中4-3愛知一中

ただし、東海大会では不思議なリーグ戦?が行われており、1勝1分けの彦根中ではなく1勝0敗の大垣中が準決勝(相当)に進出しています。ウラ優勝校を辿ることは妥当ではないと私は判断しました。(→「東海リンク戦の影に滋賀師範あり」

1920年第6回大会はオモテが関西学院、ウラが福島中です。1921年第7回大会はオモテが和歌山中、ウラが富山中となります。

1957年のウラ優勝校は「該当なし」

乗りかかった船です。「ウラ優勝校」のMAPを完成させたいと思います。まず、1977年を調べてみました。今ならネットでサクサク検索できます。10年前はこうはいきませんでした。

  • 東洋大姫路4-1東邦5-3大鉄2 -1高知3-2宇都宮学園3-1取手二4-1掛川西
  • (静岡大会)掛川西1-0東海大一1-0市沼津4-3島田工3-1小笠農2-1吉原商2-1静岡市商

というわけで、第59回高校野球選手権大会はオモテが東洋大姫路、ウラは磐田農でした。1976年はオモテが桜美林、ウラは熊本西です。

  • 桜美林4-3PL学園3-2海星4-2東北6-0今治西2-1熊本工
  • (熊本大会)熊本工1-0鎮西7-2八代2-0玉名5-4九州学院3-0菊池6-1熊本西

1975年はオモテが習志野、ウラは韮崎工です。山梨と群馬で北関東大会が行われています。

  • 習志野5-4新居浜商6-5上尾5-4東海大相模7-3三重3-1巨摩
  • (北関東大会)巨摩8-4樹徳4-3機山工
  • (山梨予選)機山工3-1甲府工5-0帝京三5-1谷村工3-1韮崎工

1974年はオモテが銚子商、ウラが名古屋学院(現・名古屋)です。

  • 銚子商7-0防府商2-1鹿児島実5-4東海大相模13-6盈進2-1名古屋電工
  • (愛知大会)名古屋電工6-2中京7-4享栄5-0豊橋工6-3碧南工10-0刈谷3-1名古屋学院

1973年はオモテが広島商、ウラが鹿屋商(現・鹿屋中央)です。鹿屋中央は2014年に大隅半島初の甲子園出場を果たしています。

  • 広島商3-2静岡6-0今治西6-2北陽1-0高鍋4-1日大山形2-1鹿児島実
  • (鹿児島大会)鹿児島実2-1鹿児島商6-1鹿児島玉龍7-0笠沙4-1出水7-1鹿児島照国7-0鹿屋商

1972年はオモテが津久見、ウラは隣県の日向工でした。名護は沖縄予選3回戦で沖縄高校と再々試合を演じているようです。高鍋も宮崎予選準決勝の対延岡商戦が再試合になっています。

  • 津久見3-1柳井7-2高知商4-2中京4-0足利工5-4名護
  • (南九州大会)名護1-0高鍋
  • (宮崎予選)高鍋4-1宮崎電子工8-7宮崎実7-3都城工3-2福島7-0日向工

ここまで遡ってみて、気づいたことがあります。ある年、私の出身県の代表校が初戦敗退しましたが、その相手は次の試合で負け、その勝者も次の試合で負け…を決勝まで完璧に繰り返しました。少年時代の体験とは尾を引くもののようです。

さて、以下省略で1958年までは順調にウラ優勝校が判明しましたが、1957年の第39回大会で私はつまずきます。全国大会に限ればウラ優勝校は県和歌山商です。

  • 広島商3-1法政二3-1大宮2-1岐阜商2-0土浦一4-0県和歌山商
  • (紀和大会)県和歌山商2-1伊都5-0一条

紀和大会のウラ優勝校は奈良県の一条高校です。一条は奈良予選の決勝で高田に負けています。連敗の時点でウラ優勝校の権利は消滅すると私は考えています。

1972年の南九州大会は、沖縄1位の名護と宮崎1位の高鍋が直接対決しています。代表決定戦が1試合だけ行われる性質のものでした。1975年の北関東大会は、山梨も群馬も県1位を決めずに両県各2校が対戦する4校トーナメントです。

県の1位校を決めたいという思いは当然あるはずです。私はそれが自然な姿だと理解しています。1957年については、ウラ優勝校は「該当なし」とします。

《2017/09/29追記》その後の方針転換の結果、第39回については奈良高校を巡ウラ優勝校として認定しました。

芦別商業高校

「難産の子ほど可愛い」というのは、やはり真理です。まあ、一面(半面?)の真理かもしれませんけど…。1984年夏の甲子園決勝は、取手二が延長戦でPL学園を退けて優勝しています。

