私が行った野球場MAP

旧「セットポジション」の「今まで行った野球場リスト」のページをMy Map化してみました。

旧「セットポジション」では170球場で終わっていますが、その後に行った球場もあります。記憶にある3球場は加えておきました。スコアカードは捨てていないはずですので、そのうち日付も入れられるでしょう。

1996年7月13日、私は次のような観戦スケジュールを組んでいました。

  • 9:00試合開始予定 川口市営球場 高校野球埼玉予選
  • 14:00試合開始予定 江戸川区球場 高校野球東東京予選
  • 18:00試合開始予定 東京ドーム ファイターズ対マリーンズ

当時の私は東京ドームまで徒歩10分のところに住んでいました。「第3試合」の予告先発はグロスとヒルマンでした。テンポのいい両投手の先発ですから、21:00前には帰れると踏んでいました。

試合開始18:02で試合終了20:33です。目論見どおりに試合はサクサク進んだわけです。「第2試合」の江戸川球場は1試合日でした。日本のアマチュア野球にはフライング・スタートの慣習があります。

プロ野球の場合、準備が整っても定刻まで試合開始を待ちますが、アマは5分前に始まっても不思議ではありません。「第2試合」は13:58試合開始で16:15分終了です。東海大高輪台高と開成高の対戦でした。

江戸川球場から東京ドームまで、シートtoシートでも1時間あれば余裕です。江戸川球場を出た私は東京ドームに直行せず、いったん帰宅してシャワーを浴びました。なにしろ7月半ばです。

さて、「第1試合」の川口市営球場は3試合日でした。独協埼玉高 と大宮武蔵野高の対戦は、8:59に始まり、11:05に終わっています。川口市営球場から江戸川球場まで約1時間です。持て余してしまいます。

高校野球の予選は始まったばかりです。川崎球場では、12:00予定の桐光学園高の試合もあります。川口駅から川崎駅までは乗換なしですが、1時間弱かかります。球場から球場だと1時間半必要ですから間に合いません。

私は最寄りの西川口駅周辺で少し早めのランチをとりました。チェーン店ではないカレー屋さんのカウンター席で甘口カレーを食べたのを覚えています。残念ながらこの店をストリートビューで見つけることはできませんでした。

温水プールの隣にモータープール

76ページ残っていた「2代目んだ」を断捨離した結果、15ページに圧縮しました。旧「セットポジション」からの再録は次の順序とします。

  1. 「今まで行った球場リスト」のMY MAP化
  2. 「4人目のあと1人、10度目のあと1球」
  3. 「異星人への自慢」
  4. 「ゴールデン・カード」から1986年秋東都大学リーグのプレーオフ
  5. 「ルールを変えた男」
  6. 「雨 雨 権藤 雨 権藤」

86年秋の東都プレーオフ・亜大VS駒大戦については、私が見た試合ではありませんが、再録するつもりです。「恐るべし、亜細亜」との組み合わせになるかもしれません。

「2代目んだ」を圧縮することができましたので、週末にはサブブログをスタートできそうです。歌詞表示を伴う場合はサブを用いることになります。JASRACさんは「ブログへの歌詞掲載について」で次のようにおっしゃっています。

個人が開設したブログ等でJASRACの管理楽曲の歌詞を掲載する場合、JASRACへの許諾手続が必要となります。
ただし、運営事業者がJASRACと許諾契約を締結しているブログサービスの場合、個人ユーザーがJASRACに対し個別に許諾を得ることなく歌詞を掲載していただくことができます。

なお、運営事業者とJASRACとの許諾契約は、非商用配信における歌詞掲載利用を対象としたものであり、大量の歌詞を掲載する歌詞閲覧サービスや広告料収入を得るなどの目的で行う利用は許諾対象に含みません。

「非商用配信」が気にならないわけでもありません。JUGEMさんのブログは無料版では広告付きです。「広告なし」に設定することはできましたが、プレビュー画面ではしっかり広告が入っています。

