戦艦大和の慰霊塔はなぜ徳之島・犬田布岬にあるのか?

「いぬたぶ」か、「いんたぶ」か

奄美群島・徳之島の最西端は犬田布岬です。徳之島観光連盟や鹿児島県観光連盟は「いたぶ」のフリガナを振っていますが、現地読みとしては「いたぶ」なのでしょう。「あゝ犬田布岬」というご当地ソングでは、明らかに「いたぶみさき」と歌われています。

Wikiにもこんなページがあります。沖縄でも「犬」は「いん」になるようです。

犬田布騒動(いたぶそうどう)は1864年4月23日(文久4年3月18日)に徳之島の犬田布村で起きた百姓一揆。

Wikipedia>犬田布騒動(2021/12/25閲覧)

ただ、Google日本語入力でもMS-IMEでも「いんたぶ」では「犬田布」に変換できません。

いずれにせよ、まるで北海道の岬のようなイメージがありますが、沖縄にも儀志布島(ぎしっぷじま)という無人島があり、西表島には「由布」という地名があります。そう言えば、田園調布も「~布」組です。「~布」は北海道の専売特許ではありません。

徳之島の犬田布岬
犬田布岬(地理院タイルを加工)

この犬田布岬に「戦艦大和を旗艦とする艦隊戦士慰霊塔」があります。もちろん古代進や森雪が乗船していた宇宙戦艦ヤマトではなく、空を飛べずワープもできない実在した軍艦の大和です。

戦艦大和慰霊塔

塔の高さは大和の司令塔と同じ24mということです。戦艦大和は坊ノ岬沖で沈没したはずです。なぜ徳之島の夕焼けスポット・犬田布岬に慰霊塔があるのか不思議な気もします。

戦艦大和の沈没地点

Wikiには大和の沈没場所についての次のような記載があります。

戦闘詳報による大和の沈没地点は北緯30度22分 東経128度04分。だが実際の大和は、北緯30度43分 東経128度04分、長崎県の男女群島女島南方176km、鹿児島県の宇治群島宇治向島西方144km、水深345mの地点に沈んでいる。

Wikipedia>大和(戦艦)

「北緯30度22分 東経128度04分」と「北緯30度43分 東経128度04分」を地理院地図に落とし込んでみました。前者が紫、後者がピンクです。

戦艦大和の沈没地点
沈没場所(地理院タイルを加工)

紫と言われていたのが、実際にはピンクの場所だったということですが、紫で考えても鹿児島県南さつま市の坊ノ岬が近いはずです。男女群島や宇治向島は無人島ですので、有人島としては三島村の黒島がもっとも近いわけです。徳之島よりむしろ五島列島の福江島のほうが近いくらいです。この位置関係なら慰霊塔が屋久島や奄美大島にあっても不思議ではありません。

徳之島西方二〇浬ノ洋上

徳之島の慰霊塔は1968年(昭和43年)に建てられています。どうやら当時はもっと南で沈没したと思われていたようです。

元乗組員の証言『徳之島西方二〇浬ノ洋上、「大和」轟沈シテ・・・』からこの地に建てられました。

徳之島観光連盟>犬田布岬

カギカッコ部分は吉田満氏の『戦艦大和ノ最期』に記されているそうです。今となってはハシゴを外されて立つ瀬を失ったようなもどかしさがあるのかもしれません。悩ましいことに慰霊塔建立に全国から寄付を募っています。

戦艦大和はその性質上、存在自体が軍の機密に属するはずです。敗戦後も方向は違えど言論統制が続きます。占領下には発行できなかった『戦艦大和ノ最期』は1952年に創元社から発刊され、翌1953年には映画化されます。1938年生まれの松本零士氏はこの映画で初めて大和の存在を知ったということです。

初期のミスリードで「徳之島西方沖」が定着し、慰霊塔の建立に至ったものと思われます。戦艦武蔵の場合も実際の沈没場所は戦闘詳報の緯度経度とはかなりズレています。

戦艦大和の艦隊

1945年4月1日、アメリカ軍は沖縄本島に上陸します。11隻からなる大和の艦隊は4月6日夕刻、山口県徳山湾沖から沖縄へ出撃します。周防灘で駆逐艦・響が触雷で呉に帰投し、10隻体制となります。4月7日、豊後水道を南下した艦隊は沖縄に直進せず、佐多岬と種子島の間の大隅海峡を西に向かいます。

迎撃を警戒した迂回ルートなのか、佐世保へ向かうと見せかける陽動作戦なのか、どちらにしても日本は奄美大島付近の制空権を失っていたのでしょう。駆逐艦・朝霜は機関故障で減速し、戦隊から離脱します。孤立した朝霜は真っ先に沈められたようです。

アメリカ軍は大和の動きを察知していました。370機ほどの艦載機が出撃します。船vs飛行機の対戦ですが、天候が悪かったようです。戦闘機は雲に隠れることができます。往路で墜落したのが1機、不時着水が2機、撃墜されたのが5機、帰還後に修理不能で廃棄されたのが5機ということです。

船名就役建造全長備考
戦艦大和1941年263.4m14:23沈没
軽巡矢矧1943年佐世保174.5m14:05沈没
7駆1933年舞鶴118m周防灘で触雷し呉に帰投
17駆磯風1940年佐世保118.5m雪風により22:40処分
17駆浜風1941年浦賀118.5m12:48沈没
17駆雪風1940年佐世保118.5m4/8午前、佐世保帰投
21駆初霜1934年浦賀109.5m4/8午前、佐世保帰投
21駆1939年浦賀180m冬月により16:57処分
21駆朝霜1943年大阪119.3m機関故障で減速し離脱、撃沈
41駆冬月1944年舞鶴134.2m4/8午前、佐世保帰投
41駆涼月1942年長崎134.2m4/8午後、佐世保帰投
▲戦艦大和の編隊

大和の艦隊は撃沈4隻、足手まといになるため沈められたのが2隻、無事に帰投したのは4隻でした。大和の乗員は3,332人、生還者は1割に満たない276人ということです。艦隊としての戦没者総数は4,000人を超えています。援軍はなく、ただ敗走するのみだったようです。

生還した艦船のその後

幸いにも戦闘に参加しなかった駆逐艦・は、戦後は復員船として活躍し、賠償艦としてソ連に譲渡されています。標的艦としてウラジオストク沖で永眠したようです。

同じく復員輸送船から賠償艦となったのが駆逐艦・雪風です。譲渡先は中華民国で1970年代初頭に解体され、舵輪と錨は江田島の旧海軍兵学校・教育参考館に展示されています。海上自衛隊の護衛艦として建造された2代目の「ゆきかぜ」は1986年に能登半島沖で実艦標的になっています。

浜風から150名以上を救助した駆逐艦・初霜は、敗戦目前の7月30日に宮津湾で触雷し艦尾を失い座礁し、残骸は戦後に解体されたそうです。

涼月は戦闘初期に艦首を大破し、後進で佐世保まで帰還したそうですが、冬月とともに軍艦防波堤として北九州市若松区の響灘沈艦護岸に埋められています。廃船をコンクリで固めて防波堤を築くという発想です。2016年8月撮影のストビューです。見えているのは初代・柳で、涼月と冬月は完全に埋められているということです。

人生いろいろ、軍艦もいろいろのようです。戦艦大和の慰霊碑は、1979年には呉市長迫公園に「戦艦大和戦死者之碑」が、1995年には枕崎市の平和祈念展望台に「殉難鎮魂之碑」が建てられています。

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