この年のウラ優勝校は北海道の芦別商です。芦別商は芦別工との統合で芦別総合技術となり、1989年3月末に閉校しています。統合後の芦別総合技術高校は、芦別工の校舎を引き継いだようです。

その芦別総合技術も2006年に芦別高校に統合されています。かつて市内に3校あった公立高校は今では1校のみになっているわけです。芦別市は少しだけ隣接する夕張市同様、炭鉱の街でした。

1920(大正9)年の第1回国勢調査では、空知郡芦別村の人口は約1.5万人です。芦別市役所のWebサイトで確認すると、2017年7月末現在の人口は14.187人ということです。ピーク時には7万人を超えていたようです。

市制施行は1953年ですが、1960年代から炭鉱の閉山が相次ぎ、最後に残った三井芦別炭鉱も1992年には閉山しています。

さて、芦別商はいったいどこにあったのでしょうか。いくら財政難でも閉校から30年近くが経過していますから、校舎が現存するとは思えません。ネット検索してみると、2002年と2007年に撮影された校舎の写真が見つかりました。

  1. 北海道廃校の旅>北海道立芦別商業高等学校
  2. 学舎の風景>北海道芦別商業高等学校

いずれのサイトにも所在地の記載はありませんが、上芦別地区で道路が東西にあることがわかります。写真から背景に山があることも読み取れます。ストリートビューで上芦別を散歩してみました。

芦別商の開校当時の名称は芦別「啓南」高校だったそうですから、上芦別啓南会館の周辺を重点的にパトロール?しました。目をつけた場所もありますが、まだ情報量が不足しています。

最悪の場合は図書館に行けばいいだけのことです。芦別商の所在地はわかるはずです。とはいえ、なんとかネットで解決したいものです。出不精な私はさらに検索を続行しました。

  1. mixi>芦別商業高校 同窓会コミュのトピック一覧
  2. 応援します!北海道コンサドーレ札幌>芦別でキハ40系撮影と懐かしいガタタンを食べる

mixiの投稿によれば、芦別商の校舎は2008年3月に解体されたようです。所在地はまだわかりません。リンク先4の個人ブログには次のような貴重な情報が記載されていました。

ここは、2013年12月に稼働した芦別太陽光発電所(2.1MW)で旧芦別商業高跡地だそうです

一定規模の太陽光パネルが設置されている場所は上芦別に2か所あります。そのうちの1か所は上芦別啓南会館の近くであり、ストビュー上で郵便局前の東西の通りから南を見たときの山の稜線が廃校探訪の遠景写真とほぼ一致します。

山の裾野に見えるのが太陽光発電のパネルです。リンク先1のページの一番下にある写真と稜線が一致しているように見えます。パネルは「業務スーパー」の株式会社神戸物産さんが6億5000万円かけて設置したそうです。

さらにネットを漁っていると、決定的な情報が見つかりました。啓南高校が掲載されている地図があったのです。

  1. 芦別物語>tamaの思い出地図 上芦別1964年頃

地図の左上に啓南高校があります。これですべてが解決しました。当時の地図と比較すると、緑ヶ丘保育園は上芦別保育園に、大和物産さんは北都物産に、北星病院は北日本精機さんの工場へと、名前や姿を変えています。

上芦別中学校の跡地に上芦別小学校が文字どおり横滑りしていることもわかります。50年という歳月の重さが感じられます。

Google Earthプロから校舎が存在していた2011年7月撮影の衛星写真を取り出してみました。

自彊高校

今は存在しないようですが、かつて「東京自彊術クラブ」という名称の社会人野球チームがありました。私は都市対抗予選やクラブ選手権予選で3回見ています。

  • 1994/06/01(府中)2-11さくら銀行
  • 1995/06/03(府中)1-5東京ガス
  • 2001/05/04(府中)5-9全府中野球倶楽部

春日部共栄高校から明治大学を経てヤクルトに入った橿渕聡という選手もいましたが、スコアをつけていた身としては画数の多い「彊」や「橿」にゲンナリしていたことを思い出します。

けっして根に持っているつもりはありませんが、今でもこうしてスイスイ連想が進むのですから、それ相当のインパクトがあったのでしょう。

自彊術普及会という公益社団法人は現存します。自彊術とは(似て非なるものかもしれませんが)気功術のようなものだと私は理解しています。東京自彊術クラブはその関係の選手を中心に構成されたチームだと聞いたことがあります(定かではありません)。