さて、都立浅草高校には温水プールがあり、台東区内の在住・在勤(在学)者を対象に有料で開放されているようです。温水プールのある第一体育館の道路を隔てた北側には「吉野モータープール」さんがあります。平場の月極駐車場です。

東京では珍しいニアミスが起きているわけですが、25m5レーンの温水プールは競泳用帽子と競泳用水着の着用を求められるようです。体育館の西側には「温水プール一般利用者専用駐輪場」があります。赤のマーカーで示した位置です。

埋め込んだストリートビューは最新2016年2月撮影のものです。2013年6月、2014年5月、2015年3月のストビューでも、同じ位置に同じような自転車が停められています。通い詰めている利用者がいるのかもしれません。

「富士に棲む魔物」をうp

旧「セットポジション」のコンテンツから「富士に棲む魔物」をうpしました。旧「セットポジション」からは月1本ぐらいのペースで復活させようと考えています。

「モータープールMAP」の展開が想像以上に面白いことから、「今まで行った球場リスト」のMAP化は当面は見送ります。モータープールの次という順番は変えません。

富士北麓球場の帰り、私は結果的に球場の周囲を一周しました。ネット裏の三塁側から出た私は南道路の県道716号線に入りたかったのです。西側の赤いマーカーのところに門がありましたが、ここは閉ざされていました。

南側に裏門はありませんでした。結局、青のマーカーのところから西道路に出て、南道路に回る羽目に陥りました。駅は北側にあり、南道路の需要は少ないわけで、この構造は致し方ありません。

この球場、ネット裏に座ると、まるまる富士山に抱え込まれます。陸上競技場のメインスタンドは西側にありますので、陸上競技場のメインスタンドではこの感覚は味わえないわけです。

私が行ったのは7月下旬でしたので、残雪はほぼ見えませんでした。5月の連休あたりなら農鳥も見られるようです。また、「標高は1,000mくらいだと思われます」と記述してきましたが、公式サイトによれば1,035mということです。

この日の帰りに私が歩いた距離は、球場一周を含めて7.5kmほどになるようです。帰りに歩いたということは富士山に背を向けていることになります。この場所から振り向いたとき、衝撃的な大きさだったことを覚えています。

独自ドメインとドラクロワ

「セットポジション」時代の2005年8月に「https://set333.net/」の独自ドメインを取得したわけですが、当時のサイト名から「set」をとり、野球が「3」または「9」に縁の深い競技であることから「333」を付加しました。商用サイトではないことから、「com」は選びませんでした。

シンプルで個人的にはかなり気に入っていましたが、今となっては少し持て余し気味です。重荷にはなりませんが、今では整合性に欠けます。だからと言って、改めてドメインを取得するほどのこともありませんので、このまま続けます。

さて、今日はモータープールをお休みして、旧「んだ」を少し片付けておこうと思います。旧「セットポジション」には「神宮のアンリ・ルソー」というページがありました(のちに「茜色と漆黒とアンリ・ルソー」に改題)。

その日は開会式込みの4試合日だった。第4試合は16:50に始まり、6回表(18:02)に点灯された。ただし、6基の照明灯のうち内野の4基だけが灯された。たしかに、打球はめったに外野フェンスまで飛ばない。なにしろ、私が見ていたのは中学生の硬式野球なのだ。リトルシニア選手権開催中の神宮球場だった。

無駄な電力を消費して、地球温暖化に貢献する必要はないという感心な心がけなのかもしれない。外野の照明がつかなかったので、夏の黄昏が深まり本格的な闇に移るにつれて、幻想的な世界に変わっていった。まるでアンリ・ルソーの絵の前でたたずんでいるような、そんな気がした。

外野スタンド越しに見える高層ビルの横には上弦の月。満月でないのがちょっと残念だが、「眠れるジプシー女」のライオンでも出てきそうだ。私はネット裏の上(後ろ)から見ているので、余計にそう感じたのかもしれない。

