滋賀師範と四日市商

1919年第5回大会のウラ優勝校として滋賀師範と四日市商を認定したわけですが、次の課題は当時の校舎がどこにあったのかということになります。滋賀師範については、Wikipediaの「滋賀師範学校」のページに次のような記述があります(2017/09/16現在)。

1903年: 上堅田町から滋賀郡膳所町大字錦 (現 大津市昭和町・西の庄) の新校舎に移転。
3月、新校舎落成式を挙行。

「大津市昭和町」でMAP検索すると、ちょうど「西の庄」との町域境に滋賀大教育学部付属の小中学校と幼稚園があります。というわけで、MAPではその付近にマーカーを打っておきました。そんなに外れてはいないはずです。

四日市商は難題かもしれません。四日市商業高校公式サイトの記述は次のとおりです。

明治41年9月 浜一色校舎が新築落成、校章制定
昭和20年6月18日 戦火により校舎焼失

海軍工廠を抱えていた四日市が攻撃対象になるのは当然のことです。Wikipediaの「四日市空襲」のページには次のように記載されています(2017/09/16現在)。

1945年(昭和20年)6月18日午前0時45分、アメリカ軍B-29戦略爆撃機89機が焼夷弾11,000発・567.3トンを投下。
人的被害は、被災者47,153人、死者736人、負傷者1,500人、行方不明者63人。約1時間の絨毯爆撃で全市の35%が焼失、市街地は焦土と化した。

1945年国勢調査における四日市市の人口は94,696人です。上記ページによれば、空襲は8月8日まで計9回繰り返され、最終的な被災者は49,198人とされています。

現在の四日市市浜一色町は海蔵川河口付近の南側一帯です。iPhoneに「四日市ぶらり」のアプリをインストールして、1911年「四日市市実測図」を閲覧してみました。

現在の浜一色町に隣接する高浜町の四日市市立橋北中学校の校地に「商業学校」の文字を見つけることができました。道路を挟んで北側に卍マークがあります。これは天聖院だと思われます。意外とあっさり特定できました。

埋め込んだストリートビューは2013年4月撮影のものです。赤のマーカー付近から河口を向いた状態です。

四日市市役所のWebサイトで見つけた広報誌のバックナンバー(2016年6月上旬号|きらり四日市人vol.39)です。

燃えて崩れる家々に挟まれた狭い道路を通って南へ向かいました。水があって周りに燃えるものがない田んぼに逃げ、あぜ道に座り込みながら、市街の方角が赤く燃えているのをただ見つめるだけでした。
朝方に火は収まりましたが、余熱ですぐには近寄れませんでした。市街は焼野原となり、防空壕も焼けてなくなっていました。防空壕の中から逃げたくても逃げられず、大勢の人が生きたまま焼け死んでいったことを思うと、今も胸が痛くなります。