海嘯記念碑の平田、釜石商跡地は仮設→復興住宅

釜石商は釜石工と統合

ある程度は覚悟していたことですが、「商業高校MAP」は移転や統廃合でかなり苦戦しています。釜石商は2009年に釜石工との統合で釜石商工となり、釜石商工は大観音近くの旧・釜石工の校舎(赤マーカー、標高30m台)を使用しています。

釜石
釜石(地理院タイルを加工)

旧・釜石商(青マーカー、標高20m台)が浮いたわけです。2011年4月の航空写真です。下に見えるのが校舎、車が停まっているのが陸上のグラウンドで、その上が野球のグラウンドです。

震災直後の釜石商跡(2011)

仮設住宅に

グラウンドへの仮設住宅の建設が始まったのは震災1か月後だそうです。2012年の航空写真です。

仮設住宅(2012)

跡地利用をどうするかという問題はあったはずです。結果オーライかもしれませんが、体育館も健在だったのは幸いしました。

東日本大震災釜石市教訓集
釜石市>東日本大震災 釜石市教訓集 未来の命を守るために

8階建ての復興住宅

2014年の航空写真です。体育館と4階建てだったと思われる校舎が解体され、8階建ての復興住宅に生まれ変わっています。

復興住宅(2014)

2019年11月の航空写真ではまだ仮設住宅が残っていますが、2020年11月には仮設が撤去されています。

仮設住宅解体(2020)

仮設住宅の跡には岩手県立釜石祥雲支援学校の本校舎が建設され、2022年に移転してます。

平田海嘯(かいしょう)記念碑

さて、最初の地図の赤い✕印がこれです。2013年6月撮影のストビューです。

平田海嘯記念碑

津波避難場所でもある館山神社脇に建てられた石碑は「平田海嘯記念碑」だそうです。「平田」は地名です。「海嘯(かいしょう)」とは、アマゾンのポロロッカのように緩い傾斜の広い河口で起こる潮の逆流のことです。少なくとも19世紀まで「津波」も「海嘯」と呼ばれていました。

碑文によれば、1896年(明治29年)の明治三陸津波では人口400人のうち死者・行方不明者は80人、馬23頭、牛5頭も道連れになったようです。石碑は1902年(明治35年)に下平田地区の国道45号沿いに最初の石碑が建てられます。

風化によって再建されたのが1933年(昭和8年)の昭和三陸津波後のようです。道路の拡張で標高10m前後の現在地に移されたのが1972年(昭和47年)だそうです。なお、昭和津波では死者1人、2011年は死者・行方不明者22人ということです。

2011年の東北地方太平洋沖地震はM9.0でしたが、1896年の明治三陸沖地震はM8.2~8.5と推定されています。階段を上がった先の神社は標高30m程度と思われます。神社で一晩過ごしたあと、釜石商跡に避難したということです。

【外部リンク】
■ひかり拓本データベース>海嘯記念碑

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