これは、「セットポジション」閉鎖時の「茜色と漆黒とアンリ・ルソー」のページの冒頭です。どこをどうこじつけたのか、今となってはわかりませんが、改題前の「神宮のアンリ・ルソー」では次のような書き出しだったようです。

「アルジェの女たち」や「キオス島の虐殺」などで知られる19世紀フランスの画家・ドラクロワは、その少年時代に万引きで警官に追われてルーブル美術館に逃げ込んだそうだ。ほどなくドラクロワは捕まったという。

なぜなら、ドラクロワ少年は、ある絵の前で感動のあまり立ちすくんでいたからだ。少年は警官に「おまわりさん、おいら絵描きになるよ」と語ったらしい。できすぎた話だから、本当かどうかは知らない。

で、このエピソードについて、旧「んだ」で指名手配をかけたところ、立原あゆみのコミック本だろうというご教示がありました。私も何冊か読んでいますので、おそらく間違いはないのでしょう。

実話なのか、あるいは「巨人の星」に出てくる坂本龍馬の「死ぬときは前のめりで」や「優雅に泳ぐ白鳥は水面下では~」の類なのか、改めて指名手配をかけておきたいと思います。

ウラ優勝校まとめ

「高校野球ウラ優勝校MAP」が完成しましたので、集約しておきます。今年の夏は第99回大会でした。大会自体が中止になったのが2大会あります。ウラ優勝校が海外のチームとなるケースが5大会です。

正統なウラ優勝校は延べ78校で、巡ウラが15校(巡ウラの准ウラは除く)です。2+5+78+15=100となりますが、第5回大会ではウラ優勝校を2校認定しましたので、計算は合います。

このほか、准ウラが30校、巡ウラの准ウラが2校でしたので、100-(2+5)+(30+2)で延べ125校を「ウラ優勝校」としてMAPに反映させました。重複が次のように3例ありますので、実数としては122校になります。

  1. 1932年第18回大会の旧制・水口中は巡ウラであり、准ウラでもあります。MAP上では准ウラに含めています。
  2. 宮城の東北学院は1922年第8回大会でウラ、1935年の第21回大会では巡ウラです。複数回制覇ということで、MAP上では赤マーカーを用いました。
  3. 鳥取県の青谷高校は1980年の第62回大会と2000年の第82回大会で正統なV2を果たしています。もちろん赤マーカーとしました。

地域別では四国がもっとも少なく、ウラ優勝校空白県は和歌山と高知です。隣接する奈良と徳島も1校だけです。MAP上でも四国の南東部から紀伊半島にかけての空白が目立ちます。

岩手と秋田の計4校が北部に集中したため、両県の中南部も空白地帯です。南四国や紀伊半島もそうですが、もともと人口の多い地域ではありませんので、総体としてはバランスよく分布していると言えそうです。

「准ウラ」の概念を持ち込んだため、「夏といえば」さんの「逆トーナメント」のページとは一線を画すことになりましたが、これは「セットポジション」時代から密かに気にしていたことです。

今回のウラ優勝校MAPで面白かったのは、やはり跡地探しでした。深入りしたくてウズウズしています。着手するとしても来年になるでしょうが、新制高校に限定して廃校MAPを作成することになるかもしれません。

限定したとしても全国では1000校超になるでしょうから、MAPは8分割ぐらいが妥当だと思われます。なお、今回のウラ優勝校MAPでは、高校野球の地区割りに従い、山梨は関東、三重は東海で処理しています。

正体不明・金沢市商のナゾ

1946年の第28回大会は太平洋戦争後最初の大会です。

  • 浪華商2-0京都二中5-3下関商2-0松江中11-8敦賀商
  • (北陸大会)敦賀商8-5富山商8-7金沢二中
  • (石川予選)《金沢三中21-7金沢二中》21-6石川工16-9金沢市商