1985年夏、KKコンビのPL学園は決勝戦で宇部商にサヨナラ勝ちして優勝を果たしました。この年のウラ優勝校が広島の自彊(じきょう)高校になります。福山市にあった公立高校です。2011年3月末で神辺(かんなべ)高校に統合されて、閉校となっています。

校名について、Wikipediaには次のような記載があります(2017/08/27現在)。

「自彊」(じきょう)という言葉は中国の古い書物である易経の中に出て来る。「天行健、君子以自彊不息」という語句から採用されたもので、「自ら努力し励む」という意味をもっている。

「彊」は訓読みでは「つと(める)」です。旧・自彊高校の校舎は現存し、2013年に広島県立福山北特別支援学校が移転しています。ストリートビューは2013年10月撮影のものしかありませんでした。

米内沢高校

2003年夏の高校野球決勝は、ダルビッシュの東北高校を常総学院が継投でかわして優勝しています。ウラ優勝校は秋田県の米内沢高校です。「よねうちざわ」では変換できませんでした。読みは「よないざわ」のようです。

米内沢高校は2003年当時には北秋田郡森吉町にあったようですが、森吉町は2005年3月に同じ北秋田郡の鷹巣町、合川町、阿仁町と合併して北秋田市になっています。北秋田市の名称は単に郡名を新市名にしただけのことのようです。

米内沢高校の閉校は2013年3月末です。北秋田市内の秋田県立鷹巣高校、秋田県立鷹巣農林高校、北秋田市立合川高校の4校が統合され、鷹巣農林高の校地に秋田県立秋田北鷹(ほくよう)高校が発足しています。

米内沢高校のWebサイトは現存しますが、もちろん統合後は更新されていません。Google EarthプロでWebサイト記載の所在地「秋田県北秋田市米内沢字長野岱118- 1」を検索してみました。

囲いのある野球場らしき施設と陸上のトラックが見えます。これは2010年10月に撮影された衛星写真です。その左側にある建物群が米内沢高校に違いありません。

ストリートビューは2014年7月撮影のものしかありません。この時点ですでに更地になっています。痕跡を探してみたところ、道路沿いに石碑が見つかりました。

「六十五年の」、「一万人余の」という断片的な文字を読み取ることができます。石碑の下部に彫り込まれているのは校歌なのでしょう。

同校Webサイトによれば開校は1945年とされています。学制改革による新制高校は1948年4月に始まっていますので、起算点を1948年とすれば石碑の「65年」と一致します。ここで間違いはないようです。

せっかくですからGoogle Mapで距離計測してみました。陸上のトラックは300mのようです。野球のグラウンドはホームからセンターまで120m級です。2003年当時は2クラスかせいぜい3クラスだったはずです。

広さだけなら贅沢な環境だと言えるのかもしれませんが、部員がそう多かったわけではないでしょう。外野の草刈りを思うと、羨ましい環境だったわけではないはずです。現存しないということは、そういう妄想に浸れるということでもあります。

岩泉高校田野畑校

ウラ優勝校の中にはすでに閉校となった高校も含まれています。2006年、オモテの優勝校はハンカチ王子こと斎藤佑樹を擁した早稲田実でした。決勝は駒大苫小牧との延長15回引き分け再試合です。

この年のウラ優勝校が岩手県の岩泉高校田野畑分校です。岩泉田野畑高は2012年に本校である岩泉高に統合されて閉校となっています。2011年11月撮影のストリートビューです。

最新のストビューは2015年8月撮影分です。校舎はすでに取り壊され、更地になっています。校舎の玄関は赤っぽい舗装部分の奥にあったものと思われます。

ちょっと意外ですが、田野畑村は沿岸部であり、本校のある岩泉町は内陸にあります。赤のマーカーが田野畑高の旧所在地、青のマーカーが岩泉高校です。両者の直線距離は12~13kmですが、道のりでは20kmを超えます。

地図の右上にある田野畑駅は三陸鉄道北リアス線の駅です。田野畑高校の閉校は形式的には2012年3月31日になるものと思われます。翌4月1日、北リアス線の陸中野田駅~田野畑駅間が営業を再開しています。

田野畑村の人口は2017年8月1日現在で3,559人だそうです。村のWebサイトでは2008年1月の通巻491号以降の「広報たのはた」を閲覧できます。さすがに2011年4月号は発行されていませんでした。

ウラ優勝校は京都・堀川高校

旧「セットポジション」には「選手権大会ウラ優勝校」と題するページがありました。2001年1月に公開したものです。

今年の優勝校は花咲徳栄高校だったようです。で、2008年以来10年ぶりに私はウラ優勝校を辿ってみました。

  • 花咲徳栄14-4広陵12-9天理13-9明豊9-8神村学園3-2京都成章
  • 京都成章12-6龍谷大平安8-0西城陽5-3北稜2-1京都共栄11-4南陽3-1堀川

