間違い探し

2018年4月に撮影された山梨県北杜市須玉町穴平の航空写真です。すぐ東側には須玉川が流れています。中央の青っぽい正方形は建物のようですが、長方形の物体の大部分は中古車(または廃車)だと思われます。

2018年4月撮影(Google Earthプロ)

Google Mapの航空写真にはタイムマシン機能がありませんが、Google Earthでは遡ることができます。次の画像は2016年5月撮影の航空写真です。2つの画像で間違い探しをしてみると、当然のことながら必ずしも同一ではありません。

2016年5月撮影(Google Earthプロ)

消えてしまった車両もないわけではありませんが、全体の数としては増えていますし、大部分は動かされていないようです(まあ、動かして元の場所に戻したという可能性はあります)。

7月13日付で「毎日新聞」が報じたニュースによれば、この土地の管理者である北杜(ほくと)市議に対して、山梨県は廃棄物処理法に基づいて廃棄物を適正に処理するように行政指導したそうです。

ゴミなのか有価物なのかは、いわゆるゴミ屋敷でも問題になります。毎日の記事では、市議はオークションで落とした有価物である旨を主張しているそうです。

環境省は都道府県(指定都市)の所轄部署に対して「行政処分の指針について」を通知しています(最新の通知は去年3月)。正直なところ、あまり読みたい文書ではありませんでした。

H4でアルファベットが小文字にならない

自分用のメモです(このサイト自体が自分用のメモですけど…)。下書き保存しても検索が面倒なだけですから、一切合切ここに押し込んでしまおうと思っています。

プラグイン

プラグイン「Duplicate Post」を追加しました。ページ複製のためのプラグインです。今までHTMLでコピーしてきましたが、「精密採点DX 全国平均点の推移」のページ分割に際して導入しました。

で、もうすっかり忘れていたインストールの手順を(あくまでも自分のために)整理しておきます。目的のプラグインが決まっている場合のインストールの手順です。

(1)管理画面で「プラグイン」を選択、「新規追加」をクリック
(2)検索ボックスにプラグイン名を入力
(3)「今すぐインストール」をクリック
(4)「有効化」を選択

「Duplicate Post」の使い方は、コピー元のページ一覧(固定ページ一覧or投稿一覧)を開いて「複製」を選択するだけでいいようです。

コピーされたページのタイトルが「(複製)~」となるように設定しただけで、ほかの初期設定はいじっていません。

「Duplicate Post」の導入に伴い、「Hello Dolly」を削除しました。「Hello Dolly」はWordPress標準装備ですが、削除しても差し支えないもののようですので、プラグインの数を増やさないために削除した次第です。

H4のアルファベットが大文字になる

「…平均点の推移」のページでは曲名等をH4で設定していましたが、アルファベットが大文字になってしまうことに気づきました。

Time goes by(H4)

Time goes by(H5)

曲名については副題を省略することはありますが、大文字・小文字などは原題どおりにしたいと考えています。譲りたくない部分です。CSSで対処できるようですが、H5で代用しています。

推移のページ

これは純粋な業務連絡です。DX610-365以下の反映まだ。DX30曲のGもまだ。

指差すゴリラの道案内

イタリアンなサインポールを探しているうちに、ゴリラのオブジェを見つけてしまいました。看板の上に乗ったゴリラが左手(左前足)で左折を促している道案内のオブジェです。誰が主導して設置したのか気になります。

(A)国道442号線角地の土地所有者
(B)看板記載の歯科医院
(C)オブジェの製作業者

一般的にはBだと思われます。需要がないことには成立しない話です。案内看板がほしかったBがAに持ちかけたと考えるのが自然です。A発信の可能性は否定できませんが、C発信なら両当事者を口説かねばならず、ちょっと無理筋です。

埋め込んだのは2017年5月撮影のストビューです。「宗方歯科」の看板の上にゴリラが乗っかっています。設置箇所は国道沿いの鋭角の角敷地(赤矢印)です。大分市街地から大型ショッピングセンターに向かう途中の下り車線です。

