多賀城市「野田の玉川」に架かる「おもわくの橋」

ご当地ソングのレジェンドは能因

百人一首の69番「あらし吹く…」は能因法師の作です。ご当地ソングのレジェンド・能因の没年は1050年あるいは1058年とされています。ちょうど「前九年の役」(1051-1062年)の頃です。新古今和歌集には「野田の玉川」が歌われた能因法師の和歌があります。

夕されば 潮風越して みちのくの 野田の玉川 千鳥鳴くなり

「野田」という地名も、「玉川」という川も、比較的ありふれています。たとえば佐渡島にも野田はありますし、玉川も流れています。もちろん佐渡島は「みちのく」に該当せず、佐渡島の野田と玉川は離れています。

新古今和歌集を編んだのは後鳥羽上皇です。後鳥羽上皇にも「野田の玉川」を歌枕とした和歌があります。「野田の玉川」はいわゆる「六玉川(むたまがわ)」の1つです。

光添い 野田の玉川 月清み 夕潮千鳥 夜半に鳴くなり

三種の神器なしで即位した第82代・後鳥羽天皇は1180年生まれですが、1197年生まれの順徳天皇にも「野田の玉川」を詠んだ和歌があります。後鳥羽天皇第3皇子が順徳天皇です。

みちのくの 野田の玉川 見渡せば 潮風越して 凍る月影

後鳥羽天皇と順徳天皇が「野田の玉川」を訪れたことがあるのかどうかは確認できませんでした。現地に行かなければ詠んではいけないというルールは当時も今もないはずです。この時代の天皇は幼少時に即位しています。ルイ14世も4歳でフランス国王に即位していますので、神輿は軽いほうがいいという考え方は古今東西を問わない普遍的真理なのかもしれません。

天皇生年没年在位後見
80代高倉天皇1161年1181年1168-1180後白河上皇
81代安徳天皇1178年1185年1180-1185平清盛
82代後鳥羽天皇1180年1239年1183-1198後白河上皇
83代土御門天皇1195年1231年1198-1210後鳥羽上皇
84代順徳天皇1197年1242年1210-1221後鳥羽上皇
▲80-84代天皇

安徳天皇と後鳥羽天皇は高倉天皇の子、土御門天皇と順徳天皇は後鳥羽天皇の子です。土御門天皇は高倉天皇が生きていれば34歳のときの孫ということになります。

多賀城市の天神橋

宮城県多賀城市の「野田の玉川」に天神橋(赤▲)があるのを見つけました。近くに天満宮(赤丸囲み)もありますが、ストビューでは木々の隙間から神社の屋根が見えるだけです。「東風吹かば…」の木製立て看板があるようですので祭神は道真のはずです。

多賀城市の「野田の玉川」
野田の玉川(地理院タイルを加工)

「野田」や「玉川」の町域名は多賀城市に隣接する塩竈市に現存します。「野田」は東北本線・塩釜駅の西側、「玉川」は東側です。玉川の源流手前には「西野田町」もあります。玉川の全長は3キロほどです。

おもわくの橋

天神橋から下流に4つ目の橋が「おもわくの橋」(青▲)です。能因が残した東北の歌枕に西行法師が聖地巡礼を果たすのは1140年代で、晩年の1180年代にも東北を旅しています。どちらの時代なのか「おもわくの橋」を訪れた西行は次のような和歌を残しています。

踏まま憂き 紅葉の錦 散り敷きて 人も通わぬ おもわくの橋

多賀城市Webサイトには次のように記載されています。

野田の玉川にかかる橋で、安倍貞任が見染めた女性のところに通うため渡った橋なのでこの名があるといわれています。また、安倍宗任が虜となって都へ送られたとき、その妻がこの地まで追ってきたが及ばず、橋の上で涙を流した場所であったともいわれています。

多賀城市>おもわくの橋

誰かが「思惑を巡らせた橋」なのではなく、「おもわく」は娘の名前ということです。貞任が娘に会うために架けさせた橋という話も伝わっているようです。安倍貞任の妹は藤原経清に嫁いでおり、奥州藤原氏初代・清衡の伯父に当たります。貞任は前九年の役で討たれ、弟の宗任は伊予から太宰府に流されています。

「おもわくの橋」の2014年6月撮影のストビューを埋め込みました。玉川の川幅は10mはありますが、15mには満たない小さな川です。

西行はレジェンドの足跡である「野田の玉川」を訪れながら、無名の「おもわくの橋」を歌枕にしたことになります。この小さな川なら、能因が詠んだ「千鳥」とは千羽の鳥という意味ではなく、水辺の小鳥の総称としての「千鳥」であろうと思われます。千鳥足のチドリに限定されるものではないようです。

岩手県野田村の玉川海岸

「野田の玉川」については、青森県外ヶ浜町平舘田鳴島、岩手県野田村玉川、福島県いわき市小名浜野田字玉川も候補に上がっています。このうち、小名浜は玉川という川が現存しません。海岸との距離も3キロほどあり、「潮風」が感じられるような環境ではないと思われます。

野田の玉川候補
候補(地理院タイルを加工)

能因は畿内で暮らしていました。平安朝廷の勢力が津軽半島に及んでいたとは思えません。能因が歌枕とした「野田の玉川」が青森ということもないはずです。能因の足跡は宮城野、塩竈、末の松山、壺の碑など多賀城付近が北限です。能因の時代の平泉はまだ見るべきものはなかったはずです。

岩手県野田村については可能性がないわけでもありません。平城京から久慈産の琥珀が出土しているそうですから、流通ルートはあったわけです。野田村の玉川海岸には西行が短期間滞在したという西行屋敷跡があります。西行の行程は平泉の衣川までは確認されていますが、花巻、盛岡、遠野、宮古あたりにその足跡がありません。

「おくのほそ道」の松尾芭蕉も平泉で折り返し、尾花沢経由で日本海に抜けるルートです。リアス式海岸が始まるのが塩竈ですから、松島から平泉に向かうコースは順当です。残念ながら、「野田の玉川」に関しては野田村をプッシュできる要素はほとんどありません。

【外部リンク】
野田村通信ブログ>津波のあとが残る西行屋敷跡(2014/10/09)

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