現・金沢商は1900年に「金沢市立商業学校」として開校していますが、1907年には県立に移管しており、1923年第9回大会で甲子園初出場を果たしたときは「石川県立金沢商業学校」の名称です。

その後も名称変更はありますが、県立校であることに変わりはありません。したがって、1946年の巡ウラ優勝校「金沢市商」は現在の金沢商ではありません。

現・金沢市工は1944年に「金沢市立工業学校」から「金沢市立第一工業学校」に名称変更しています。学制改革の1948年、「金沢市立第一工業学校」は「金沢市立第二工業学校」を吸収して「金沢市立工業高等学校」になっています。

おそらく「市立第二工業」は1944年にできたのでしょう。終戦を挟んで4年間だけ存在した「市立第二工業」こそ1946年の巡ウラ優勝校「金沢市商」ではないか、と踏んで検索してみました。

金沢市図書館のWebサイトに「市史年表 金沢の百年 大正編」と題する壮大なページが見つかりました。関係しそうな項目だけピックアップします。

1927年12月26日 明春4月開校する金沢市立工業学校の設立認可指令が文部省から出た。仮校舎は新竪町小学校の不要校舎(49坪)を小将町小学校庭に移転して使用する。学科は土木建築科と機械電気科とし、5年後の生徒定員は全学年10学級400人と専修科2学級60人。

1930年9月1日 金沢市立工業学校は小将町の仮校舎から泉野の新校舎に移転、授業を開始した。

1933年2月28日 2年制の金沢市立商業高校の創立が市会で可決された。校舎に長田町小学校の一部をあて、募集人員は200人。

1934年7月29日 金沢野球協会が市立工業学校野球場に建設中のスタンドが完成、記念野球大会がおこなわれた。スタンド観覧席の収容人員は2,000人で北陸最大のもの。

1935年5月25日 泉野町の金沢市立工業学校は、全校舎が完成したので校舎落成式を盛大に挙行した。

1937年4月1日 金沢市立商業学校は新学年から修業年限2年制を3年制に改めた。

1943年12月3日 明年4月実施する県下商業学校の戦時転換が県で決定した。県立金沢商業は存置、金沢市立商業は金沢市立第二工業学校として機械、金属工業の2科を設置、小松商業は農業学校に、七尾商業は七尾工業学校に転換する。また県立工業は図案科を廃止し科名を改称する。

1948年4月1日 新制高等学校が開校した。金沢市内の県、市立高校は6校。県立金沢一高(校舎は一中)、県立金沢二高(校舎は県一女と三中校舎の一部)、県立金沢三高(校舎は県二女)、県立工芸高校(校舎は県工)、県立金沢商業高校(校舎は金商)、市立金沢工業高校(校舎は市一工)。

1948年4月25日 金沢ではじめての職業野球公式試合・太陽ロビンス対急映フライヤーズ戦が、兼六園球場で開催された。

1933年創立の金沢市商が1944年に金沢二工となり、1948年に現・金沢市工と統合されたという流れのようです。1946年当時は「金沢市立第二工業学校」が正しいのでしょう。

この年表では、創立時の名称が「~高校」になっています。本当に旧制中等学校(実業学校)ではなく旧制高等学校に相当するのか、それとも単なる誤記なのかはわかりません。

また、1946年時点の所在地も判然としません。MAPでは暫定措置(永遠の暫定?)で現・長田町小学校にマーカーを置きました。

埋め込んだのは2015年6月撮影のストリートビューです。小学校の裏門を出ると、すぐに歩道橋です。さすがに校内直結にはできないでしょうが、狭い道ですから門柱が邪魔かもしれません。

15年連続初戦敗退で廃部?