上宗方付近 © OpenStreetMap contributors

緑の矢印が歯医者さんになります。鋭角の角敷地は店舗の駐車場として利用されていないことから、歯科医院が案内看板設置のために買い取ったものかもしれません。もしそうだとすると、次の現実をどう受け止めていいのか怪しくなります。

最新2018年6月撮影のストビューです。歯医者さんの看板は保育園に変わっています。「稙田ほまれ保育園」は2018年4月の開園です。「田」ではなく、のぎへんの「田(わさだ)」です。由緒ある地名です。

この新設保育園はまだネット地図に正確に反映されていないようですが、おおむね青矢印の位置と思われます。設置されたばかりの保育園としては、ゴリラの案内看板は魅力的に違いありません。

歯医者さんとしては、このゴリラはもう十分に目的を果たしてくれたはずです。土地ごと有償譲渡を受け入れる余地はあります。以上、私の推理が正しいかどうかは土地登記簿でわかります。調べませんけど…。

湯浅小の沿革がユニーク

湯浅町立湯浅小学校の「沿革」のページが、あまりそれらしくありません。興味深い項目がいくつもあります。

1873年 福蔵寺で学校を開く。(本校創立) 先生5人、児童355人
1906年 男子校、女子校に分離  ペスト流行
1911年 尋6、高12、裁縫科の生徒79人が、初めて和歌山市へ一泊の修学旅行
1912年 桜島噴火、火山灰が降ってきたので記念に採集し、珍しがる。
1916年 職員室と応接室へ電灯をつける。
1928年 講堂建築貯金開始
1936年 講堂落成  創立60周年記念式
1941年 国民学校と改称  運動場に、いも苗二万本植える。
1942年 空襲警報しきりとなる。
1944年 校内に防空壕をつくる。 大阪市玉出国民学校児童が本校に集団疎開
1945年 講堂は橘第57部隊の兵舎となる。 児童はフキ、イタドリ等を三日間採集し、湯浅食品会社へおさめる。

和歌山県湯浅町立湯浅小学校>学校案内

先生1人当たりの生徒数

学制発布は1972年(明治5年)8月です。当時の小学校は下等科と上等科がそれぞれ4年制の計8学年のはずですが、開校当時の先生は5人ということですので、複式学級になります。実際の就学率はせいぜい3割程度と思われます。

355÷5はちょうど割り切れます。71です。先生1人当たり71人もの児童を抱えていたわけです。文部科学統計によれば、2017年の本務教員1人当たりの児童数は15.4人です(1学級当たりで23.6人)。

ペスト

フィクションの中でしか見聞きすることがない伝染病というイメージしかありません。ジュリエットは一定時間だけ仮死状態に陥るというご都合主義丸出しの薬を飲みますが、その企みを打ち明けた手紙はロミオに届きませんでした。

手紙を託された使者がペスト患者とともに囚われの身になったからです。ロミジュリの悲劇はペストが一役買っています。日本では1899年から1926年の間に2,905人の患者(死者2,420人)を出しているようです。死亡率83%です。

修学旅行

「尋6、高12」とは尋常小学校6年生と高等小学校1・2年生の意味なのでしょう。湯浅駅からJR和歌山駅まで紀勢本線の営業キロ数は37kmです。今の紀勢本線が箕島駅まで開通したのは1924年、今の湯浅駅の開業は1927年です。

1911年当時、湯浅に鉄道はありません。日本バス協会のWebサイトによれば日本で最初の乗り合い自動車は1903年に京都で運行されていますので、バスの可能性もありますし、あるいは海路だったのかもしれません。

桜島の大正噴火

年表では1912年になっていますが、火口から流れ出た溶岩で桜島が大隅半島と陸続きとなったいわゆる「大正噴火」は1914年です。降灰は1200km離れた小笠原や石巻でも観測されています。

カムチャツカ半島でも降ったという説もあるようですが、さすがにこれは眉唾のような気もします。溶岩が埋めた海峡は「瀬戸海峡」で、現存しない集落の名は「瀬戸」と「脇」です。おかげさまで、「瀬戸MAP」に追加できます。

