洪水で祠が漂着した南蒲田北野神社と野毛六社神社

南蒲田の北野神社

石段と鳥居は風景写真としてワンセットだったりします。石段を登ったところに本殿があるのが一般的ですが、南蒲田北野神社は道路から石段を降りたところに鳥居があります。有名な下り宮としては宮崎の鵜戸神宮がありますが、レアであることは間違いないはずです。

南蒲田北野神社

呑川(のみかわ)に架かる天神橋が南蒲田北野神社に由来することは疑う余地なく明白です。天神橋を北から南に渡ると、右手が神社の敷地になります。数段の階段を降りたところに鳥居があります。2018年4月撮影のストビューです。桜はすっかり散っていますから4月後半でしょう。

寛文元年(1661年)に杉原重右衛門の邸宅に諏訪神社を奉斎しました。呑川の洪水によって、池上の麓の天神山の森から、矢口村に祀られる天神様の御神体は度々流されて、北蒲田新宿南の杉原重右衛門宅前に留まることが再三にわたり、その都度天神森にお返ししましたが、七度目にいたり、嘉永2年(1849年)矢口村と交渉して、当地杉原家地内諏訪神社の傍らに社を建てて安置しました。
明治年中、諏訪神社と合祀して北野神社と総称することになりました。境内は杉原家より奉納されました。昔は呑川の北側にありましたが、改修工事によって現在の様に南側となりました。

蒲田八幡神社>北野神社

流された「御神体」とはおそらく祠のことではないかと思われますが、この由緒の要点は「呑川の洪水」「池上の麓の天神山の森」「矢口村」です。「呑川の洪水」ですから多摩川ではありません(7回のうち1~2回は多摩川が溢れて呑川も飲み込まれたのかもしれません)。

「池上の麓の天神山の森」を私は池上通り付近ではないかと睨みました。池上本門寺付近は標高10m以上で、標高5mの等高線はおおむね池上通りあたりです。ただ、池上通りの北側だとすると、「矢口村」ではなく「池上村」になるはずです。もちろん、時代とともに村域も変わったでしょうが、池上通り付近は「矢口村」には無理があります。

この「天神山の森」に関しては特定されているようで、1908年の2万分の1地形図に田んぼの中にポツンと針葉樹林マークが施されている箇所(赤囲み)ということです。現在の都立大森高校から区立おなづか小学校の付近だとされています。北野神社(赤マーカー)から約1.8キロの比較的近場です。

天神山の森(地理院タイルを加工)

ただし、1908年の2万分の1の地形図ではこの付近に川は流れていません。天神山とは言っても、せいぜい周囲より人の身長ほど高いだけの丘だと思われます。江戸中期にはもっと広範囲の山だったのかもしれません。

一方、杉原邸の敷地はそれなりに広いものだったに違いありません。当時の呑川の蛇行部分に接していたのでしょう。現在の北野神社の地点にピンポイントで何度も流されたのではなく。杉原邸の広い敷地に流されてきたのが数回あったという理解でいいものと思われます。流された距離は1キロ程度ということも考えられます。

いずれにせよ、多摩川ではなく呑川の洪水で流されたのですから、天神山と呼ばれていた山の高さは程度が知れています。呑川が溢れただけでも流される程度の天神山だったことになります。

野毛の六所神社

新日本プロレス野毛道場の近くにも天神橋(赤▲)があります。丸子川に架かる橋です。周囲の神社としては六社神社(紫の囲み)がありますが、若干距離があります。六社神社の坂道を下ったところに架かる橋は宮下橋(紫▲)です。

野毛の天神橋
野毛の天神橋(地理院タイルを加工)

六社神社は菅原道真も祀っていますが、六社神社由来で天神橋の名称になったとは考えにくい距離です。天神橋から北に向かうと三叉路の角に墓地がありました。そこを西に曲がると、小さな鳥居が見えます。さらに1区画奥にも鳥居があり、犬小屋サイズの祠が確認できます。2016年2月撮影のストビューを埋め込みました。

赤マーカー2か所のうちのどちらかが天神を祀っており、天神橋の名前がつけられたと考えるのが合理的です。名前などはわかりませんでした。私有地感も漂いますので、管理者以外には地元の好事家でなければ手を出せない世界です。

さて、六社神社は元和年間(1615-24年)の多摩川の洪水で、当時は六所明神と呼ばれていた府中の大国魂神社の祠が流れ着いたことが創建の契機となっているそうです。北野神社よりスケールが大きく、その距離は15~16キロです。漂着は「神社あるある」なのかもしれません。

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