1953年第35回大会の「巡」ウラ優勝校は長野県佐久市の望月高校です。

  • 松山商3-2土佐6-0中京商2-0宇都宮工6-4鳥取西4-1松商学園
  • (信越大会)松商学園3-0新潟南1-0小諸実
  • (長野予選)《松本市立5-3小諸実》5-2屋代東1-0赤穂2-0上田松尾
  • (東信地区)上田松尾10-3望月

望月高校は1996年に1勝したのを最後に15年連続初戦敗退しています。しかも、この15年連続初戦敗退は2003年を唯一の例外として、すべてコールド点差という徹底ぶりです。2012年からは予選に参加していません。最後の5年間では115失点です。

  • 1997年 望月0-8富士見
  • 1998年 望月0-14下諏訪向陽
  • 1999年 望月2-15塚原青雲
  • 2000年 望月2-17中野
  • 2001年 望月3-13阿智
  • 2002年 望月0-18松川
  • 2003年 望月2-6須坂商
  • 2004年 望月2-12須坂東
  • 2005年 望月2-12飯田長姫
  • 2006年 望月4-12北部
  • 2007年 望月0-19松本深志
  • 2008年 望月0-47長野西
  • 2009年 望月2-36辰野
  • 2010年 望月0-13赤穂
  • 2011年 望月0-10須坂園芸

こういうチームは部員不足というのが相場です。同校Webサイトによれば2017年度の新入生は50人だったようです。共学校で1学年50人では野球どころの話ではないでしょう。

同校の募集定員は1993年に180名から160名に、1996年には120名に、2005年には80名に減少しています。尋常な減り方ではありません。長野県教育委員会のWebサイトで今春の受検者数を調べてみました。

前期試験↑は40名の募集定員に対して受検者が18人、後期試験↓は67名の定員に対して34人しか受検していません。

一般的に公立高校は1学年3学級なら統合対象になるはずです。望月の場合は2学級分の定員しかなく、その定員を6割しか埋められていないのが現状のようです。Wikipediaの「長野県望月高等学校」のページには次のような記述があります。

2006年9月15日 – 長野県蓼科高等学校との統合案を県議会が否決。

田中康夫知事の退任は2006年8月ですから、政争に巻き込まれたというわけではないようです。赤のマーカーが望月高校、青のマーカーが蓼科高校です。直線距離では5kmであり、いたって妥当な統合案のように思えます。

望月宿は旧・中山道六十九次の25番目の宿場です。2012年6月のストリートビューを埋め込みました。

「巡ウラ」の「准ウラ」

新制高校スタートの1948年第30回大会と翌1949年第31回大会では、ともに巡ウラ優勝校が西九州であり、しかも「巡ウラ」の「准ウラ」が成立しています。一般的にはウラのウラはオモテですが、「巡ウラ」の「准ウラ」はウラです。

1948年の「巡ウラ」は北松高校です。北松高校は1955年に北松農業高校に改称しています。

  • 小倉1-0桐蔭1-0西京商5-0享栄商11-0鹿島一
  • (西九州大会)鹿島一11-5佐賀一7-2武雄7-0海星
  • (長崎予選)《諫早4-2海星》4-1長崎工
  • (大村地区)長崎工-大村-北松

この年の長崎予選は6校のトーナメントです。長崎工は1回戦不戦勝であり、海星は1回戦で島原に勝っています。したがって、「准ウラ」の成立要件を満たします。

  • 小倉1-0桐蔭1-0西京商5-0享栄商11-0鹿島一
  • (西九州大会)鹿島一11-5佐賀一7-2武雄7-0海星
  • (長崎予選)《諫早4-2海星》13-0島原
  • (島原地区)島原7-4島原商、島原6-1島原商

地区代表決定戦では島原と島原商が2試合戦っており、島原の連勝でした。島原商が予選に参加したのはこの年だけで、サッカーの強豪校として台頭するのは1970年代のことです。