このウラ優勝校のページを最初にネットに投げたのはおそらく私です。誰かが引き継いでいてくれると嬉しいという思いがあります。恐る恐る検索してみると、ちゃんと存在しました。

私は1991年から2008年までのウラ優勝校を列挙したわけですが、こちらのサイトでは1978年まで遡っています。というわけで、2017年の堀川高校を加えた延べ40校(青谷がV2)をGoogleさんのMY MAPに落とし込んでみました。

この新サイトにおいては、MY MAPが活躍することになるはずです。とりあえずの第1弾です。なお、スコア等はパクりましたが、明らかに誤りと思われる3か所ほどは訂正しています。改めて調べてみたいと考えています。

「わたし」と「あたし」

精密DX-Gによる第112回予選第1ラウンドが終わりました。97点オーバーは「パステルラヴ」、「いい日旅立ち・西へ」、「ひまわりの丘」、「三枚の写真」、「M」の5曲でした。

96点台後半が「秋の気配」、「七色のスターダスト」、「キミノアト」、「揺れる想い」、「君への道」、「さらば恋人」です。入賞ラインは97点台中盤、イチ抜けラインは98点台に落ち着くものと思われます。

ラスト31曲目に歌った堺正章「さらば恋人」は、どうやらヒトカラでは初めて歌った曲のようです。精密2の時代の記録を調べたところ、「街の灯り」は見つかりましたが、「さらば恋人」は入っていませんでした。

はるか昔にタカラで歌った記憶があります。この趣味を始めてもう10年近くになるというのに、そんな曲がまだ残っていたとは意外です。初めて歌って96点台後半なら、今シリーズのうちに98点台に届くかもしれません。

さて、DX-Gですからエントリー曲について今回も縛りはかけませんでしたが、次回の精密DX無印では「自己ベスト91点台の曲」縛りとし、その次は「ビブラート8/10を出したことのある曲」縛りとします。

今回のエントリー曲は第110回を一部差し替えただけです。♪<もうじきにもうじきに春が来るんですね>(詞・松本隆)で終わる「東京メルヘン」をこの季節に歌うのは、さすがに気が引けます。

で、「東京メルヘン」については、同じ木之内みどりの「横浜いれぶん」に差し替えました。1976年11月発売の「東京メルヘン」では一人称名詞である「私」が3回出てきます。

You Tubeの音源を改めて聴いてみましたが、♪<古いブーツを投げ出すように 私の心 捨てるのでしょう>など3か所とも、すべて「わたし」と発音しているように聞こえます。

一方、1978年2月発売の「横浜いれぶん」では、♪<私は気のない生返事>(詞・東海林良)など2か所ある「私」は、いずれも「あたし」と発音されています。DAMの歌詞表示では「あたし」とルビが振ってあります。

30曲目に歌った有安杏果「心の旋律」には、歌詞表示がひらがなの「あたし」が6か所あります。ブルーレイ付属のライナーノートでも、ひらがな表記で「あたし」です。

女性曲を歌うことの多い私にとって、この「わたし」と「あたし」は非常に興味深いテーマの1つです。ビジネスメールでの「あたし」はNGでしょうが、書くときは「私」でも口にするときは「あたし」というケースは多いはずです。

1970年代の「わたし」と「あたし」には、かなり隔たりがあったように私は理解しています。「わたし」のほうがある意味で上品であり、「あたし」は良く言えば庶民的です。

1980年代初頭の少女漫画「いつもポケットにショパン」で、主人公の須江麻子が幼馴染の緒方季晋と電話で会話するシーンがあります。ケータイ電話など想像すらしていなかった時代の物語ですから、もちろんイエ電です。

緒方季晋は麻子と麻子の母親である須江愛子の声が似ていること、麻子は「あたし」と言い、愛子は「わたし」と言うことから、電話口でも両者を区別できることを指摘します。

私が「わたし」と「あたし」を気にし始めた最初のきっかけかもしれません。

 

川嶋あいの「旅立ちの日に…」でも、DAMの歌詞表示は「私」に「あたし」のルビがあり、音源を聴いても「あたし」と歌っています。このテーマは今後も定期的に扱い、最終的には固定ページに集約したいと考えています。

(1)時代とともに「あたし」派が増えてきた。ただし、公私で使い分けられていることが多い、(2)「あたし」は西日本ほど勢力が強い、という仮説を掲げておきます。