電灯と講堂

日本最初の電力会社である東京電灯の開業は1886年ですが、1897年には和歌山電灯、 1910年には日高電灯が設立されています。1916年なら湯浅にも電線が延びていたものと思われます。

講堂については、それまでなかったので「建築貯金」を始めたのか、それとも老朽化による再築だったのか判然としません。再築だとすれば、「講堂落成」になるような気もします。いずれにせよ「貯金」から「落成」まで8年です。

芋畑に防空壕

太平洋戦争は1941年12月に始まっています。サツマイモは春から初夏の植え付けで収穫は秋です。「いも」が二毛作可能なジャガイモだとすると植え付けの時期を絞るのは難しくなりますが、開戦前にすでに食糧事情は悪化していたのでしょう。

日本本土の初空襲は1942年4月のドーリットル空襲です。太平洋上の航空母艦から出撃した16機が主に東京を空爆しています。最後に飛び立ったファロウ中尉が機長を務める16番機は名古屋空爆のあと、四日市や和歌山に機銃掃射しています。

これが湯浅における最初の空襲警報だったのかもしれません。警報は1937年の防空法で制度化されており、NHKのラジオ第一放送に割り込む形で流されていたようです。湯浅のお隣の有田市にある石油精製工場は1945年7月に空襲を受けています。

湯浅の伝統的建造物群保存地区の街並は戦災を経ていない証左です。湯浅に疎開してきた玉出小の大阪市西成区玉出地区は1945年3月の大阪大空襲でほぼ全焼しています。

日本一・二の高さより268歩

伊賀上野城で見かけた案内看板です。いわくありげな雰囲気が漂います。

伊賀上野城の高石垣を示す看板

伊賀上野城Webサイトには「大阪城と並んで日本一の高さ」と明記されています。「約30m」も誇張表現ではありませんが、実際には30mに若干欠けるようです。

藤堂高虎が本丸の西に築いた石垣。高さ約30メートルの高石垣は大阪城と並んで日本一の高さを誇っています。

伊賀上野城>高石垣と宝もの

大阪城Webサイトには次のような記述があります。

大阪市立博物館裏手付近は水面からの高さが24m、堀底の根石からだと32mにも達する。

大阪城>時の刻印>本丸の高石垣

どうやら学術的な意味での城の石垣の高さとは、堀の水面下にある「根石」から最上部の「天端石」までの垂直距離を指すようです。文字どおりの水面下であることから計測は困難で、もともとは上野城が日本一と言われていたそうです。

大阪城の堀の調査が進んだ結果、日本一のタイトルが上野城から大阪城に移動し、こういう看板が登場したという経緯のようです。水面上の高さだけならどちらも「24m」ですから、ほぼ遜色はないものと思われます。

藤堂高虎が上野城の改修工事に着手したのは1611年で、徳川2代将軍の秀忠が大阪城の修築工事を始めたのは1620年です。したがって、上野城が日本一であった時代もあったのかもしれません。

次の看板は街中で見かけました。ガソリンスタンドの敷地内に設置された街灯にくくりつけられていた銭湯の看板です。行きたい方向ではありませんでしたので、本当に268歩で辿り着くのかどうかは確かめてはいません。

「ここから徒歩268歩」の看板

この看板を見たとき、1歩を60cmか70cmで計算したのだろうと私は思いました。Google Mapで看板の位置から一乃湯さんまで道路上の直線距離を計測すると約156mです。156÷268は58.209cmです。

銭湯の玄関は道路から奥に10m入って左に5mありそうですので、玄関までで考えるなら約171mになります。171÷268は63.806cmです。オムロンさんのWebサイトでは、歩幅の目安は身長の45%とされています。

そうすると、前者の場合は身長130cm足らず、後者では142cmの人を基準にしたことになってしまいます。どうやら私の直感的な推理は間違っているようです。ただ、この「268歩」はまったく根拠のない数字ではないはずです。

もちろん、ゆっくり歩けば歩幅は縮まるわけですが、もしかすると実測の結果なのかもしれません。もし私がこの銭湯に通っていたら、この看板からきっちり268歩で歩くというゲームを楽しんだに違いありません。