1949年の「巡ウラ」は有田工です。

  • 湘南5-3岐阜5-2倉敷工7-6小倉北15-4長崎東
  • (西九州大会)長崎東5-1鹿本3-1佐世保北5-1佐賀
  • (佐賀予選)《龍谷5-0佐賀》佐賀8-0鹿島5-0有田工

有田工は1956年に現在の校地に移転しています。同校Webサイト「学校沿革」には次のように記載されています。

1902年(明治35) 5月 有田町泉山に、同町白川より新校舎移転
1956年(昭和31) 4月 有田町中部桑古場に泉山より新校舎移転完了

所在地の詳細はわかりませんが、移転が1950年代なら形跡が残っていても不思議ではありません。Google Mapを航空写真に切り替えてみると、おそらくここだったのだろうという場所があります。

赤いラインの北側が「泉山」です。右上の県道233号線沿いの区画は学校用地の雰囲気が漂います。小規模な高校ならこんなものです。決めつけても大怪我はしないと思われます。

有田工は佐賀予選1回戦が不戦勝でした。有田工を退けた鹿島は1回戦で佐賀工に勝っています。つまり、佐賀工は「准ウラ」優勝校となります。

  • 湘南5-3岐阜5-2倉敷工7-6小倉北15-4長崎東
  • (西九州大会)長崎東5-1鹿本3-1佐世保北5-1佐賀
  • (佐賀予選)《龍谷5-0佐賀》佐賀8-0鹿島11-8佐賀工

有田工と佐賀工はいわば兄弟校の関係にあります。1900年、金工科と木工科の佐賀県工業学校に窯業科の有田分校が設置されます。有田分校は1903年に佐賀県立有田工業学校として分離独立しています。

埋め込んだストリートビューは陶器製の鳥居で有名な陶山(すえやま)神社です。す。もちろん有田町にあります。

ローカルガイドさんによる2017年4月撮影のものです。360度パノラマカメラは今では2~3万で購入できますが、三脚が必要なうえに自分が写り込まないようにしなければならず、素人にはハードルが高そうです。

長虹の如く対岸藤原に架せり

1939年第25回大会の「巡」ウラ優勝校は宮古水産です。

  • 海草中5-0下関商3-2長野商3-2早稲田実10-5青森中
  • (奥羽大会)青森中8-7盛岡中7-2青森師範3-1花巻中
  • (岩手予選)《盛岡中8-7花巻中》11-9宮古水産

この年の奥羽大会は岩手開催だったようです。岩手4校、青森・秋田各2校でトーナメントが行われています。もし宮古水産が花巻中に勝っていれば、岩手ベスト4で奥羽大会進出でした。

宮古水産高校のWebサイト「学校の歴史」のページには次のように記載されています。

明治34年4月1日 県立水産学校開設、甲種実業学校として発足。
昭和18年9月 宮古市大字磯鶏第12地割仏沢163番地に校舎新築移転。

昭和18年は1943年です。移転前の所在地は記されていません。「宮古水産 大正」で検索してみたところ、国立国会図書館のデジタルコレクションのページがヒットしました。大正2年出版の「岩手県案内」です(原文は旧字で漢数字)。

向町埠頭より左折して閉伊川の岸に出づれば、長さ573尺の新晴橋、長虹の如く対岸藤原に架せり。藤原には県立水産学校及び水産試験場ありて

向町は宮古市役所近くの町域名です。閉伊川(へいがわ)の対岸には、たしかに藤原という町域があります。さらに検索を続けてみると、「宮古大年表」という心強いページが見つかりました。

■1895年(明治28)
4月17日、日清講和条約が締結され、日清戦争終わる
10月15日、水産補習学校が愛宕の宮古・鍬ヶ崎両組合立高等小学校内に附設・創設される。 *岩手県立水産学校・県立宮古水産高等学校の前身。のち藤原上に移転。藤原上は、いまの藤原1丁目。2丁目は藤原中、3丁目は藤原下にあたる。1943年(昭和18)磯鶏に移転。

痒いところに手が届くとはこのことです。「宮古onWeb」という個人サイトでした。公式サイトが切り捨てたことをフォローしてこその個人サイトです。1939年当時の「県立水産学校」は今の宮古市藤原1丁目にあったわけです。

これ以上は絞り込めませんでしたが、まあ上出来です。埋め込んだのは2015年7月撮影のストリートビューです。外見的には普通の民家ですが、ここは「宮古市公害試験室」だそうです。藤原1丁目です。

津波の浸水ラインを示す看板が取り付けられています。宮古市役所Webサイトには「宮古市の被害状況」がまとめられています。藤原地区は河南地域に属しますが、浸水深を示すメッシュは5m未満の水色です。

沿岸部ながら壊滅的な事態だけは避けられたようです。震災半年後の2011年10月のストビューでも比較的穏やかな風景です。月山の半島が天然の防潮堤となり、宮古市北部の田老(たろう)地区のような直撃を受けずに済んでいます。

宮古湾の奥でも10m超の浸水が記録されていますが、閉伊川を遡上した津波はそれほどでもなかったようです。誰もが目にしたことがあるはずの宮古市役所5階から撮影した映像です。

川の対岸が藤原地区、正面に見える山が月山(がっさん、別称は御殿山)になります。市役所付近の浸水深も5m未満です。黒い濁流とともに流された白のワンボックスが堤防を越えてくるこの映像は、この日の津波としてはヌルい部類だったことになります。

オモテのVから8年後のウラ制覇

1928年第14回大会のオモテの優勝は松本商(現・松商学園)です。主戦投手は中島治康だったようです。松本商は1936年第22回大会では、一転して「巡」ウラ優勝校になっています。

  • 岐阜商9-1平安中6-5桐生中3-1京阪商5-4静岡商27-4長野商
  • (信越大会)長野商4-0新潟商4-3丸子農商
  • (長野予選)《長野商10-7丸子農商》6-1上田中10-4飯田商10-7松本商

飯田商(現・飯田長姫)は前年の代表校ですから、番狂わせということでもないようです。たまたま予選1回戦がゴールデンカードになっただけなのかもしれません。

2年後の1938年にも両者は1回戦で対戦して松本商が代表になっています。松本商が夏の予選で飯田商に負けたのは1936年の1回だけです。

  • 1934年長野予選2回戦 松本商15-4飯田商
  • 1936年長野予選1回戦 飯田商10-7松本商
  • 1938年長野予選1回戦 松本商19-3飯田商
  • 1939年長野予選2回戦 松本商8-4飯田商
  • 1950年長野予選2回戦 松商学園6-4飯田長姫
  • 1951年信越大会決勝 松商学園1-0飯田長姫
  • 1958年長野大会2回戦 松商学園4-0飯田長姫
  • 1981年地区代表決定戦 松商学園14-0飯田長姫
  • 2000年長野大会3回戦 松商学園10-3飯田長姫

さて、松商学園高校のWebサイトには「昭和11年 松本市大字筑摩県町に校舎新築、11月移転式挙行」との記述があります。昭和11年とはまさしく1936年です。MAPに反映させるためには、移転の時期が問題になります。

Wikipedia「松商学園高等学校」のページの記載(2017/09/22現在)も微妙です。

1913年6月 – 埋橋に校舎を新築し移転。
1936年2月 – 松本市大字筑摩県町(県3丁目)に校舎を新築。

この「新築」が竣工の意味なら、4月から移転しているものと思われます。そう考えるのが自然です。11月は式典だけだったのでしょう。4月の新年度で移転して、式典が半年後というのはこの業界ではありがちなことのようです。

というわけで、MAPには現在の校地で反映させました。旧・松本商の所在地だった町域名としての「埋橋(うずはし)」は、松本城の南東になります。

ストリートビューは2010年11月撮影の松本城西側の内堀に架かる「埋橋」です。